2009年7月 4日 (土)

露出計 光学式

こんな露出計を知っている人。ほとんどいない。日本語でググっても、詳しいのはない。しかし、欧米にはある。日本製の光学露出計がないかと調べたが、わたくしのレベルでは、というべきかわたくしのレベルでもというべきか、見たことも聞いたこともない。どうも生産されていなかったようだ。戦前のカメラ雑誌の広告をすべて調べたわけではないので断言はできない。で、知っている人が少ないから、これを面白いと思う人も少ない。いやほとんどいない。クラシックカメラファンのごくごく一部の人にいらっしゃるかどうか、というレベルである。竹の石鯛竿の竿敏のレベルをはるかに凌ぐ。こちらは神様仏様竿敏様と信奉する方がいらっしゃるかも知れないのだ。

光学式露出計の原理とは。被写体に向けた、段階的濃淡の指標スケールを読み取って明るさを計測するというもの。明るいものは、かなり濃いフィルターを通しても見えるという次第だ。透過する光量の違いを判別する。透過光が見えなくなるのを読み取るのだ。

現行商品、またはそれに近いものとして入手できるのは、ロシアのOPTEKだ。光学露出計でググると使用記がいくつか出る。ロシア光学製品マニアという方は少なくないのだ。

http://cccpcamera.photo-web.cc/RussianCamera/OtherGoods/ROSHUTSU/Optek/Optek.htm

http://cccpcamera.photo-web.cc/RussianCamera/OtherGoods/ROSHUTSU/Optek/OPTEKManual/Optek2.htm

実はEBAYで、初代の入射光露出計ノーウッドを漁っていたら、格安OPTEKがたくさん目に入った。なぜか、気がついたら一番安いのを注文していた、、ああ、あ、、、。だが送料含めて千円、二千円程度。しかし、ロシアからまだ届いていない。以前のコピーコンタックスの経験では一ヶ月以上かかる。

Optek03 あるネットのページにあったOPTEKの写真を一枚勝手に使わせていただく。フィルム感度はロシア規格でGOSTという。これはISOの90%だということを知って感度設定すれば、意外にちゃんと使えるらしいのだ。

次は外国の露出計のコレクションのページ

http://www.jollinger.com/photo/meters/meters/balda_expophot.html

かなり以前にこれを見つけて仰天いたしました。歴史的セレン式露出計も出ております。世界には凄い人がいる。光学式となるとBertramSuper Bewi PrecisionPhoto Utilities (DREM)InstoscopeBaldaExpophotZeiss/IkonDiaphot。他に光学読み取り式色温度計とか、テスト印画紙を使ったもっと古い露出計などもあります。

Watkinsbee Watkins Bee meterという美しい懐中時計スタイル。Diaphotに似ています。

で、ここで問題はですね、、、なぜか、こういう光学式露出計のいくつかが、手元にあるのです。なんと、それは凄いねとおっしゃってくださる方、まさかいらっしゃらないでしょうね。どうしてこういうことになったのか。昔、クラシックカメラに萌えていたとき、ライカメーターと呼ばれていた、バルナック時代の光学露出計を見つけて入手しました。原理を知っていましたので、手に取り、これがそうなのか、なるほどね、ちゃんと濃淡が見える、おもしろいなあと思った。え、普通は思わなだろうってですか。まあ、そうおっしゃらずに、、、。

Img_4327 Super Bewi Precisionは今でも使えます。これが通称ライカメーターと呼ばれた露出計です。1930年発売。この呼称はライツ社と提携関係にあったからのようです。表記はドイツ語。ドイツ国内向けのようです。横っ腹のバレルにBewi-Spezial-Modell fur die Leica-Kameraと記されています。シャイナー感度しかありませんが、どうもアメリカ感度のようで、しかも、コダックSSの修正指標があります。昔は高感度フィルムなんて普通ではないので、最大指標がシャイナー27度で、つまりASA100です。単眼鏡スタイルですが、使用者に合わせてピント調節ができます。

Img_4332 この単眼鏡を覗くと、昔の電話ダイヤルが見える。数字が消えたところギリギリを読み取る。コレクションページのJames Ollingerはバレルのプリントの海にも拘わらず、Drem Instoscopeより使いやすいといっている。同感。まさに細かい文字の海だ。現行の露出計と比較してみました。だいたい合っている。

このシャイナー感度の換算表は次のページにあります。シャイナーの話は後日。

http://homepage3.nifty.com/doggo/exposuremeter/kando.htm

Img_4330 Img_4333 1937年発売のDrem Instoscopeは使えない。換算がうまくいかないのです。最大感度はシャイナーの31度ですが、どうもおかしい。ヨーロッパシャイナーでもアメリカシャイナーでも合わないのです。現在のところ謎です。

Img_4328 Img_4329 次は、1921年から1934年まで販売された、Zeiss/IkonDiaphot。美しい。日本のオークションでもよく出ます。フィルム感度の設定はない。ということは最初から特定感度に設定されている。どうもISOで50くらいと思われる。その感度でのライトバリューの絞りとシャッターの組み合わせが表示されるように単純化されている。ツアイスイコン企業合同の前の時代のイカ社製だったそうだ。イカ社は有名ですから知る人は多いでしょう。

このページを見ると仕組みがよく分かる。

http://www.lungov.com/wagner/c/074c.html

Img_4335 Img_4337 Img_4336 最後は箱入りのJUSTOPHOTというもっと古い光学式露出計。ウイーンが発祥のようで、ドイツはフランクフルト。モデルDと記されていて、シリアルナンバーは266326。26万代だが、そのまま生産量とは限らない。わたくしでも、使用方法がよく分からないのだ。設定クリックには、なんと2m、8sec、1/5 、1/25 。と4種類が出る。どう見ても、2分と8秒と5分の1秒、25分の1秒。なんだこれは。乾板時代か。単眼鏡の中にも同じ表示が濃淡で出る。おもしろいことがひとつ。DREMという名前は知る人は知る。これは、Dr.E.Mayerというウイーンの人から由来している。この人がパテントを取った。

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2009年6月23日 (火)

露出計 セレン式

単独露出計なんて死語となったのは何年前だろうか。写真機に露出計がなかった時代。明るさを勘で読み取って露光量を決定し、カメラにセット。絞りを決定、露光時間を決定。シャッターを切る。勘ではなくて、なんとか明るさを計測できないかという必要性から出発して、露出計算尺があったり、光学式露出計があったり。やっとセレン光電池に辿り着く。戦前の話です。わたくしはこの時代はリアルタイムではない。浅学ながら、その歴史は。

1932年、アメリカのウエストン・エレクトリック社からウエストン・モデル617というのが世界最初のセレンセルによる露出計らしい。以下、萩谷剛という研究家による。その後ドイツゴッセン社からオンブロックス(ライカメーター)として33年に出た。感光スピードはシャイナーである。シャイナーの説明は省略。さらにドイツのメトラワット社、イギリスのメトロヴィック、などが続き、日本では1937年東京芝浦電気のマツダ露出計が出る。これの感光度はNSG(日本写真学会)である。あ、他にドイツはDINね。ドイツ工業規格。最近までワールドワイドで生きていたのを知る人はいらっしゃるでしょう。フィルムにはASA感度表示の他にDIN表示があって、少年時代のわたくしは、なんじゃこれは、と思った。

Img_4322_2 Img_4323_2 写真のウエストンモデル850というのが1938年。感度はウエストンスピードである。

昔、クラシックカメラ店で見つけて、連れて帰った。ウエストンスピードやシャイナー感度では実用性はない。換算ですか。面倒です。

Img_4324_2 Img_4325_2 もうひとつ、アメリカのGMラバラトリー社のスキャンスタンダード。1950年ころ。ASAスピードになった時代。

Img_4327_3 Img_4326_2 Img_4328_2 Img_4329_2 1945年世界標準となった反射光式のウエストンマスターⅡ。入射光式ではノーウッドディレクター。この両露出計は超ロングセラーで絶対定番であり、知らない人はいないほどだろう。十分に実用になる。ウエストンマスターⅡはさすがに後継機種の方が使いやすい。どちらもセコニックが製造権を得て後継機種が生産されている。

Img_4333_2 ウエストンマスターⅡの後継機種で、セコニックマスター。ライセンス生産と刻印されている。Img_4334_2

ディレクターはセコニックスタジオデラックスという名前になった。この後の機種から現行機種まである定番。ひとつだけというと、スタジオデラックス。正確に適正露光が得られるし、味がある。

Img_4332_2 Img_4331_2

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2009年6月19日 (金)

大メジナの干物

Img_0228a イナンバのメジナがまたまたウチに押し寄せてきちゃった。木曜日の午後、その前夜に南伊豆の入間沖磯にイサキ夜釣りに行った馬場先輩より、伊豆から電話が来た。イナンバのメジナをウチに届けてくれと頼まれた。夜、寄るから自宅にいるか、って。イナンバに行った三島のX君がクチブトメジナ入れ食いで、東京新宿のウチのところにも届けてもらえるようになった次第。話の省略があるが、細かく書くと長くなる。

入間のイサキはどうだったの?と聞くと、それが型は小さいし、たいしたことがなかったとか。馬場先輩と一緒に入間夜釣りに行った某夜釣りの名人の配慮だ。わたくしがちょっと変わっているからといって、気に入られて懇意にしてもらっている。いつもイサキを山のように釣る。50Lと35Lのクーラーが必要と豪語する御仁の一人だ。ウチにイサキを分けてくれるという話を先日のイナンバ釣行の時にしたところだった。塩焼きのイサキがいいか、刺身のイサキがいいかというので刺身が良いといった。今回は塩焼きのイサキだったので、どこをどう変化してきたのか、イサキがイナンバのメジナになった次第。

しかし、先週は平均1.5キロのメジナが約15枚。今週も平均1.5キロのメジナが5枚。オマケに馬場先輩からイサキが5枚。わたくしは悲鳴をあげている。ご近所と草野球と労働組合の仲間が総動員でなんとか消化した。懇意の定食屋さんにお願いして約半分を捌いた。さすがにプロだ。自分で捌いたのが3分の一くらい。それでも定食屋さんの宴会では、刺身がうまい、うまいと大好評だった。延べ20人以上だが、分量はまったく不足しないだけあった。しかし、これだけの分量となると一般家庭であるウチではすでにひんしゅくもの。大ひんしゅくかな。どうするのよ、あなた、これ、、。またー、またなの。どうするのよ、まったく。年期の入った筋金入りの釣り師だよ、いろいろ考えてなんとかするからと答えて、やっとなんとかしたのだ。

Img_0230a さて、今回、大メジナの干物に挑戦。生干しに近いがなかなかいけた。1.5キロのメジナの干物。なんだそれは、、聞いたことがないよ。

Img_0222a Img_0221a Img_0225a 最後はイサキの干物。これもいけます。抱卵しています。白子もいました。塩ゆで。

これで、磯釣りネタ怒濤の3連発。

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2009年6月 9日 (火)

三会合同磯釣大会

三会合同磯釣大会

連続磯釣ネタ。というか、間を置かずに磯釣りに行ったので。イナンバは最初は金曜予定だった。日並みが悪い予想で木曜にした。やはり金曜はイナンバに行けていない。当初、金曜イナンバ、土曜神子元、日曜潮風会例会で石廊崎というようなことを考えていた。若くないので体力が続かないだろうから土曜は休み。金曜の泊まりで良い温泉はないかな。ランランランのプランだった。

最初からパーマネントで7月例会の三会合同が入っていたのだ。潮風会と深川磯研、池袋磯です。一昔、いや二昔前、磯釣りで三会合同大会といえば、東京荒磯、江東磯、リール会のことだった。東京で会員数の多い有力磯釣りクラブが主催した東海汽船チャーターによる、神津、式根の大会だった。全島の渡船貸し切り。このスタイルは東海フィッシングクラブが春秋2回やっていたので、毎年3回、夜行日帰りで神津、式根で磯釣りができた。その後、関東支部チャーターなども行われた時期がある。チャーター船でなければ夜行日帰りは無理。普通では夜行1泊、宿で2泊以上というのが神津の磯釣りの宿命的ネックであった。お金もヒマも大変。お金は節約して貯めてもヒマがない。そういう釣り場だったのです。東海汽船チャーターは有り難かった。わたくしは、事情がなければ、だいたい毎回行きました。釣れなくても、神津の磯の気分は最高。やはり神津、式根だ。

ところが、いつの間にか東海汽船チャーターはなくなった。船が大きくなって、チャーター経費が合わなくなった。参加者が集まらなくなったこともある。渡船の下田往復が始まったこともある。

その後、関東支部の三会合同大会は小コピーが生まれることになる。三国志は魏呉蜀。三国同盟は日独伊。三権分立は憲法の基本。うーんと非核三原則。いくらでもあるな。なんのことだか分からない。とにかく3つあると都合が良い。

だいたい、同じくらいのクラブが条件かな。会員数、歴史など。これが違いすぎるとうまくいかない。三会合同やりましょうか、凸凹クラブさんもよろしいですねといっているし、というような話からはじまった。

われわれの三会は年寄りの多い中小クラブですね。親睦、交流が目的です。他にはポイント磯、中央磯、ドルフィンでやっているし。よく知らないけど、まだあるでしょう。どこも50年近い磯釣りクラブです。

Img_0216a 写真は挨拶する最長老の池袋磯の田中会長。あ、後ろに写っている台というかヤグラ。これは、石廊崎港が古くからのままで改修しないのでこういうことになっている。昔は舳先の低い小型船ばかり。岸壁の高さはそれに併せている。大型の舳先は高くなって乗れないのでこのヤグラを使う次第。満潮では1mくらいまでに海面が上がっている。そういえば、下田フィッシングのあの板ばしご。知っている人は知っている。なんとかならないか。危ない。落ちた人いるんじゃないかな。あそこも古いね。それに合わせて町ができちゃっている。江戸時代からだろう。

Img_0220a 賞品を渡している黄色いユニフォームの人が深川の田上会長。

釣果ですか、まったく駄目。全体でもひどいものです。わたくしはカツオに乗った。釣果情報、ポイント情報、まして釣技情報を求める方は申し訳ない。そういうものを主要目的にはしておりませんのでグーグル検索して探してください。

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2009年6月 5日 (金)

イナンバのメジナ

久々の磯釣りネタ。09年6月初旬現在、磯釣り界で最大の事件は5月からのイナンバのメジナ爆発であろう。なに、知らない。そういう方は、そりゃあ、ちょっと、磯釣りのつっこみ方のレベルが違うかな。すれ違いだ。申し訳ない。

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なにしろ、60センチオーバーのメジナが渡礁できる日並みには連日釣れているのだ。イナンバを知っている方。そりゃあ、あのイナンバまで行けば釣れるのだろうなと考えている磯釣り師、いやメジナ師の方。違う。こんなことが例年ある訳ではない。ある訳がないです。過去、このような爆釣はなかった。クチジロの70、いや75オーバーとメジナの60オーバーの難易度を比較すると、どちらも難しいが、メジナに軍配が上がるかも知れないほどだ。60センチオーバーをなんとしても釣りたいと思っているメジナ師は、今、この機会に万難を排して行かなければ、一生釣れないかも知れない。釣れる可能性の高いところに身を置いて釣りをするというのが正確だ。可能性は普通では圧倒的に低いから、この事実は重みを持つ。普通では宝くじだ。正確に書くと、次のようになる。宝くじ確率が、まあ、10分の1くらいの確率に下がるのだ。

釣り場は、全景の写真の左に低く伸びているところが右本場、その裏にワンドをはさんで左本場があるが見えない。

Img_0198_3 Img_0199 写真は右本場右の渡礁。われわれ3人が乗った右本場左から撮影。右左は船から岩礁を見ての呼称となっている。ここに最初は5人乗った。岩礁に下りるのを乗るというのが普通だ。狭いので1人はその後四畳半に移動。

渡礁前の右本場の全景。右本場右の出っ張りと右本場左の出っ張りが見えるだろうか。磯の名前がややこしい。

202a

現在、09年6月初旬、イナンバはいろいろな自然条件が重なってそういう状況になっている。いつまで続くか分からない。いつ、パッタリ終わってしまうのか分からない。しかしながら、このニュースが電光のように広がっていて、押すな押すなの盛況である。まず、予約が取れない。予約が取れた日に行けるかどうか分からない。それを覚悟で予約を入れておく。凪かどうかは、あたりまえだが平日、休日には関係ない。凪だ、という日にはいつでも行ける人であることが条件だ。普通の人から見ると異常だ。

さて、わたくしは、そのような異常ではない。それほど釣りをしたいとは思わなくなっている。さらに、メジナはそれほど釣りたくない。コマセの弊害に関して、いささかの抵抗感もある。磯釣り師であったが、メジナ師であったことはない。メジナ釣りは釣行の1割以下しかやらないだろうな。磯釣り釣行そのものも少なくなっている。うーん、どうでもよいが、長い。早く要点を簡潔に書け。申し訳ない。

釣れている、明日は凪で渡渉できるから釣りに行くという釣り師がいる。わたくしの先輩もその一人。長い年月そういうことをやっている人では一番かも知れない。そういう釣り師が50人くらいと、その予備軍200人くらいが伊豆下田には、平日に入れ替わり、立ち替わり押し寄せている。カレンダーの休日はない。休日はむしろ敬遠しているのだ。この先輩から行こうと誘われた。そういう釣り師の周辺にわたくしのような、いいかげん釣り師が取り囲んでいるわけだ。

渡船代は32000円。安くはない。詳しくは賀寿丸のホームページ。

http://www1.odn.ne.jp/kouzukazumaru/

釣果も詳しく出ている。行った本日の6月4日はメジナ13人で60オーバーは一枚のみ。クチブトメジナ多数。われわれの仲間3人も右本場の左でクチブトメジナ多数のみ。最大48くらいかな。イナンバでは放流サイズ。というか、イナンバでの価値観の問題。この日は反対側の四畳半側が良かった。

Img_0206_2 これまで、イナンバの位置関係はよく分からなかった。御蔵島と八丈島の中間にある。

写真で66とあるところ。下田からの中間くらいに神津島がある。行きは神津に寄ったが帰りは直行で2時間半くらい。驚くほど船足が早い。昔の海軍魚雷艇がこんな感じではないかと想像する。最大37ノットだそうだ。

わたくしは、ハリス8号、道糸8号。これがイナンバでの普通であろう。ただし道糸はハリスより2段くらい細くても良い。手間をかけてハリスのチモト補強をしている人がいるかも知れない。ハリス10号でも喰うとか聞いた。やはり超大物はハリス切れが多いそうだ。尾長メジナは歯がきつい。飲まれたら切られる。飲まれなければ過大強度となる。竿は3号が標準かも。フカセのメジナ師は4号はまず使わないだろう。

わたくしは当ブログのリンクにある、

http://sakaeya.press.ne.jp/syuminopeiji.htm

の「自称日本一の釣り好き酒屋さん」が改造した4号。以前に譲っていただいたもの。ガイドを標準より増やしているので道糸がタイトになって使いやすい。

Img_0209 Img_0211 写真を見ると、普通よりはるかに多いガイドが分かる。木製の石突きに改造も良い。満点だ。スピニングリールは下に付け、両軸は上に付けるので、ラインとガイドと竿の曲がりがどうなるかがその理由だ。詳細は省略。リールはアブ6500C。スタードラグのタイプのリールは当日、当然だが他には誰も使っていない。普通のスピニングリールが定番であり、メジナ師にはそれが常識だろう。メジナ師はまず使わない。6500番なら60でも65オーバーでも不安なく取れる道具だったが、こんな、おっとり刀のメジナ半素人には、掛からなかった。いや半素人ではなく素人かも。(いつでもメジナのことが頭から離れないのが玄人レベル)結局、熱意の不足と技術不足、経験不足のなせる技か。

Img_0208 ついでだから、わたくしの使っているメジナの道具を並べた。右から4号にアブの6500番、3号に5500番、2号に3500番、1号に2500番。このほかにインナーライン竿のラインナップは強風、雨天、夜釣りが主で、使い分ける。より強い5号竿もある。竿もリールも複数なのでいったいどれだけあるか数えないとよく分からない。ここまでは長期間の年期の入ったこだわりの釣り師なら普通に近い。わたくしが異常なのは、こういう状態でほとんどコマセ釣りに行かない、というかそれほど好きではないことだ。全状況対応型待機状態の道具の悲劇と論評しておこう。まったく使わないスピニングリールがもっともかわいそうである。待機する意義と使命はあるのだ。

Img_0212 バッカンの3段重ねの写真。赤の大は40センチ。荒磯メジナの定番。オキアミコマセが1枚入る。12キロだ。それぞれ、弁当飲み物、濡れるものを入れる。

Img_0207_2 写真のクーラーは自分が持っている中で、35Lの中型。ほとんど使っていない。シマノの24Lの細長いのが好きだ。自分が釣ったのはごく一部で仲間のイナンバの放流サイズを持ち帰った。1キロから2キロが15枚くらいあるかな。他に神津島のイサキの夜釣り用の50Lがあるがいつも底に申しわけ程度しか釣っていない。50Lと35Lの2個持っていく必要があると豪語するのを聞いたことがある。そこまで釣りたくない。

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2009年6月 1日 (月)

明治の日本。おもしろ写真

Img_0178 彩色写真というものをご存じだろうか。手書きの総天然色である。双眼写真にはまいった、というレベルのものが多いが、彩色写真にも、恐れ入りましたというものが少なくない。え、これが幕末明治の写真なの、と驚く。主に本国に帰る外国人のお土産用である。ちょんまげの立派な武士がフルカラーなのだ。

古写真の入門書というか、とにかくおもしろいのは、石黒敬章のもの。この人は肩もこらないし、いいねえ。軽さが好きだ。わたくしはファンの一人というべきか。石黒敬七コレクションを引き継いだ、由緒正しい御仁である。

Img_0176 Img_0177 石黒敬章の基本定番として「幕末明治のおもしろ写真」1996年・平凡社コロナブックス1600円と、「続幕末明治のおもしろ写真」1998年・同がある。これは、まったく無地白紙のごく普通の人にもお勧めできる。

Img_0186 ただし、双眼写真についてはごくごく僅かしか触れられていない。写真館の鶴の探索だ。しかし古写真では手頃だし、本屋にある。その後もこの人の古写真編纂ものがいろいろ出版されています。

石黒は、本のあとがきで、つぎのように書いている。「1987年、朝日新聞社から(甦る幕末)が発行されました。ライデン大学のコレクションを公開した写真集です。中略。(幕末に長崎出島に来た、ボードワン兄弟がその当時収集した写真)と同等の珍写真を、百数十年も経た今になって、しかも小遣い程度の資金で集めることはとてもできません。」

そこで石黒は、切り口をひねり、古写真を読み解くおもしろさに絞ったという。屈指の古写真コレクター、石黒がそうなんだから。古写真のコレクションなど普通の人はできっこない。なにかの時によほど絞ってとしてもだ。欧州古都の、それも東欧あたりの骨董品屋の隅に埃をかぶって眠っているかも知れないが。たまたまそういうのを買って帰る人はいらっしゃるだろう。ザザビーとかいうオークションにベアト撮影古写真が出るかも知れないが。普通のお値段ではないだろう。エジプトスフィンクスのサムライや、ナダールスタジオなどはその筋の誰でも知っているから天文学数字。

Img_0181 Img_0182 しかしながら、「甦る幕末」の写真を見たときのインパクトは強烈である。石黒は珍写真といっているが、時代を写している良い写真ばかりである。繰り返し何回見ても濃厚な感動ものである。類書の中では群を抜く。と思う。Img_0183

Img_0187 Img_0188 同じ朝日新聞から、「甦る幕末」と前後して1986年に「読者所蔵古い写真館」が発行されている。編者の後藤和雄は朝日の写真部の人だが、古写真研究で知られる。この中に薩摩藩主島津忠義のステレオカメラとリシャールのビューアーが出ている。鹿児島の尚古集成館の保存されているそうだ。

Img_0189 Img_0190 Img_0191 ステレオ写真は桜島と江戸城、少年剣士の3ペアーをみることが出来る。しかし、ややや、という双眼写真が掲載されている。立体写真機をロンドンから購入した際に見本として送られてきたガラス彩色ペアーのノートルダム寺院。右と左で前掲の石が全然違うのだ。どういうわけか。左右同時撮影しなければこのように撮影はできる。しかし、見本としてなぜ、頭をひねっても分からない。ハイレベルとすれば、視野闘争Img_0192 という現象がありまして、このような双眼撮影の場合は、ビューアーでごらんになりますと、このように見えますよ、、、という説明見本なのか。だとすると、すごいね。

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2009年5月30日 (土)

明治の日本。G・ポンティング

Img_0168 Img_0169 100年前の写真家。日本ではステレオ写真の愛好家しか知らないだろう。でも、写真の歴史にかなり詳しい研究者レベルならば名前を知っているかも知れない。

Img_0171 Img_0172 ところが、「すぐ分かる作家別写真の見かた」(岡部昌幸・東京美術・平成17年・2000円)という受験参考書のような、お手軽ハウツー教養のような本をパラパラ立ち読みしていたら、並み居る歴史的著名写真作家の中に堂々とポンティングが入っていて驚いた。で、この本を買った。よく網羅されていて、解説寸評の教科書的羅列ではある。わたくしも含めて、お手軽大衆化という面では、これはこれで悪くないと思った。

ポンティングはステレオカードの大手、アンダーウッド社とHCホワイト社とも契約。日本中を旅行してステレオ撮影したことで、ステレオファンには知られている。彼が撮影した双眼写真はステレオカードとなって大量に流通した。そこには1900年前後の明治時代中期から後期の日本が見事に残されている。

Img_0170 小学館から立体写真集「NIPPON 明治の日本を旅する」編・伴田良輔1994年が出ており49ペアーの双眼写真を見ることができる。そのころはランダムドットの3Dブームの時だった。ステレオ写真ファンはその当時、小学館は立派だと尊敬し、とても喜んだ。すばらしいと思った。

Img_0173 Herbert George Pontingは1910年ロンドンのマクミラン社から、In Lotus-Iand Japanを出している。原題は「蓮の国日本にて」。蓮がギリシャ神話の食べ物とすると、訳者あとがきに書いているように、「この世の楽園・日本」という意味か。この抄訳が「英国人写真家の見た明治日本」だ。腰巻きにはスコット南極探検隊同行写真家の「百枚の写真で甦る百年前の日本」とある。講談社学術文庫・2005年・1100円。幕末、明治の西洋人による日本旅行記はなんとなく興味があり、おもしろくて何冊か読んでいるが、文庫本になったときに、あのポンティングだということで早速に拝読した。非常に好意的で日本の風土、風俗と日本人を賛美している。双眼写真の片方の普通の単眼写真だが、100カットが掲載されている。現代の日本人が読むと、むずがゆくなるようだ。それは何だろうか。明治の中期後期の日本社会には江戸時代が半分は残っていたのか、と、はるかに思いを致している。絵のように美しい日本の自然。わたくしの年代でいうと、祖父がやっと生まれた時代だ。

その後、ポンティングは1910年から12年、悲劇の英国スコット南極探検隊に写真と映画のカメラマンとして参加。おおお、そうなのか。で、スコット隊長の南極点アタック隊とは別に12年3月に帰国している。先着された絶望と遭難が判明したのは11月だそうだ。映画と写真は大変な評判となった。1921年「The Great White South」が出版され、1950年まで14版を重ねたロングセラーとなった。こちらの業績は彼の死後、写真集がいくつか新編集されているらしい。探しても簡単には見つからないだろうなあ。オフセットカラー印刷らしい。彼の活躍した時代のリアルタイムの写真集もあるが、もっと難しいだろう。

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2009年5月21日 (木)

で、で、出たー、ニコンステレオレンズ

114735bb 知る人ぞ知る、幻のニコンステレオレンズ。ステレオ写真ファンの中では、この世にこれありと知られた、横綱です。キングです。わたくしは土下座して、ただただ、うへー、おそれいりましたと申し上げるしかない、とんでもない、しろものであります。ライツのステマーのさらに上を行く。その下の序列は、と考えると、マクロリアリストや、ローライドスコープなどが浮かぶ。わたくしは昔、これをいじくったことがあります。どこかに書いております。超稀少品です。

いや、EBAYに出品されていたのです。ステレオオタクというかマニアの話題であり、ほとんどの人がキョトンとするしかない。申し訳ない。お値段は。39440ドルとなっておりますです。400万円より下ですな。独逸ニュールンベルグのPhoto Arsenalというお店が出品しております。誰かが、お買い上げになるかどうか、注目しております。

114735aa

http://cgi.ebay.com/Nippon-Kogaku-3-5-3-5cm-Stereo-Nikkor-outfit_W0QQitemZ350202435100QQihZ022QQcategoryZ3323QQssPageNameZWDVWQQrdZ1QQcmdZViewItem

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2009年5月20日 (水)

日本で最初のステレオ写真っていうと2

とにかく、1939年、ダゲレオタイプ発明。この銀板の後に、ガラス湿板以後も、なんじゃら、かんじゃらの歴史がある。わたくしがそんなものをなぞって書いてもどうしようもないので省略。

Img_4294 Img_4295 そこで、日本の写真の黎明期入門書として、「ちくま学芸文庫」の「幕末写真の時代(小沢健志編)」(1994年刊の文庫化で1996年刊)が手頃というか定番かな。この中に1960年幕府の遣米使節団の野々村市の進と川崎道民らのステレオ印画がある。アメリカ軍艦ポーハタンと咸臨丸のときだ。このときに正使たちはポーハンタンに乗艦して少し先行して渡航したのだそうだ。多分、日本人が撮影された最初のステレオ写真だろう。外国のアメリカのスタジオではあるが。

Img_4298 その後、1864年、幕府の第二回遣欧使節団池田筑後の守がパリのナダール写真館でステレオ撮影されている。ナダールという人はその筋ではよく名前が出てくる有名人だ。1862年の第一回遣欧使節団のときにもステレオ写真を撮影されていたかどうか、不明というか、発見されていないようだ。

外国人による日本国内で撮影された最初のステレオ写真としては、1861年英国公使館員ガワーによる神奈川湊がある。横山松三郎双眼写に先立つこと9年だ。

Img_4300 他に、「中橋和泉町松崎晋二写真場(森田峰子)」朝日新聞社2002年がおもしろかった。こういう探索研究をやったらさぞかしワクワクするだろうな、という感想。専門研究者としての仕事というものと、注ぎ込むパワーには脱帽して納得する。松崎晋二は横山松三郎の弟子とされているが、もうひとつはっきりしていないらしい。晋二は、日本が最初に台湾出兵したときに、従軍写真師として参加。明治7年1974年のこと。政府に写真を納入した後、一般に売り出した。かなり高価であった。政府も明治天皇も写真を見た。そして、写真による報告書の威力に驚いた。当時の撮影は直前にガラス板に感光液を組み立て暗室の中で塗って、乾かないうちに撮影するというもの。感光液の薬品の調合が最初の仕事だ。写真術の体得には修行が必要だった。松崎の双眼暗箱での撮影はもっと後になる。その後、明治8年1975年、政府の小笠原調査行にも同行した。このときも政府に納入した後に販売許可を得て一般に販売した。双眼暗箱は持って行かなかったようだ。

しかしその後、松崎が写真販売所で、「双眼写」撮影して売りますという新聞宣伝のくだりで、著者の森田峰子は同じ写真を台紙に2枚貼り、、、、と書いた。なんじゃと、書くに事欠いて、なんたることを。まったくいただけない。正確を期すには視差とかグダグダと表現が難しく冗長になるってか。同じ写真と書かなければよいだけではないか。双眼写真を2枚貼りでも良いかな。

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2009年5月18日 (月)

日本で最初のステレオ写真っていうと

ステレオ写真の歴史は写真発明とほぼ同時進行であり、写真の歴史はすなわちステレオ写真の歴史といっても良いほどだ。しかしながら、ステレオ写真は僅かな繁栄から衰退という歴史を繰り返したのだ。宿命のようにだ。何故だろう。わたくしにとってはとても不思議だ。管見によれば、ステレオ写真に対する感受性がそれほどでない人間も少なくない。と思っている。よくて、ふーん、おもしろいねえ、で終わる。あまり感動しないという人たちが少なくない。その周辺の人たちを含めてステレオ写真に対してまったく無知の人が大多数を占めるに至る。無知か。知っていても無関心。もちろん、単眼レンズ、片眼の平面写真でそれほど不都合はないかも知れない。それで十分かも。ステレオ写真でなくてはならないということは少ない。いや、ほとんどない。でも、しかしながら、生物学的には単眼視覚は劣っていて欠陥に近い。単眼による感覚ではダメということは生物の進化が示している。自然の摂理だ。視差による奥行きの把握。だから単眼の生き物というのは存在しなかった。伝説や想像では一つ目や三つ目以上があるが。昆虫は複眼だ。あれも、単複眼ではないよね、双複眼だ。単複眼の生物がいたら恐ろしいだろう。ここでさらに、火星探査船のマーズパスファインダーのステレオカメラを見よ。あのレベルでも、いや、あのレベルだから、片眼のカメラ搭載ではなくステレオカメラが必然なのだ。

次はそのNASAのページ。火星のアナグリフのステレオイメージがたくさんある。またステレオカメラを突きだした火星探査車の勇姿も見ることができる。

http://www.nasa.gov/mission_pages/mars-pathfinder/index.html

さて、写真の伝来と日本の写真先駆者たちの苦労。経緯と紆余曲折は、ほぼ余すところなく研究されている。その中で手頃な資料として、東京都写真美術館の、「幕末・明治の東京」「横山松三郎を中心に」という企画展の特集冊子が手元にある。1991年1月のものだ。

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それによると、松三郎は1870年明治3年、師の横浜の下岡蓮杖と共に日光を撮影。半年に及ぶとある。その時のステレオ写真が残っている。たぶん、このときのステレオ写真が日本人による撮影ではじめてのものであろう。

Img_4278 Img_4284 Img_4289 徳川公に献じたそうだ。その後、江戸城や京都、奈良を撮影している。

Img_4286 Img_4287 この中で、ややや、なんだこれは、というのがある。それは、なんと縦位置で双眼写真を撮影しているカット。双眼は左右水平でなければならない。上下双眼ではどうにもならない。どういうことか理解に苦しむ。どういうつもりで撮影したのか。知らなかったのか。そんなことはない。横山のステレオスコープが残されているからだ。暗箱カメラと双眼ビューアーは、指物師佐々木吉五郎が制作したとある。

Img_4279 Img_4283a

外国人写真師の日本国内撮影を含めるとどうなのかな。すでにくまなく研究されていたら笑ってごまかす。長崎の上野彦馬が双眼写真を撮影しているが、年代がはっきり分からない。長崎のグラバー邸にも展示されていたのを見た。普通に裸眼立体視できた。昔、長崎の原水禁に行ったときのことだ。長崎大学にステレオ写真のコレクションがある。ウイルヘルムバーガー、と有名なベアト撮影のステレオ写真もあるようだ。http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=3430

この長崎大学の古写真のコレクションのページはなかなか面白い。カリフォルニア大学のコレクションの日本版だろう。

年代不詳が多いが、次は年代が判明している。「B.K.なるパリの出版社が販売した「中国と日本」と題するステレオ写真のシリーズの1枚。フランス人シャンピオン(Paul Champion)が慶応元年(1865)から翌年にかけての滞日中に撮影したもの。同じ場所で撮った「横浜での日本人の食事風景」という別のカットの写真が存在する。」とある。

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2009年5月11日 (月)

大山講と紅顔の少年、半世紀前

大山講で検索するとあきれるほど出てくる。詳しいのは

http://www.higan.net/blog/edo/2008/06/post_73.html

わたくしは、大山講の体験者として、最後の世代として、現代では貴重かもね。もう少し上の世代の人たちの中では、それほど珍しくないだろうが。実はいつも見ているブログの「気になる下落合」にわたくしの地元の東京新宿、下落合地区の講中の話が出てきた。

これがそのブログのページ。その探索は貴重であり、読んでたいへんおもしろかった。

「富士山は先達いなくちゃ登れない」

http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-05-05

ありゃありゃ、そのうちにボルシーB2というカメラの話を書くときに、この写真と場所は、これこれしかじかと、軽く触れようと思っていた。

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「半世紀前にボルシーB2を使う中学生」こんなタイトルで話になるな、まあまあのネタだと思っていた。これはステレオ写真関連の一連の話題が一段落した後に、クラシックカメラの中で、異端個性派の面白カメラの一連の話題を書こうと思っていた。あっちとび、こっちとびじゃなくてね。あまり古くならないうちに呼応した記事を書かなくちゃと思い直した次第。ボルシーB2については、おっつけて近いうちに書きます。

で、わたくしは小学校の6年か、中学1年か、とにかく、そのあたりで大山参りにいったのだ。概算すると半世紀前のことになる。大山講の有名な落語があるが、江戸時代から庶民のいわゆる物見遊山であり、大人の男の娯楽でもあり、実体は飲む、打つ、買うなのだ。もちろん、飲む、打つ、買うをしない人たちも少なくない。ウチは山に登って、いい空気を吸って、自然の中で気分転換を図るという語源のリクリエーション、気晴らしの娯楽という感じでしたけど。たしかに講中では徹夜で博打を打っている大人がいました。お山なんてそっちのけ。

一緒に行った父親は亡くなり、この大山講の詳しい話は聞けない。写真を見ると、はちまきには麗水講とありますね。袢纏に丸大とありますが、大豆を扱っていたの古くからの業者で名前は記憶にあります。そこが講元でしょう。詳しくは分からない。祖父と父親は何回か大山講に行っていた。御師という人がいて、そこに宿泊しました。たしか、都築道夫の小説の中に御師の檀周りのくだりを読んだことがあります。

http://www.higan.net/blog/edo/2008/09/post_85.html

ここに出ています。大山講の話は何ページもあって、非常に詳しい。半分以上は知っていましたが、そうだったのというのもあった。たいていの人は大山講なんてまったく知らないよね。

15年くらい前に、同じ場所でボルシーB2を持った中年の同じ写真をセルフタイマー撮影しようと思って三脚を持って大山に行った。そうしたら、周囲に厳重な柵が作られていて、同じところには座れなかった。残念。

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2009年5月 5日 (火)

キーストンのワールドツアーブック

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Img_4263_2 Img_4266_2 100年前の世界旅行。ちょうど、現在のテレビ番組の外国ルポルタージュのように、100年前のステレオカメラマンは世界中を旅した。片眼の平面写真とは異なる疑似現実感をその当時のステレオカードのユーザーである中産階級は感動して味わったのであろう。

Img_4267_2 Img_4268_2 わたくしが、100年前のステレオカードを鑑賞するとき、その画面の場所に、また、その時間に片足を突っ込んだような、また、腕を伸ばせばその画面に入れるような気分になるときがある。これは片眼の平面写真ではとうてい味わえない雰囲気であり不思議な情緒であり、楽しい醍醐味である。

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Img_4273_2 Img_4274_2 今回紹介するのはワールドツアーのヨーロッパ編である。ただし、南欧州しかないので、北欧編があると思われる。あるいは英、仏、独あたりは独立しているのかも知れない。Ebayで探すと、たまにこのような箱入りセットが出ている。しかし、やはり稀少であり、値段も安くない。箱が失われ、欠品のカードが出たりして、バラ売りが多い。

アンダーウッドを吸収して寡占化したキーストンビューカンパニー。そのアンダーウッドにもワールドツアーシリーズがあった。いや、大手4社にその他10社くらいあったと思われるステレオカード販売業者はワールドツアーこそが主戦場であったのだろう。

被写体は歴史旧跡、有名建物、観光スポットが多い。そこに映っている人たちが活き活きしているステレオカードが好きだ。

このわたくしのキーストンのヨーロッパ編では鶏卵紙ではなく、普通の印画紙に移行している。また、カードにかなりの反りが出ているのはこの手のステレオカードに共通した特徴である。裏面には解説が印刷されている。

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2009年5月 3日 (日)

万国実体写真協会の周辺

日本にもホームズベイズ式のステレオカードを扱っていた業者があったことはステレオファンならばよく知っているだろう。万国実体写真協会は東京市赤坂区檜町三番地にあった。そのつもりになれば、神田あたりの専門の古書店で見かけることはそれほど珍しくない。1枚2000円くらい。忘れていたが、裏面に鉛筆で2と書き込まれていた。万国実体写真協会の箱入りセットを僅かな差で逃がしてしまった経験談は、このブログで以前に書いている通り。このステレオは皇居の御堀端の楠木正成像。正成だったけ、たしか。

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しかし、一般の人、専門外の人には、ステレオカードなにそれ、だろうね。申し訳ない。普通の立体写真ファンでもほとんど知らない。万国実体写真協会があったという知識だけでも持っていれば、とりあえずステレオ写真ファンとして合格じゃないかな。時代は明治の末期。流行の言葉ではアラウンド1900年だ。アメリカではアンダーウッドからキーストンあたりのステレオカードの黄金時代。万国というからにはアメリカの版権を買って配布したことは明らか。たしか日本でも会員制の販売方式だったはず。アンダーウッドやキーストンは後日。

さらに、今回は立体写真愛好家でも、ん、ん、ん、というレベルの、マニア度はかなり高いものを紹介する。東洋双眼写真館と、活畫館だ。神田の古書店で発見入手したものや、ステレオカードのバラ売りをネットオークションで求めたものの中にこれが入っていた。わたくしも、実はなにこれ状態であった。ステレオファンとして、いろいろな情報、知識をそれなりに漁っていたので、まあレベルは高いと思っていたのだが、それまでの文献では見たことも聞いたこともなかった。ご存じの方はわたくしより遙かに遙かに上の世代のステレオファンだろう。つまりすでに亡くなっていらっしゃるはず。ん、わたくしなど比べものにならない造詣の深い研究者やマニアの方もいらっしゃるだろうから、あらかじめ笑い流してくださいと先手を打っておきますね。

さて、東洋双眼写真館のステレオカードの裏面には、「本邦ニ於ケル双眼写真発明者 村山峰月製造」とある。村山峰月とは何者だ。この名前はどこかの文献で見た覚えがあるようなないような、はっきり思い出せない。

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双眼写真発明と僭称しちゃってるのだ。原理は日本に写真が伝来して以来同時に知られているわけだから、日本ではじめてステレオカードを製造販売したということを誇大宣伝したのかな。さらに同じ裏面には「双眼写真立体写真画製造発売元」「東洋双眼写真館支店」「東京市日本橋区両国橋通り元柳町七番地」と記載されている。

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表面には、「S.Kutiba」「Riyogokubashi tori Tokyo」と印刷されている。くちば、、クチバ、、いったい何だ。名前か。朽葉さんかな。でも撮影者ではないだろう。社長の名前か。手元の「英国ロンドン市街」「仏国パリー市街」「遼陽ニ於イテ黒木軍ニ峰伏ノ俘虜」はすべて共通同様の体裁となっている。ロンドン、パリーは版権買いと見るが普通だ。アンダーウッドもキーストンも版権を買うと、撮影者の名前なんて出さない。と思う。ウチにあるカードの全部は調べていないけど。うん百枚ありますので。

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他方の活畫館ものは特徴がある。画面が四角なのだ。天がアーチ状に曲線になっていない。少数派である。裏面は「Katsugakwan」「Kanda Tokio」「Photographer.Stereoscope」「双眼写真 活畫館」東京神田区旧御成道元佐久間町六番地」とある。裏面がピンクのものとグレーもものがある。すべて鶏卵紙焼き付け貼りであろう。ウチにある中では手彩色のものはない。

どなたか、もっと詳しい情報をお持ちの方はぜひとも、コメントを付けていただきたい。ご質問でも結構です。

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2009年4月 7日 (火)

神田川の桜09年

今年は東京の桜開花から低気温が長く、開花期間が長いのが特徴だ。神田川では4月4日土曜、5日の日曜がピーク。まだまだ数日は見頃だろう。昨年、ブログにアップした日を見ると3月29日の土曜だった。一週間違っている。今年の開花は早かったのだが。Imgp5679_edited1

正面に見えるのは西新宿の都庁の特徴ある建物。小滝橋下流のここの角度でないと見えない。

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同じ場所の水処理センターの階段から俯瞰。

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小滝橋から上流の右岸にある神田上水公園という細長いスペース。ここ以外は遊歩道だからお花見のシートが続いている。撮影方向。上流に向かってか、下流に向かってか。分かる人。右岸、左岸が分からないとダメです。

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小滝橋からだったかな。川のコンクリート三面貼りが下流と違っていて、川幅もやや狭い。

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途中で見かけた枝垂れ桜。近くで見ると相当違いますね。

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2009年3月28日 (土)

潮風会総会の立派な魚拓

3月の中旬だったが、わが潮風会の総会が行われた。だいたいどこの釣りクラブでも同じような総会をやるのだろうが、今年度の魚拓が立派。過去にはもっと大きいのが出ているが、立派な石物とメジナの型物が光っている。

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先達の磯釣番外、永田一脩その3

永田一脩の略歴がネットにあったので追加する。

1923年、第4回帝展に初入選

1927年、前衛美術家同盟の結成に参加

1928年、第1回プロレタリア美術大展覧会に出品

1929年、日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加

1930年、治安維持法により起訴された。

やはり、治安維持法にやられている。モダンダンス誌の前のことである。そして前衛写真協会は1938年である。前衛という名前だけで目をつけられる。モダニズムもダメなのだ。シュールもだめ。その時代では前衛美術もワケが分からないからダメ。この生き方は真に尊敬に値する。小林多喜二が拷問によって死亡したのは1932年2月。

政府は特高警察の資料の全貌を公表していないそうだが、1925年から1945年まで7万人が逮捕され起訴されたのは7千人という数字があるそうだ。被害者側の調べでは虐殺死80人、病気その他の獄死は1400人、送検7万6000人、逮捕数十万人。

また、1976年の共産党の文化評論誌では、194人が取り調べ中の拷問、リンチによって死亡、1503人が獄中で病死、本土での検挙者は7万人という数字がある。日本では少なかった死刑が、植民地の朝鮮半島では民族独立弾圧のために多かったという。

また、ネットから引用。

<<厳密に言えば、日本内地では治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。後述するゾルゲと尾崎の所為は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。思想犯に転向を勧めるノウハウ、論破・説得術は、一種の芸術のような高レベルだったと言われている。また、時代が進むにつれ、「転向」のハードルは上がっていった。初期は、政治活動を放棄すれば思想を変えなくても転向と見なされたが、やがてそれでは不十分とされ、ついには「日本精神」を身に付けることが転向の要件とされた。>>

うーむ。起訴から終戦まで、どのような精神状態でどのような生活したのか。

そして戦後。治安維持法で起訴という経歴は、とにかく一目置かれることは間違いない。

永田一脩は1965年、日本リアリズム写真集団の第二回総会で副理事長になっている。第三回総会で顧問には中島健蔵、木村伊兵衛、土門拳といった高名な人が名を連ねている。

<<日本リアリズム写真集団は、写真の創造活動を通じて表現の自由を守り、日本の平和と民主主義の発展に寄与しようとするプロおよびアマチュアの写真家、評論家、編集者などで構成する自主的な創造運動体です。>>ホームページの目的から引用。

また、1968年東京勤労者釣りの会の初代会長となった。組織は現在まで健在であり、環境保護や、反ブラックバス勢力の一翼を担っている。釣りは、釣り師が業者、業界に踊らされると、営利のためにどこに行くのか分からないことになる。日本の自然を破壊して、日本の文化を破壊することもある。そうさせないための力が必要だ。残念ながら、そういう自覚が少ないから勤労者釣りの会のような運動の意義がある。

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2009年3月23日 (月)

先達の磯釣番外、永田一脩その2

1933年モダンダンスという雑誌が創刊された。永田はこの表紙をデザインしている。以後、寄稿したり、翻訳したりしてこの雑誌に参加している。たとえば、1933年5月号では、表紙デザインの他に「一九三二年の英国ダンス界 永田一脩訳」とか、「ウオルツのヴァリエション(アマチュア・ダンス誌より) 永田一脩」が、目次に現れる。

このころ、明治大学山岳部のOB三羽ガラスと親しくなり、夏は合宿のテントにもぐりこんだり、冬は明大山寮に入り込んだという。釣りより前に山をやった。

その後、どういう曲折があったか不明だが、1938年前衛写真協会という研究会を作りオリエンタル写真のフォトタイムズ社の後援で活動する。滝口修造、田中康夫の名前が出ている。田中康夫は濱谷浩の兄弟で、戦後も写真評論家として活動している。わたくしもかろうじて名前を知っている。元長野県知事ではない。プロレタリア絵画、いわゆる社会主義リアリズムから滝口修造のシュールリアリズム、アバンギャルド芸術に接近するわけだが、この両者の距離は非常に遠いようで実は裏口では繋がっている。コラージュ、モンタージュ。写真の歴史や教科書には定番でお目にかかるものだ。

このころの作品が東京都写真美術館にあった。時代は日中戦争、満州事変、ノモンハン、日独伊三国同盟、もうどうにもならない時代だ。徴兵はどうなのか。1903年生まれだから、モダンダンスが創刊されたとき、30歳。1940年は37歳。写真で見ると、兵隊に取られるような体格ではない。この経歴だと、特高警察や、憲兵隊からノーマークというわけにはいかないだろう。滝口修造も逮捕されたというから、あるいは、そのくらいのことがあっても不思議ではない。

179. NAGATA Isshu, Fire Mountain, 1939 (永田一脩, 火の山)

180. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1930s (永田一脩, 題不詳)

181. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1938c (永田一脩, 題不詳)

211. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1940 (永田一脩, 題不詳)

昭和16年、1941年東京日々新聞に入社。戦争中の話はどこにも書いていないようなので、ずっと新聞社勤務だったのか。18年の冬にスキー仲間と蔵王にいっている。あるいは兵役は内地だったかも知れない。

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2009年3月22日 (日)

先達の磯釣番外、永田一脩その1

この人の全貌というものは世間一般ではすでに忘却の彼方へと向かっている。わたくしには、知れば知るほど、尊敬の、いや敬慕の念を抱かざるを得ない。一度お会いしたかった。わたくしはあなたのファンです。著作はほとんど読み、感化されましたと、、、、。レベルはくらべものにならないが、通底する心情や生き方には、わたくしにとって、共感以上のものがあるからだ。

まず、小田原の大久保藩の武士の家系に生まれた。かなりの実家でないと、芸大からプロレタリア運動、高級遊民の生活はできない。そもそも芸大は天才でないと入ることさえできない。わたくしは早くからだいたいの概要は知っていたが、ネットで永田一脩とググると驚くほど出る。

芸大の西洋画には卒業制作に自画像というものがあるそうだ。これがすごい。

ネットで見つけた次のコメントがある。ヒットして読みあさった件数が多いので、本来なら出所明記して引用するべきだが、未整理のまま許してもらいたい。

<<藤田のほかにも、例えば、永田一脩(ながたいっしゅう)という人がいる。
鼻筋の通った細面で、髪を7:3にわけ、前髪がはらっとひたいに落ちている、現在でも通用するようないい男なのだが、自分の頭の上に、フランス語を書いている。C'est un homme で始まるその言葉には、西洋の写生本のようにバラの花が絡みついている。ちょっとーぉぉぉ。これはもう、どうしてくれよう。きざも休み休みにしてくれ。まぁ、かっこいいので許可。それにしても、色白でちょっと甘めで、神経質そうだけど、でもモテただろうな、という顔だった。(何を見ているんだ私。)
この人は、その後どんな画家生活を送ったのだろう? そもそも画家として活躍したのだろうか。 私ははじめて聞いた名前だった。>>

その後、プロレタリア運動に入る。昭和5年プロレタリア絵画論(天人社)を書いている。

虐殺された小林多喜二の蟹工船がブームになったが、戦前のマルクス主義は並大抵ではない。転向問題はどうだったのか気になるところだ。戦前からわたくしの世代くらいまでだろうが、マルクスボーイは少なくない。とにかく根絶されて戦争に投入したのだ。

そして、「『プラウダ』を持つ蔵原惟人」という油絵を書いている。ネットのコメントを引用する。

<< 初っ端から、林倭衛「出獄の日のO氏(大杉栄のこと)」、津田青楓「研究室に於ける河上肇像」、永田一脩「『プラウダ』を持つ蔵原惟人」、大月源治「告別」……とまぁ、物凄(ものすご)い作品が並んでいて圧倒されるが、僕が足を止め胸を熱くしたのは、日本共産党所蔵の川上律江が描いた「面会」だった。検挙された夫との面会を待つ若い母親は乳飲み子を背負っている、その傍らには白い夏服の官憲が監視している、日に照らされた警察署の殺風景な中庭が見える……、これは、この間、宮本百合子の会で読んできた「刻々」「1932年の春」の世界じゃないか!! 瞬間、脳裏には極めてリアルな物語が浮上する。>>

ネットで探すとこの絵は出てくるだろう。いわゆる社会主義リアリズムであり、以上でも以下でもない。

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2009年3月21日 (土)

先達の磯釣その6

戦後の磯釣りを集約して、磯釣り入門者を啓蒙した先達は何人もいらっしゃるが、著作に限ればこの人の右に出る人はいない。永田一脩さん。名前は、かずなが、と読む。わたくしには、ながたいっしゅうさんの方がすんなり。1903年生まれ、毎日新聞を1958年定年退職。日本磯釣連合が分裂する前まで全磯連相談役。名門の磯釣同和会の人でした。ここの通称は、いそどー、です。ウチの会と同じく、三宅島では今はなき阿古食堂が定宿でした。いそどーの方がいらっしゃった場合は、敬意を表し、三歩さがったものです。でも、ご本人はわたくしが入門したころには磯釣りはほとんどやっていなかったのじゃないかな。1988年に亡くなった。東京美術学校西洋画科を出た。今の東京芸大です。写真家でもありました。ライカⅢFとローライフレックスを使った。門外漢には分からないだろうが、これがまた、左様でございますか、それはまた、そうでしょう、そうでしょう。よろしゅうございますね、まったく、、、というような感激、共感なのである。ローライフレックスはなんとスタンダードで、テッサーの4.5という渋いところ。ライカはエルマーとズミクロン。キヤノンの広角。

今回は最初の本から3冊目くらいまでを紹介する。最初は1960年「山釣り 海釣り」(山と渓谷社・480円)写真は説明レベルではなく作品レベルでとても良い。磯釣り入門記という項に昭和24年、ご本人のはじめての石鯛釣の文章がある。1949年だ。興味深い内容。真鶴の釜ヶ淵。

Imgp5653_edited1_3 Imgp5656_edited1

石鯛竿を曲げているのは長岡輝衛。石鯛釣りの理論家として有名。伊豆中木の白根で1955年5月。この写真も有名でよく知られているのではないだろうか。長岡氏の石鯛は1貫500匁。白根はたまに乗りますけど、磯はまったく変わっていない。Imgp5657_edited1

Imgp5655_edited1 この写真もいいですねえ。1956年。下田神子元島に渡る途中で後ろに見えるのは横根ですね。特徴がありひと目で分かります。この渡船と船頭が良い。わたくしでも入門時代はこれに近いものがありました。操船は梶から梶棒が伸びていて、船頭は足で梶を切った。バレーダンサーのように。なにをいっているのか分からないだろうな、きっと。

Imgp5658_edited2 寒鯛を持っているのは緒方昇氏。毎日グラフの編集長だった。1956年正月、伊豆大島の裏磯で炭焼き小屋を借りて釣行。2貫500匁。詩人でこの人の釣り本もよろしいものです。

漁村の風景。遊ぶ子供。1959年中木。この感じ。いい写真です。

1963年「入門 山釣り海釣り」という、文庫本。山渓文庫(230円)。前記の本の技術解説のつもりで書いたという。渡船風景では延べ竿を束ねているのが目だちます。この渡船は現在から見ると、いかにも危ない。これに近いのには乗ったことがありますが、これはちょっとね。昔の渡船は舳先に手すりがない船がたまにありました。

Imgp5660_edited1 Imgp5661_edited1

Imgp5665_edited1 1964年「釣りの世界」(ひかりのくに昭和出版・400円)。エッセイあり、日記風あり、各論の序論といったのもあり、たいへんにおもしろい。この中に絵画史、写真史、写真術、登山、釣りといったものが好きで新聞社時代の家計は苦しかったとある。昭和34年ころ、新聞社の月給4万円。当時テレビディレクターは本給2万3千円、残業、休日出勤併せてやはり4万円という時代だったそうだ。石鯛釣り道具一式の概算は約2万円。スキーも同じくらいで他の娯楽道具より高いとはいえないとある。一回の出漁は、交通費千円。釣り宿700円、渡船500円、エサ1200円だそうだ。食事その他で5千円は持っていく必要がある。4万円の中堅サラリーマンで月5千円の小遣いは許される娯楽であろうと書いている。現在はだいたい8倍から10倍かな。新聞社、テレビ局だとすると月給はもっといくだろう。現在、神津か銭州の下田夜行日帰りで5万円持っていく必要があるのが現実だ。ゴルフより高いといわれる。

Imgp5667_edited1 この釣り宿の写真も有名。いそどーの磯師でしょう。

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2009年1月25日 (日)

伊豆大島のきょん

潮風会の1月例会は三宅島だったが、海が荒れて連続伊豆大島となった。裏磯の大島公園で見たのが、写真のきょん捕獲檻。

Img_2766a Img_2767a えさはどう見てもアシタバ。山上たつひこのガキデカというのがありましたね。かなり昔です。でもワタクシの年代だと漫画から卒業しているころだから、もっと上の御年配の方々だと多分知らない。なにそれだろうね。死刑のほうは知っているかも知れない。70年代の人気漫画。ナンセンスでおもしろかった。若い人の読後や蕎麦屋とか喫茶店の漫画をパラパラで知っている程度だけど。突然きょんに変身する。倉田まり子―――ってのもあったな。元ネタとして八丈島にきょんという小さい鹿がいるらしいと知った。現在は動物園にいる。その当時も動物園だけだったのかは不明。

Img_2765a Img_2765a_2 大島のおばはんに、きょんの捕獲やっているけど、大島でどうして増えちゃったの、と聞くと、大島公園の動物園から逃げて繁殖したらしい。そういえば大島も三宅も噴火で全島避難なんてのがありましたね。台風もあるし。

ネットできょんを調べると、中国から台湾原産の鹿の仲間。最高級のセーム革が採れる。カメラや眼鏡を拭きました。現在では傷がつくから厳禁となっている。きょんは千葉県でも野生化して大繁殖、被害が目立つらしいとか。こっちは行川アイランドから逃げたらしい。大島では畑の野菜がきょんに喰われて大被害だとか。他にも大島では台湾リスと台湾猿も有名ですね。やはり動物園からでしょう。動物園の管理はよほどしっかりしないといけない。大島は戦前から観光が大きな柱だった。大島砂漠の駱駝とか。手頃な小動物園は全国各地に古くからたくさんあっただろう。、動物の脱走事件はどこでも起こりえる。野生化した大島のきょんにとっては生活環境が良かったのじゃないかな。

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最後の写真は大島名物の屋台。港で一杯飲ませるところ。戦前からあった。年期の入った大島あんこ。出せますものはサザエ、蛤、アシタバ。最盛期は12人いたらしいが、いまでは2人だけ。老齢化。あるいは商売にならなくなったのかも。当日使った竿敏3本継ぎ八幡野調子。帰りの東海汽船はガラガラ。こんなに空いてたのいまだかってなかったな。

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