2012年5月 5日 (土)

八丈島の温泉

一ヶ月前の温泉三昧の話。なんだそれはどういうこと。おとといおいでですな。もちろん本来は磯釣りで4月8日から潮風会有志3人で3日間だった。しかし磯釣りは無惨な結果。まるで喰わない。はい、イシモノの初物を狙い、状況によっては大型メジナという両刀。はい、竿3号、ハリスは4号以上を用意。あわよくばメジナ60cm。だが、お魚のアタリはほとんどない。え、はい、磯釣り聖地のひとつ、八丈小島ですけど。いや、たまには喰っているらしいが、よほどの幸運に恵まれないと無理。ワケが分からなかったが、実は黒潮本流が影響していたことが判明した。
120407
黒潮は八丈を迂回して鉢巻きするという珍妙な現象。U字状流路の中心に八丈があるという形。見事に八丈をよけている。冷水塊がまとわりついたのか、黒潮が冷水塊を八丈に凝集させたのか、そんな想像しかできない。
これが、4月7日の黒潮流路です。なんじゃこれはという流れ。


せっかく意気込んで羽田から飛んだのだが、意気消沈、深く静かに落ち込んだ。こういうこともあるさ。釣れないことが多いからおもしろいのだといいきかせてきた。
さて熟成してきたので、八丈の温泉について。
いろいろありましたが省略して八丈の温泉。北部の八丈富士の方にはなくて、南部の三原山の裾に7カ所あります。1ふれあいの湯、2裏見ヶ滝温泉、3ザ・BOON、4やすらぎの湯、5足湯きらめき、6みはらしの湯、7洞輪沢温泉。
この中で、裏見ヶ滝温泉だけは水着着用なので過去にも入ったことがない。すべて公営の公衆温泉ですが、洞輪沢温泉は地区の自主管理で漁港にあります。地区というか漁村の自治会が温泉を持っているようなもので、まことにうらやましい。ここは無料。
温泉は単純に好きなだけで、マニアの域には遠く及ばない。源泉100%掛け流しが良いくらいは大前提として、まず湧出量と源泉温度、湯質くらいは注意しております。成分分析は勉強が足らないのでよく分からない。温泉に入ったら、石鹸で体を洗うなんてことはしません。出る時は、たとえ酸化鉄の赤い温泉でも、そのまま出る。つまり温泉成分を流すなんてことはしません。むしろ喜んで鉄でタオルを赤く染めてきます。たとえば、硫黄温泉なら数日は臭いが体に付いているというようなことになります。え、温泉が好きという人はみなさん同じでしょ。え、違いますか。
Imgp0055
ふれあいの湯。300円。57.8度で毎分386Lとある。これだけ湧出したら文句はない。薄い緑褐色。強食塩泉。温泉成分総計30g。天井が高い木組みだ。法師温泉に似ていなくもない。
ザ・BOONは春の嵐で修理中であった。以前に数回入ったが、現代風のスパ。サウナもある。国の補助金を使って建てたそうだ。53度で毎分500Lと湯量豊富。文字通りざぶんざぶんと注ぐことができる量だ。
Imgp0058
やすらぎの湯は藍ヶ江漁港の上にある。300円。温泉成分総量10g。泉質は食塩泉だが透明。木の浴槽は底まで板張りで良かった。61度だそうだ。加水しているのかな。毎分90L。
Imgp0062

Imgp0070

みはらしの湯。500円。50度。温泉成分総量37g。茶色。成分は濃い。強食塩泉。とにかく見晴らしが良い。おすすめ度は一番か。遠くに小岩戸が見える。昔に渡船で先端に行った。

Imgp0076

洞輪沢温泉。43度。毎分150L。無料。ここが一番強烈。荒々しくて素朴。漁港にあるが、ダイバーやサーファーにも利用されている。磯釣り師の利用はどうだろう。あんまりないだろうな。他の温泉と違って、塩分が少なく、重炭酸土類泉だそうだ。パイプから空気と一緒にボコボコと豪快に出ている。ごく薄い茶色かな。個人的にはここが八丈ナンバーワン。
実は、洞輪沢温泉の先に干潮の時に入れる野湯がある。汐間温泉だ。いつか入ってみたい。宿題としておこう。

Imgp0075


Imgp0069


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月24日 (火)

丹吉の鯛ネムリ針


前項の「伊豆大島のメジナ」の記事でネムリ針にふれた。そこで道具箱を見たら、買い置きの針の洪水状態を再確認した次第。とても使い切れないほど。針の在庫が大量に残っている。引き出しに一杯だ。丹吉が3分の1くらいかな。
Imgp0029
いくつか撮影した。とくに丹吉の針。200本の大包みと小分けの包み。
Imgp0022

包装デザインが良い。現在も使っているが、丹吉の鯛ネムリの銀掛け。いいねえ。現在も13号をブダイとワサの定番として使っている。そういえば、メジナも13号が中心だな。大きいですか。そんなことはない。大物を釣るには大針が定石。でも狙いより小さいサカナだって当然掛かります。しかし、そういう小型を目的として釣りをしているわけではないですよね。だから、釣れないことがあっても良いのです。
Imgp0023
上から丹吉石鯛の17号。丹吉石鯛ネムリの15号。鯛ネムリの13号。上の二つの包装が古い。
広瀬丹吉。磯釣り入門時に、これが良いと先輩から教えられた。黒焼きよりも銀掛けが良い。錫のメッキです。土佐の200年の老舗。坂本龍馬も丹吉から援助を受けていたという説があるようだ。日本刀の鍛えと同様の当時の秘伝があり、播州の小寺彦兵衛が土佐の丹吉の技法を持ち帰ったという説もある。現在播州は日本の釣り針の90%を占めるようになった。丹吉は万能の伊勢尼を作った。これらのことが、ちょいとググるとでてくる。すごい時代になった。
丹吉の石鯛ネムリはマイナー。角ネムリ以上に、かなり極端ですね。

大昔に伊豆大島のメジナに使っていたメジナ針も出てきた。エビスの城辺12号。
Imgp0024

懐かしい。四国の城辺でオナガの大グレが湧いてブームになったというのを知っていた。だからなんとなく、この針は良いのじゃないかと使ったことがある。丹吉の黒焼きの伊勢尼13号もメジナ用に使った。
Imgp0028_2

これがなんと50円の時代もの。写真は現在のオーナーグレ13号300円と一緒。あらためて丹吉の伊勢尼って大きいね。12号も使ったかな。丹吉磯針というのが太地の伊勢尼。ナイロンの石物用では14号が定番かな。しかし、がまの「あわせちゃダメジナ」は10号までしかない。本流オナガの大物用としたら、なにを考えているのかといいたい。

彦兵衛の針があった。あった、あった。しかし、小寺彦兵衛は戦前に絶えたというので、戦後の彦兵衛は直接の末裔ではないだろう。それが、さらに、50年くらい前に倒産してしまったという。
Imgp0025


| | コメント (7) | トラックバック (0)

2012年1月17日 (火)

伊豆大島のメジナ


0019jpg
我が潮風会の2012年1月例会は伊豆大島。東海フィッシングクラブの新春大島メジナ釣り大会でもある。対象はメジナ。それ以外はすべて他魚扱い。

Th_img_0334jpg
当日は予想天気図のようにまずまずの日和。ただ低気温が続いている。いささか寒い。潮流図によれば、黒潮は御蔵島から三宅島にかかっていて水温21度だ。伊豆大島は16度の潮温帯にある。波は2m。風は西から北東に変わるが弱い。事実弱かった。もう少し荒れていた方が良いくらい。さて、こういった条件でした。
Th_img_0335jpg

竹芝22時出港。6時大島着。よく寝ることができた。いつも5時すぎから下船口前にいまや遅しという一心の釣り師が並ぶ。それぞれの人が目指す地磯の釣り場は先着順なので、一刻も早く車に乗り込みたいココロなのだ。
Photo

Mg_1363

我々の釣り場はトーシキ。玉網が使えないほどの高場だ。すべて豪快な抜きあげ必須。他にはミチイトたぐり方式、手がつけられない大物は落とし網かな。抜きあげってメジナ釣りにそぐわないってですか。いや伊豆大島のメジナはイワシミンチの時代から玉網なんて使わないのが定石です。高々と抜く。大昔ですがグラスの上物名竿NF12Sで2kgまで抜きました。隣で釣ったKさんのぶり上げスナップ。ギリギリまでミチイトを巻き込んでからでないと抜きにくいよ。
Th_imgp0010jpg


ワタクシのリールはいつものアブ5500Cだが、今回の竿は中通し3号。ハリスも3号。喰いが良ければ4号に直すつもりで用意。
Jpg
_rjpg


トーシキでは2年くらい前、条件が良かった時にオナガに針を飲まれてハリスをプツンプツン切られたことがある。大型のメジナがいる。4号ハリスでもダメだった。問答無用で3号竿をギューンと曲げていって、数秒耐えるもプツン。どうにもならない。45cmから50cm以上のオナガと思う。そんな気がする。しかし、バラしたサカナの大きさは想像するしかなくて分からない。クチブトメジナと違って、オナガメジナの口は歯が堅いブラシ状で飲まれたらハリスはひとたまりもない。これはよく知られていますよね。ウチの会のオナガ対策ではメタルハリスが主流です。上物なんてほとんどやらないワタクシは、新しい潮流に飛びつかない。高価だそうで、そんなもの興味がない。で、口先に針掛かりさせるため、ネムリ針を使ってみようと。針先が内側に曲がっていて、針掛かりするはずがない、と知らない人は思うほど。しかし、ブダイのぶっ込みには角ネムリが常道。イシダイタマミもある。ムツもあるし、深海もある。ベテラン釣り師ならネムリ針でもちゃんと掛かることを知っている。そうしたところ、なんとアワセチャダメジナという名称の針があった。こんなのが出ていたのか。ネーミングに笑った。
Imgp0020jpg


本流用だそうだ。でも、ネムリはやはりスッポヌケの心配がないといえばウソになる。無意識に合わせてしまうことも気に掛かる。たまに早合わせで、あ、抜けたと思うこともあったが、評価は予想以上に使えるという結論。これからメジナはこれでいこうと思った。今回スッポヌケはあっても飲まれたことはなかった。
えーと、43.5cmのオナガが最大。45cmのイズスミがおまけ。会心の釣りにはチト遠いのが残念。昨今の大島ではこの程度は上出来と思わないといけない。 クチブトまじりで 型も数もイマイチからイマニくらい。 ガキワサもおまけ。小型のイシガキダイのことです。しかしイズスミはよく引きました。こいつは大型メジナをヤッター、、、と思った。引きはメジナの5割増しといわれていますからね。
ウチの会のメンバー全員が、まあ、よく釣りました。とくに隣でやったKさんは流石。当会の上物専門釣り師ですからこのくらいはやってもらわないと。ポンポン抜いていた。またメジナ大会の全体の検量でも最近では珍しいくらい魚が出ました。ですが、オーと声が出るほどの大型は出なかった。お日和も、寒いを除けば、そこそこ上出来のメジナ大会だったと思います。

東海フィッシングクラブのメジナ大会は全長順でなく重量順なので5位相当だった。短寸のクチブトが上位でした。なぜ相当というと、他魚のイズスミでは4位だったから。重賞を認めないという表彰規定だから上位の魚種をとる。我々はすぐ理解しますが、偏らないで広く参加者に賞品をという精神から当然です。潮風会例会としてはおかげさまで優勝させていただきました。12月下田横根例会から連続だね。真面目で厳しい競釣のココロがほとんどないイイカゲンでのんびり釣りをモットーとするワタクシには希有のことではありました。
Photo_2
                                                                   


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月12日 (木)

2012・お正月


Th_p1010017_2
今年も潮風会の後輩の会員からおせち料理の三段重を送ってもらった。とてもおいしい。一流デパート取り扱い商品を特価サービスというお値打ちです。
Th_p1010020_2

まず地元下落合氷川神社に初詣。昨年のお札などを燃やすお焚き上げ。 氷川神社では境内の一角に四隅の青竹を立てた地鎮祭と同じ祭壇の作り 。紙垂、しでを下げた注連縄の中に大きな竈。なんだろう焚き火釜かな。大量に燃やすのでまさに焚き火状態。注連縄の中は結界ということ。 氏神様のお札と台所の竈の神様である荒神様のお札と破魔矢をいただくのが例年のセット。本当は、てんてるだいじんのお札も貰わないといけないのだが、無神論者であり唯物論者であるからして伊勢神宮は省略。だいたい神棚がない。祖父と父の時代は普通にありましたよウチにもね。当時はたいていのウチに当たり前のようにあった。父は普通レベルの無神論だったけど。ワタクシは地元祭礼の睦会を手伝っていて、氷川明神社は地域の氏神様。 都会では鎮守様という感じはすでにないが、一応崇敬しないとね。しかし、てんてるだいじんなんて不敬なことを書いてはいけない。小学校のころみんながおもしろがってそういっていたのだよね。まあ、国家神道というのはよろしくない。尊皇攘夷もよろしくない。尊皇攘夷って、水戸の徳川斉昭か。おまえは橋本左内か渡辺崋山かって。現在、日本人は無宗教といわれている。マンション所帯の神棚存在率の推移が気になる。でも、無宗教でも原始仏教思想ならばよろしいだろう。
ということで、2日は墓参り。今年は殊勝な心がけだな。
Th_p1010026_2
Th_p1010023_2

それから横浜中華街までドライブ。食べ放題満喫の途中にかなり揺れた地震あり。帰りに早稲田の穴八幡に寄って、「一陽来復」のお守りをいただく。冬至と大晦日と節分の夜中に決められた方位に貼り付けるというのはよく知られていて、商売をやっている人には固定信者が多い。全国区の知名度だが、江戸時代にこれを考えた人は偉い。穴八幡は徳川将軍家が支援したことが知られる。また流鏑馬も有名ですね。当ブログで穴八幡流鏑馬をいろいろ書きたいのだが、良い写真が撮れない。
Th_img_0274


実は、穴八幡のすぐ隣の法生寺でも「一陽来福」というお札がある。穴八幡では類似のお守りがありますが当社と一切関係ありませんと立て看を並べている。目の上のたんこぶかも知れない。

Th_img_0330


実は明治以前には穴八幡の別当寺が法生寺で一体に近いはず。神仏混淆から廃仏毀釈。普通は別当寺の方が上だったはず。寺が人別帳を扱っていた関係。寺社奉行を通して、支配権力と結びついていた。別当はまた、複数の神社を支配管理していた。別当なんてのも死語だよな。時代小説愛好家にはさにあらず。
Th_img_0328
Th_p1090084


日曜には恒例の兄弟新年会。5人兄弟だが、毎年順番に回り持ちでやる。大正11年の母が健在で、ひ孫まで四世代集合。少し欠席があっても今年は大人27人、ひ孫はごちゃごちゃ。とても以前のように一般家庭では不可能となってきて、どこか場所を借りることになっている。毎年欠かさずにこれだけ継続しているのは珍しいかな。小さな従兄弟同士が一列にならんで、おじさんたちからお年玉を貰って喜んでいる情景は楽しかった。「お年玉だよ、みんな並びなさい」

おまけは柴又帝釈天。wowwowで「男はつらいよ」48作品一挙放送という目玉の企画。せっせと録画してdvdに焼いている。初期作品はその時代の風景がおもしろい。出演俳優がみんな若くておもしろい。日本の代表的映画シリーズではある。そうだ柴又帝釈天にいってみよう、と思った。

Th_p1080059


Th_p1020038


Th_p1020031_2

草餅をおみやげに。おいしかった。

Th_p1020047

帝釈天のお守りで、一陽来復と同じように、その年の恵方に向けるという「加太守り」知らなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 4日 (水)

下田横根のイシダイ


Img_1334a_2
はい、たまには本命を釣り上げております。昨年の12月の第一週。なんだか忘れたころのアップですけど。わが潮風会の横根例会。実は10月に横根で50周年をやって、11月は石廊崎で恒例の三会合同。ところが我々のカツオでは潮が速すぎてダメだった。残念。カツオ以外では他会のみなさんは、けっこう良い釣りだった。会のホームページに詳しい。
12月の横根例会は、なぎが悪くて、前日の土曜の朝の時点では中止だと思っていた。波、うねりが3メートル。予報ではこれがずっと収まらない。風は8メートル程度だが、、、常識的には磯渡しの限界だろう。いや、海況が凪てくるか荒れてくるかが分岐点。でも、長年やっているので若いときにはもっと無理をした経験もたくさんありますけど。火事場のような緊急撤収とかも。決して誉められたことではない。そんなにまでして磯釣りなんてしないほうがよろしい。現在とは船の馬力が違っていましたけど。
横根に渡礁すると、貸切であった。三信の船長が信用してくれて、このグループならば大丈夫だ、渡してあげようという気持ちかな。同様に貸切だったってことは、若いころには他でも何回も経験している。三宅三本に4人だけとかね。三本といえば、今ななき晴漁丸。なに、知らないですか、仕方がない。
20111204_02
a href="http://siokaze1.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/01/04/20111204_04.jpg">20111204_04
当日は、いわゆる西高東低の西風。表の本場は吹き上げていて、我々が乗った裏本場には表から横殴りでしぶきが飛んでくるほど。一人だけ遅れてゆっくり準備して、第一投。並んで竿を出した後輩会員はすでに2投くらいしているころ。最初からあたりが出ていて、どうもウツボのようです、とつぶやいたのを聞いた。この時の竿は、雨風の荒天用の中通しイシダイ竿。中通し、評価してますよ。合理的、機能的。シンプル。上物竿も各号フルセット揃えていますけど、なにか。ご不審がありますか。八丈で、イシガキをいやというほど釣ったのはこの中通しだった。もちろん、100mの遠投の釣り場なんてのは、竹竿愛好家のはしくれを自負していても、絶対に竹竿は使いません。そういう時はやはり普通の外ガイドのカーボンイシダイ竿です。で、なんとこの中通しイシダイ竿が突っ込んだ。「ありゃ、なんだよ、なんだよ」とびっくりこいた。横から、「来ましたか、本物ですか」というような声がかかった。一丁前に竿先が突っ込むこともあって、「うん、そうだね、泳いでいる、泳いでいるよ」と話した。「ではウツボではありませんね」というから内心では大笑い。「泳いでいるよ」なんて、とぼけた会話をしたもんだ。「あ、あ、待って待って、カメラ、カメラ」とかいっている。ウチの会のホームページの製作管理人だから、迫真の写真を撮りたい気持ちは当然。思わず、カメラに向かって何回か振り向いてポーズしてしまった。でも、振り向くなんて、こんなカメラ目線ではリアリティとはほど遠いことに気がついた。いや、過去2回も3回もモンスタークラスにどうにもならなくて、イシダイ竿を伸されて不覚を取った経験がある。余裕がありすぎて、あまり小さいとみっともないなと心配した。えーと、最初が3.25キロ。
後から忘れた頃に竿が入ったのがキロちょっと。まあ、なんとか勘弁していただきたい。重さは若いときの自己記録の半分以下ですけど、と蛇足。


<

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月17日 (月)

潮風会創立50周年

10月初旬、下田須崎のホテル「いそかぜ」において、潮風会創立50周年懇親会がおこなわれた。

Imgp1991

当会会員を含めて約30名。毎年恒例の三会合同釣り大会で懇意の深川磯釣研究会、池袋磯釣倶楽部の有志。他には東京磯釣倶楽部、茅ヶ崎磯釣研究会、富士荒磯クラブの方々が参加して下さった。ありがとうございました。

Imgp2008

他にも参加する会が予定されていたが、都合が悪くなって出席できなかった。現在の潮風会は小さな会なので、大人数の大会は無理がある。厳選少人数の計画が妥当だろう。なんだかんだと、ほぼ会員全員に及ぶ早くから事前準備、いろいろな手配で当日を迎えた。創立メンバーである一鷹相談役のあいさつ。

Imgp2006_2

本人が元気なうちに50周年イベント。ほんとうに良かった。ワタクシは在籍40数年。相談役の次の2番目の古参になってからすでに20年になるかも知れない。諸先輩が何人もいらっしゃったのだが。

Imgp2009_2

懇親会の翌日は下田沖の横根と沖横根で釣り大会。渡船は三信丸と須崎丸の2ハイ。横根と沖横は当大会の貸切状態であった。しかし北東強風。潮は一貫して上り。つまり風表側にぶっつけ。釣りができるところは完全な潮裏。条件は最悪。しかも潮が変わらない。

Imgp2017_2

ワタクシはなんとか初代竿敏三本半にワサラビを乗せた。しかし、検量基準の35cmに僅かに足りない。結局これ以外の石物は誰にも出なかった。

帰港して記念撮影。

Imgp2024_2

ホテルの露天風呂から須崎恵比寿島と平磯が眼下に。このロケーションには驚いた。

Imgp2026

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年8月22日 (月)

服部博物館


名人の軌跡、近代釣具の変遷

ご存じ服部名人の歴史が凝縮されている。あの11pmの服部名人です。世代によっては知らない釣り師もいるだろう。まさに一世を風靡した。驚いたこと。金沢八景の旧服部邸のものすごさ。横浜の家が昭和19年に焼けて、金沢八景の別宅に昭和33年まで住んでいたという。600坪の豪邸。村本海事の向かい側だ。お年は昭和4年生まれ。なるほど。早稲田大学を卒業して読売映画社。それで日本テレビの11pmにつながる。読売新聞横浜支局長と八景の釣りで知り合うのが読売との縁だと書いている。

ええ、え。そうだったのか、先輩であった。かなり昔になるが、三宅島の阿古食堂でお会いした全磯連の中部支部の幹部先輩と3人だったかな、意気投合して、それでは全磯連稲門会でも作りましょうかという冗談を思い出した。その一人はベテラン新聞記者であった。
この本は6月ころ本屋で立ち読みして見つけた。パラパラと見て、おお、すごいね、これは、、、すごい。昭和23年1月20日発行。編者、つり情報編集部。発行、日東書院。3200円+税。
腰巻きにはこうだ。「戦後の海へと繰り出した若き日々。懐かしの11pmフィッシング。そして現在、日本の釣りの第一人者服部善郎名人が50年以上に亘り蒐集した釣具の数々。日本の釣りの歴史がここにある。」「世界初の電動リール、腕の延長だった横浜竿、大型カジキと渡り合ったトローリングタックル、世界一の技術を誇る数々の国産釣り針、地方色豊かな日本全国の釣具、仕掛けETC、現在では蒐集不可能なあらゆる釣具を一挙公開、解説」

「釣り情報」誌の通算100回を超す長期連載をまとめたもの。写真と解説はご存知の葛島一美による。
不肖ワタクシさかなちゃんの志向性からすると、たいへんおもしろい。たいへんなコレクションである。日本の釣りというものは、世界に誇るべき文化であって、地方の郷土色も豊かであることは論を俟たない。とくにライン、フックの項は立派。
また、民俗の漁や釣りの香がふんぷんと匂う。その多くは滅びつつある。そうだ、渋沢敬三と宮本常一だ。突然の飛躍、お許しください。柳田国男や折口では捉えることが出来ない。フィールドワーカーの旅人、宮本常一と服部善郎のどこが結びつくのか。結びつく。レベルは違っても日本全国を歩き、服部は海外までも飛び歩いた。おもしろいと思う心、記録に残す観察眼。白戸三平の好奇心にもつながる。これは大先輩、良き先達、服部への讃辞。11pmでも育ちの良いおっとりした温厚な性格が出ていて、立派な人だと思っていたが、奥行きの深さを知って見直した。大橋巨泉も服部善郎も先輩だからというよいしょではない。

釣りの名著の項では、「学生時代に出会った(釣技百科)の衝撃」がある。昭和17年によくこれだけの本が出せたものだと書いている。当ブログでも以前に同様に書いたことがある。この松崎明治の名著は現在でも通用するところがすごい。服部善郎の原点であるともしている。
金沢八景の釣り船での釣りが原点であり、とくにタイのしゃくりの釣りという御仁であるが、あらゆる釣りを駆け巡った。この守備範囲に匹敵する釣り師は他にはいないのじゃないかな。
すべてに渡って、恐れ入りましたという他に為す術はないのだが、ただ一点。台湾リール、車竿の発祥に関する記述。どうも世界最古のリールである寒江独釣図を見逃していると思えるのが気に掛かる。当ブログの日本のリールの歴史でもふれている。
Imgp1804_3


Imgp1805


Imgp1809


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年6月17日 (金)

斜陽の全磯連の再生その1


長く更新していなかった。磯釣りネタ。まじめな論考ですが、部外者にはレレレの話題。申し訳ない。でも磯釣りには行っていた。特筆するようなこともない。5月は下田からゼニス予定だったが荒天で神津島に。名礁金長に乗った。水深は竿下で25m。15m投げたら優に35mから。沖はもっと深くなっている神津島を代表する磯のひとつ。しかし、過去も今回もペケばかり。可能性と予感は十分なのですが。渡船では下田から深川磯研と一緒になってびっくり。6月は南伊豆仲木のイサキ夜釣り。やはり荒天で低いサバ根に乗ったが、次第に波が洗うようになった。急遽渡船を呼んで緊急撤収。頭上からシャワーはひっきりなしで、びしょびしょ。会員の道具が若干流された。
で、6月15日、大崎のホテルニューオータニインで全磯連関東支部平成23年度懇親大会。事業報告、会計報告、前年度表彰など。相変わらず老齢化が進行する。全磯連会長挨拶で、全磯連の再生と広報活動が語られた。おっしゃる通り。喫緊の重要課題であるが困難な道であることもことは間違いない。最盛期から見ると、登録人数だけでも関東支部では3分の1以下か。斜陽といわれて久しい。太宰治ではない。
イシダイ主体の伝統的磯釣りクラブが衰退している。懇親会で同じテーブルとなった竜宮会の昔なじみの知人とこの問題が話題になった。メジナ釣りには比較的に新しい人が入っている。イシダイは少ない。さらに、その少ない釣り師がクラブに入らない。クラブでの磯釣りの魅力が浸透せず、また必要性もほとんどないかも知れない。
メジナ釣りでは、一匹オオカミもいるが、最近はチームナニナニなんて名前でクラブを作り、ユニフォームを揃えて、小魚が群れるように回遊しているのを拝見する。その中で、腕に覚えを持つに至ったウルトラ釣りキチは釣り企業のいわゆるトーナメント志向に走っている。トーナメント志向を批判するわけではないが、釣り産業に対して無自覚、無批判の弊害をワタクシはことあるごとにこのブログでも指弾してきた。中でもバスプロだけはいくら批判しても足りない。釣りジャーナリズム、マスコミ、ミニコミに対しても同様。心ある釣りジャーナリズムは除く。無自覚な動く広告塔になってはいけない。釣り産業に無自覚に迎合するな。釣りの未来にとって良いことは少ない。これが核心だ。釣り産業の誘導。利益利潤追求という原因で荒廃することもあるのだ。無自覚に乗ってしまう一般大衆にも責任がある。自然の生き物相手に限定的に遊ばせてもらっているのだ。そこまでやってはいけないという自制があるかどうか。ウチの会にトーナメンターになりたいという人が入会したこともある。水と油だった。
チームナニナニは当然だが、釣り組織の連帯など必要がない。全磯連など必要がない。しかし、チームナニナニはどこかに仲間とか師弟関係とかのメリットがあるかも知れない。
一方で、チームナニナニも必要と感じない個人主義の釣り人が少なくない。釣りマスコミによって情報はあふれているので困らない。つづく。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年4月23日 (土)

八丈島の気まぐれ

毎年4月に恒例の潮風会八丈島例会。ひとことでいうと、トホホ例会であった。こんなの読んでも面白くないよというのを覚悟で、印象批評を書いてみる。昨年は小型イシガキは釣れた。今年は全員なにも釣れないに近い。

まず出発から大きくつまずいた。羽田7時40分発の1便。現地天候調査ということで待たされた。飛ぶかどうか分からない。出発しても着陸できない場合は羽田に引き返します、ということで定刻を30分以上遅れて離陸。東海汽船にも条件出港というのがある。波浪のため着岸できない時はそのまま引き返しますというやつ。長年伊豆七島で釣りをやっていれば必ずあるはず。

飛行中の揺れはそれなり。一度着陸態勢に入って高度を下げたが、すぐに中止。旋回して様子を見て羽田に戻りますってアナウンス。おいおい、なんだよ、なんだよ。

後で聞くと、その時間から昼すぎまで、台風並に吹いて、豪雨だったそうだ。羽田に戻り、どうするか。宿の手配、餌の手配、渡船の予定もあるので島に行けるなら行こうよと。八丈は午前に2便、夕方に1便ある。夕方の便を空席待ちで確保。八丈の2便は欠航となっていた。風が変わっていたのか、普通に着陸。

宿の主人と話すと、八丈空港は南系統の風に弱いという。滑走路は島のくびれた中央にほぼ東西にある。であるから東西の風は問題なし。北は八丈富士、南は八丈三原山である。冬の北風、北西強風でもよほどのことがなければ着陸できるとか。八丈富士は富士山のように単独山で裾野が広がっている。南は滑走路に山が迫っているし、山塊は複数あって、ごつごつでなだらかではない。北風よりも南風では乱気流が出そうだ。雲の発生も違うかも知れない。

飛行機の欠航とか強風時の着陸って、どうなっているのだろう。ネットでいくつか当たってみた。

平地の大空港ではかなりの横風でも着陸する。その動画がたくさんある。たいしたものだ。風上方向にかなり機首を曲げてエンジンをふかさないと真っ直ぐ滑走路に進入できない。機体は水平。このまま着地すると車輪が壊れるので寸前に機首を戻して車輪を真っ直ぐにする。その場合、機首真っ直ぐで風上側にバンクさせる。5度から6度。下げすぎると片翼が地面をこすってしまう。下げた側の車輪から順に着地する。すごいことやっている。

八丈の南風では乱気流で平地の空港のように無理はできないと思う。冬の西風ではかなり吹いても欠航は少ない。強風だけで天気は良いから視界不良はないだろう。

で、とにかく宿に入った。いつもおいしい料理が出る。

Imgp1044_edited1 

ペンション「タンポポ」

翌日八丈小島に。カンナギは駄目だろう。かなり波がある。イシモノ組3人はコジネの南に乗ることにした。朝のうちは小物の当たり。ウツボ、かんむりベラ、イシガキふぐ。

風が強くなり、波も高くなった。波をかぶって濡れた。あーあ、いいことなし。だいたい潮流が動かない。激流はどこを流れているのだ。黒潮本流が八丈にかかっていた海況図はなんだったのか。後で聞くと、一の根には激流が。一の根に乗ろうかと一瞬は浮かんだのだが、釣り場選択は後の祭り。

渡船のタイヤがすごい。右は小島本島。

Imgp1049_edited1_2

いやがる後輩のO君。無理矢理撮影したイシガキふぐ。こういう泣き笑いもあり。

Imgp1048_edited1_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月11日 (月)

原発、心配だよ


京都大学原子炉実験所 小出裕章氏に聞く
http://www.ustream.tv/recorded/13897618
数日前、東京新聞の「こちら特報部」に福島原発事故・京大の小出裕章・京大助教に聞くを読んだ。東京新聞は立派だ。一面の「筆洗」というコラムがある。「マスメディアとして、原発の「安全神話」をつくることに加担した責任を自らの手で問い直さなくてはならない。新聞の再生はそこから始まるのだと思う。」マスコミの中で、電力会社からの広告は難しくなるかも知れない。広瀬隆と広河隆一を載せると広告引き上げといってきたそうだ。

インタビューの後半で、ありゃと想ったのは、日本の発電能力と原発の関係。よく、原発が3割を担っていて、原発を否定しては停電と節電、日本は青息吐息うんぬんといわれている。そうではないようだ。すぐにお手上げになるということはない。この問題は、どこでもあまり触れられていない。

小出さんがいうように原発がまだ安心できない。祈るばかりである。もうひとつ恐ろしいのは地震だ。日本は50年スパン以内で、どこかに大きな地震が起こっている。プレート型巨大地震が起これば、影響を周囲に及ぼす。たまたま、経済高度成長期と原発展開期は大地震が起こらない時期だったという説がある。東海地震、南海地震、直下型の関東地震。いつ来てもおかしくない。太平洋プレートとフィリピンプレートは変な角度で斜めに押し合っているから、恐ろしい。伊豆諸島はフィリピンプレートに乗って南から移動してきた。とにかく、プレートが動く巨大な力はどうすることもできない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 4日 (月)

日本のリールの歴史その6

もちろん前出の写真集の頃、昭和14年当時には、すでに国産リールもさかんに生産されていた。戦前のこの当時の「リール竿釣りの研究」といった文献がいくつかあることが分かっている。残念ながら、そこまで入手していない。1本くらい読みたいと思っている。前項で書いたように中西が植野善雄に見せたデユウスというリールはアメリカのシェークスピアのレベルワインドリールであったことが分かった。中西はこれをなんと2台持っていたことが分かっている。植野に中西は、もう一台あってこれは予備リールだからじっくり研究してくれというようなことをいっているのだ。昭和のはじめ、輸入リールの状況が類推できる。持っている人は持っていたのだ。

前出ポイント5。国産リール生産の草創期の状況。後に植野精工となるのだが、オリンピック創業者である植野善雄は昭和3年(1928年)「植野オール金属製作所」設立。船釣りの竿掛けを作っていた。金属雑貨類生産の町工場経営で、針金細工の竿掛けがヒットという理解でよいだろう。ハゼとシロギス用と思われる。しかし、リール生産に必要な工作機械がなかった。「犬印リール」のメーカーは曳舟駅近くにあった川窪製作所である。何かの関係を持っていた。曳舟というと、現在の東京スカイツリーの近辺。このリール生産にはもちろん植野が中心となって関わっている。

リールの商標を「犬印」としたエピソードがある。昭和4年12月、善雄の父源太郎が亡くなった。その時、父の愛犬シロが失踪した。シロが戻ってくるように願い「犬印リール」としたとある。サイドプレートに犬の刻印がある。昭和7年5月に3機種発売。しかし初号発売は昭和7年以前とも読める。後に合計5機種になり当時の市場を独占。その後、「犬印リール」は「ドッグ印リール」と改称。しかし川窪製作所でのリール生産は昭和10年で終了。植野がリール生産に直接乗り出したからと読める。

「植野善雄伝」にはオリンピック設立の経緯が記されている。「植野オール金属製作所」を解消して、昭和10年(1935年)最初の「植野製作所」の名称に戻して設立。なんと、当時の淀橋区下落合2丁目937番であった。そして昭和11年「オリンピック」ブランド名の両軸第一号リールを発売。小型70ミリ両軸万能リール。「フィッシュオリンピックリール」の呼称。両軸というと、犬印と同じかも知れない。五輪とトビウオマークの商標が刻印された。よく知られているのは片軸横転リールで、80ミリとか100ミリという呼称のリールである。

Bdcfmqmkkgrhqfi8eznoj8mbm8sfk4g_12

Dnojpimg600x4501297658225nipfdv7964

ワタクシの地元の新宿の下落合に工場があった。ここが近代釣具産業の発祥地であった。えええー、地元年寄りは知っていたのだろうか。聞いたことがない。この詳しいことがぜひとも知りたかったのだ。戦後にはすでになかった。この疑問も「植野善雄傳」に書かれていた。予想通り昭和20年5月の空襲で灰燼に帰したのだ。東京下町大空襲は昭和20年3月だが、こちらの山の手、目白、高田馬場、神田川流域では昭和20年5月に空襲だ。この空襲は地元ではよく知られている。しかし、植野の釣具工場は、ワタクシの90歳の老母に聞いてもどこだか知らなかった。もちろん、町工場や鉄工所が点在していたことは記憶にあるそうだ。どの工場が、何を作っていたかなんて知らないそうだ。昭和10年から昭和20年という期間では無理もない。

ワタクシは以前より断片情報から戦前のオリンピック下落合工場の存在だけは知っていたが、「植野善雄傳」でやっと下落合の番地がわかった。現在の新宿中央図書館の隣のはずである。ということは、ワタクシが生まれる前の戦前のウチの住所からだと100mくらいである。現在の住所からでも300mくらい。そうだったのか。亡父からもそんな話しは聞いていなかった。太平洋戦争が始まってからはリール生産なんて許されなかっただろう。需要もなくなっただろう。当然、なにかの軍需生産に変わっていただろう。ということはまともな稼働は残念ながらごく短期間ということになる。

戦前に両軸、片軸、片軸横転、などの国産オリンピックリールが生産されていたことはいくつかの文献で読んだ。たまにヤフオクに出ていることもある。また、満州国建国以後の製品で、日本、満州パテントと入った片軸横転増速リールを見たことがある。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年3月29日 (火)

原発問題と東京新聞


新聞・マスコミの報道内容は同じようなことがほとんどで、ごく一部に新聞の特徴や差異が認められるにすぎないというのが普通だろう。
3月29日の東京新聞の紙面。一面で東電協力会社「日当40万円出すから」原発作業員確保に躍起。さいたまスーパーアリーナに避難している作業員の携帯に原発メンテナンス業者から。とある。え、え、え、日当がなんと40万円。最も危険な最前線だろうか。記者がその情報を取り込んだわけだが、原発問題では表面に出ない事例、我々が知らない事象となんとか想像が付く事象が相当あるだろう。
人が集まらない。チェルノブイリは26万人が動員された人海作戦だったそうだ。めちゃくちゃもあったかも知れない。短時間で交代すればもっと多数の人が必要だろうと想像がつく。しかし、それでも高濃度で近寄れないことはあるだろう。手が付けられないまま悪化するのが最悪コースだが、手がつけられないまま、現状維持だけの処置をかろうじて行っている、に近いように思えてきた。なんとか悪化しないよう現状維持以上の作業を祈るしかない。
東京新聞の売り物である「こちら特報部」ではこの見出し。「内部被ばく軽視する日本」「政府は安全繰り返すけど」「沢田昭二・名古屋大名誉教授に聞く」「体に入ったらダメージ深刻」「反核の動きを使う側抑える?」「放射線限度量緩和か」「識者 安全な数値存在せず」
東京新聞としては健闘しているのではないか。広瀬隆が力説していることだ。広瀬は反原発で極端なことばかりだという人もいるかも知れない。不安を煽っていて、過大で、誤説が多いという人がいるようだ。最悪事態や、大局判断を知らないことよりも良いと、、、。
広瀬隆と広河隆一の解説を貼っておこう。
たどっていくと他にもあるので見ておいて。

本文記事では、「放射線量限度の数値は政治性がある」と三重大学の竹峰誠一郎氏。その基準も、一般人と職業上放射線を扱う人の限度数値は異なる。「放射線被ばくに絶対安全はない。同じ人間なのに数値が異なるのは、どこまで我慢させるかという受忍限度を示すだけ」
同じ紙面で、「故忌野清志郎さんのタブー曲 よみがえる反原発ソング」「ネットで話題 在庫切れも」これは「サマータイム・ブルース」という発売中止になった曲だ。「原発問題が日本の音楽産業でタブー視されてきた・・・・略」その歌詞の一部は「原子力発電所がまだ増える 知らねえうちに 漏れていた」で1988年世に問うた。
同じ面に「本音のコラム」がある。鎌田慧だ。この人は信頼できる。一部引用しよう。「ついに政府も、炉心の溶融と高濃度汚染を認めた」中略「止めどもなく進行している危険な炉内の反応を横目に見て、わたしたちはごく普通に会社に出勤し、ご飯を食べ、夜は布団のうえで寝ている。「原発難民」の人たちが、故郷に帰れるかどうかはわからない。労働者がどれほどの被ばくをするかわからない。子どもたちえの影響もわからない。汚染がどこまで拡大するかもわからない。原発が地震国には無理なことだけは、わかっていた。それでも政府、電力会社、メーカーは共存を押しつけてきた。脱原発がつぎのテーマだ」
まったくその通り。ワタクシが書きたいことがほとんどある。ワタクシが力んで書いてもグダグダだが、鎌田なら違ってくるかも。
新聞のこの程度の引用と紹介はどうなのかな。新聞社は著作権は厳しいから。評価して応援して、東京新聞読者以外にという方向だから、、、いいか。
なんだか、ニュースを読むとかいう、後追いの、尻馬乗りの、切り貼りのような、、、、申し訳ない。
東京新聞ファンクラブなのかって、、。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月28日 (月)

釣魚1400種図鑑

Img_4643_4

ご存じの小西英人さんから新刊が送られてきていた。「釣り人のための遊遊さなかシリーズ」「海水魚・淡水魚完全見分けガイド」とある。文庫サイズで540ページ以上だ。いつも気にかけてもらって、ありがとう。署名入り。あ、洒落た落款があった。こういう時なので、ずっと温めていて紹介するのが遅れた。

発行は(株)エンターブレイン、発売元は(株)角川グループパブリッシング。2011年3月28日発行。1900+税。これはいつものところですね。サイトをまた紹介しておこう。

週刊釣り曜日。http://tsuriyoubi.jp/

以下は裏表紙のチャッチ。だいたい、ここに訴求ポイントが要約されているからだ。

「前人未踏!海水魚・淡水魚、さらにイカ・タコも加えて1400種以上を収録!生きている魚の写真を使用し、釣魚の見分け方を徹底解説!分布解説・食味評価付き」

うーん、いいねえ、いいよ。

さらに、前書きには、

「外道だ、雑魚だ!・・・・あまり見もせずにこの地球の恵みを逃すのはもったいない。多様性に酔いしれようではないか」まったくその通りだ。英人さん、ごくろうさん。

そして、

「定価を抑えるため、写真の切り抜きからDTPまで、すべてやって、直接、印刷所に納入したので、けっこう大変でしたが、とても楽しい編集作業でした」と同封お手紙に。図鑑の出版もこういうことに当たり前になってきたのですね。うーむ。

巻末の「ぼくは誇らしかった・・・」を読む。うーむ。そうか、よかったね。

これだけの種類があれば文句はない。ないどころか、よくつめこんだものだと感心する。写真がすごい。魚類図鑑の2つや3つは持っていないと釣り人としては失格だよ。長年の釣り師というレベルでは5冊くらいはあるのが普通だろう。うちにはもっと、もっとあるけど。ははは。何十年もやっているとね。いろいろある。ひと昔、フタムカシ前の魚図鑑のレベルを見ると、要求レベルにもよるが、ないよりマシというものもある。それはそれで良かったのだ。釣り師がいくつかの魚図鑑をたまに見るということがなければならないのだろうと考える。ぱらぱらと見ることで良いのだ。

Img_4644

たとえば、ワタクシはハゼ科をよく見ている。それからニザダイ科ね。ベラ科とブダイ科も。さかなちゃんブログの固定読者の方がいらっしゃったとして、ぜひとも、この図鑑くらいは折に触れて忘れたころにパラパラしていないといけないよ、と書いておく。あ、ステレオ写真のマニアに人もこの図鑑を買って眺めてみても損はないよ。とすごいことを書いてしまった。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011年3月27日 (日)

三陸海岸大津波・吉村昭

吉村昭は好きな作家の一人。たしか三陸津波を書いたものがあった。本箱から出して読み直す。明治29年の津波、昭和8年の津波、昭和35年のチリ津波を中心に丹念に取材した作品。吉村が記録文学者として卓越していることは誰も異論がない。

Img_4642

「三陸海岸大津波」の初出は1970年中公新書。昭和45年だ。その後、文庫化されている。文春文庫だ。えーと、これは、2004年3月刊438円+税。

最初から読み直してみる。これだけ書かれていたのに。うーん、これだけの災害が繰り返されるのは何故。

明治29年、昭和8年、昭和38年のチリ地震津波、昭和43年の十勝沖地震津波を岩手県田野畑村で経験した、吉村の取材当時87歳の早野幸太朗氏は「津波は時世がかわってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」と語った。実に残念ながら、そうではなかった。

自然の力が大きすぎて悲しすぎる宿命なのか。あるいは三陸という土地の宿命か。どういうことなのか。歴史に残された三陸津波の主なものを調べると貞観11年(869年)から18件あるという。記録以前にもあったことは間違いない。太平洋プレートが沈み込む日本海溝と密接な関係を持っている。明治29年は26360名、昭和8年は2995名、チリ地震では105名の犠牲者を出した。それなりの対策と知識によって、被害を少なくしてきたように見えた。

明治29年は1896年。19世紀末。明治28年に日清戦争に勝って戦勝気分の時代だった。

そして、田老町の巨大防潮堤の建設の顛末が書かれている。この時点で、土地の古老でもこの防潮堤を軽々と乗り越えて襲ってくる津波を想像できなかった。1000年に一回のレベルでは想像できない。想像したとしても逃げること以外に対応できない。災害経験が古老の記憶となり土地に浸透していても、とにかく高いところまで逃げろという切迫感は時間の経過で風化してしまうのだろう。昭和8年しかり、チリ地震津波しかり。そのチリ地震津波は、地震がないのに津波が来るのだという知見がない時代にも繰り返して襲われていることが分かってきた。記録が残っている380年間に43例の津波が三陸を襲ったが、そのうち9例が南米からの津波だろうと調べられている。地震の揺れと津波の強さは関係しないときもある。昭和8年、横揺れで、関東大震災を女中奉公で験経した人は縦揺れが激しくないから大きくないと油断したそうだ。避難は一刻を争う。とにかく早く高いところに。

三陸では津波を「よだ」という。「津波」は新造語で、明治29年当時は「海嘯」という言葉も使われていた。嘯は「うそぶく」。

磯釣りでは「よた波」という言葉がある。「与太」か。これは海が荒れた日に、たまたま1時間に一回か2時間に一回くらい合成される5割増しくらいの巨大な波というはずであり、そのように使ってきた。2発から4発くらい来る。他に軍艦波というのも聞いた。駆逐艦以上が全速で航行するときに大きい波がくるから気をつけろという言葉で昭和30年ころまで通用したようだ。

ともあれ、必ず大地震は起こる。必ず大津波は襲ってくる。その周期は長いかも知れない。50年に一度でも人の記憶は風化する。100年に一度ではなおさらだ。1000年に一度では、そんな心配をしても無駄ということになってしまう。しかし、1000年に一度というのは人間にとっては遙か昔の遙かな時間というだけであって、長い地球の歴史にとっては尺度が違うだけ。1万年に一度の頻度も同様。尺度が違えば一瞬の時間にもなる。プレートテクニクス理論が確立されて以後、プレートが移動するということを誰もが知るようになった。伊豆半島がはるか南から移動してきて本州に付着したことも常識となった。

原発問題もこういう天変地異をどう評価するかという問題に煮詰まってきたように思える。火山の場合でも予知は進んできたとしても、制御など不可能。為す術がない。避難しかない。関東で長く磯釣りをやってきた釣り師なら、大島、三宅島で何回も繰り返されている噴火に傍観するしかないことを知っている。

原発は地震の歴史や、津波考古学というものを軽視したのではないか。50年に一回あるいは100年に一度大きな地震があって、1000年に一度はとくに大きな地震がくる、というのは納得してしまう。1万年に一度、あるいは数万年に一度、もっと大きく地殻を動かすような大変動の可能性があるのだと覚悟しなければならないだろう。いつなのか分からない。こういうエネルギーに対して、いまのところ為す術がない。その時は仕方がないという覚悟は必要で、原発もそういう覚悟がなければならないはずだが。その覚悟は気配を消していて、1000年に一度を気にしていてはなにもできないと、スルーしているのが現実だ。人間の時間の尺度で想定外といっても駄目なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月21日 (月)

東日本大震災

地震以後、言葉を失った。日本人は言葉少なになる。昨日、東京から大船渡の故郷に戻った知人からやっと携帯電話に一報だけ入った。彼は生きていたとの知らせが仲間に回った。避難所名簿に出てこなかった。死亡者名簿にも出てこなかった。なすすべなく見守る状態だった。彼は生きていた。しかし、亡くなった膨大な人たち。家を、すべてを失った無数の人たち。

そして、原発。東京電力の社会的責任。想定外では済まされない。政府の対応のお粗末。広瀬隆とチェルノブイリの広河隆一の活動を以前から見ていた。ウチは東京新聞だが、他新聞に比較してもマスコミの気概をなんとか維持しているようで、ある程度評価できる。3月21日の「こちら特報部」は「広瀬隆に聞く」という特集。見出しだけひろうと、「どうする原発行政」「まず止めて総点検」「地震に無防備「浜岡」も危ない」「依存政策転換を」「代替エネルギー開発促進せよ」「経団連会長は見直し必要ない」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月15日 (火)

日本のリールの歴史その5補足訂正

その6の下書きを済ませたところ、あやや、なんだ、なんだ、という事実が見つかった。ダイレクトリールに詳しい人が読んだら、すぐに気がついていたかも知れない。あんまりそういう人はいらっしゃらないだろうが、日本にも少数ならいらっしゃるだろう。10人くらいかな。多分読んでいらっしゃらなかった。中西が植野に見せたデユスというリール。シェークスピアのレベルワインドの高級リールであった。(Shakespeare Deuce)例のマニア本にも出ていた。

型番は1905。初号の生産開始年度はいまのところはっきり分からない。シェークスピアの型番は西暦年度とは関係ない。以前このブログで書いた隠しナンバーが生産年度を示す。1905番は戦後も生産されたようで、1905NRなんてのもEBAYにあった。つまり1985年製ということになる。

そうか、その5でワタクシが書いた推定はほとんど間違いということになる。しかし、日本の町工場ではこのリールは生産できないだろう。シェークスピアは1908年にスローガン、時計のような作りと誇らしく掲げたのだ。(Built L ike a watch

犬印のリールのモデルは中西が見せたリールではなかった。違うリールということになる。

Ce0vdlgbgkkgrhqrloe1gbozsmebnthzwcs

で、ワタクシはできるだけ古い生産の1905を探してEBAYから入手した。中西が植野に見せたというリール。日本のリール史に記述されるリールだから、まあ、意義があるだろうと理由を作り上げた。1905HDで1937年製である。いえいえ、ワタクシでも気まぐれでゲットできるので、高価ではありません。リールコレクターには逆立ちしてもワタクシにはなれません。まあ、それでもウチにあるのは、変なリールでなんとか使えるリール、使って楽しそうなリール、意義があって、ワタクシ的に価値のあるリール、ごくごく僅かです。まだ書いていないリールがいくつかあるので、そのうちアップします。しかしサイドマウントリールは日本ではワタクシくらいしかおもしろがる釣り師はいないかも知れない。

アメリカにはリールコレクターマガジンなんてのがある。うへ、たじたじとあとすざりするしかない。英国のそういうブックもあって、取り寄せてみた。ノッチンガムリールを調べるつもりで。英国のトランプカードでおもしろいのがあります。そのうちに紹介します。

EBAYには、現在箱入りのアブレコード2100がなんと2400ドルで出ていました。これはやりすぎです。2100も2300もワタクシは過去一回も落札できません。分かる人、分かりますね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月11日 (金)

日本のリールの歴史その5

前回の台湾リール、サイドマウントリールで、インディアンスタイルという例もあるようだと書いた。よく見たら、インディアナスタイル。アメリカのインディアナ州のことだった。そこのスチールヘッド釣りに使われていた。

さて、前出のポイント4。近代リールの日本への輸入状況。やはり情報が少ないのでよくわからない。少数の日光丸沼フライリール以外に、お金持ちの釣り師向けの欧米の近代リール輸入がなかったはずはない。戦前の欧米高級カメラは明治時代からかなり輸入されているからだ。だがしかし、近代リールの輸入が、いつごろからどのくらいなのか分からない。カメラよりずっと少なかっただろう。欧米近代リールを使った釣りがまだ日本になかった。そういう釣りの浸透とリールの輸入開始が同時進行ではあるが、国産リールの生産開始までは、やはり例外的でごく一部の釣りであったのだろう。

日本のリールの歴史を語る優れた資料として「植野善雄傳 近代釣具開拓の父」(松本國雄・昭和58年植野善雄傳記刊行会)がある。植野善雄はオリンピック釣具の創業者。この人の伝記が出版されたということは以前から知っていた。今回、このブログで展開している日本リール史というようないきがかりから、とりあえず入手して読んだ。実におもしろい。別にもうひとつ、オリンピック釣具の歴史でぜひとも知りたかったことがあったからだが、これは後ほど。

Img_0012_2

ともあれ、植野善雄による国産リールは昭和3年(1928年)、神楽坂上で薬局を経営していた中西英彦が植野善雄に見せたアメリカの「デユウス」という小型リールから出発する。これを植野は分解して調べ、部品配列図を作ったとある。

Img_0005

ウチに1年か2年前EBAYで落札した「アンチークアンドコレクタブル フィッシングリール」(

Antique&Collectible Fishing   Reels –Identification,Evaluation,and

Maintenance)というアメリカのマニア本がある。デユウスというリールを調べてみたが、いまのところメーカーが分からない。メーカー名でなくブランド名なのだろうか。どうもこれが翌年の昭和4年(1929年)植野が図面を作った「犬印リール」のコピー元ではないのか。しかも、価格の安い少年用リールではなかったか。その時代はというと、ちょうど世界経済大恐慌の年である。そのころようやく国産リール生産が始まるのだ。

1929年ころのアメリカのリールをマニア本の写真から上げておく。

Img_0002

B.C.Milam&Son Rustic No.3 Bait ケンタッキーのフランフォートの高級リールで1910年から1920年。このくらいになるとEBAYにもほとんど出ない。

そしてレベルワインドのパテントはシェークスピア(Shakespeare)が1897年。

Img_0001

1907年にはマーホフ(

W.E.Ma rhoff)のパテントでほぼ完成。現在とほとんどかわらないリールがすでに欧米にはいくらでも存在していた。

Img_0003

植野が最初に作った川窪製作所による「犬印リール」の写真がネットにあった。コピーお借りします。なにかあれば削除します。

1932

そして、それとほとんど同じ形式の後日のオリンピックリール時代の写真がある。これは戦後版でも同機種が生産されたようだ。ポイントはビスではなく、「はめ込み式」リールシート組み立て方式である。いかにもコスト削減の作りに感じられる。

植野精工オリンピック300はヤフーオークションに出ていた。落札すれば良いのだが、ウチにある黒潮リールと同じ系統、雰囲気なので、写真だけ使用お許しください。

Dnojpimg600x4501270722909ljrzjk1503

さらに、アメリカの前出マニア本に「ボーイズリール」とする写真がある。メーカー名はアンノウン不明である。コスト削減の作りは特徴的。ピラーはビスを使っていない。

Img_0001_2

また、松崎明治の写真集「日本の釣り」は昭和3年から11年後の昭和14年(1939年)だが、沼津ではいろいろなルートで入手した舶来リールの品評会のようだと書かれている。その数は連日200人から300人とある。先達の磯釣りその4に写真と記事があるが、もう一度写真を上げておく。

Img_0002_2

昭和14年にはそうとうな数量のリールが輸入されていた。そのころ戦争が迫っていたが、戦前の経済的最盛期という時代だろう。

その6に続く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月31日 (月)

日本のリールの歴史その4

永田の「江戸時代からの釣」によれば、大正15年(1926年)から昭和7年(1932年)までリールの実用新案は10種あるという。両軸は昭和4年沼津の鈴木逸郎の考案だけですべて片軸だ。沼津もリールの先進地であり、以前に当ブログでもふれた松崎明治の写真集にもある。その伝統が沼津の黒潮リールとなったのかも知れない。地方都市からリール生産で名を成すというのは普通ではない。北海道出願は、札幌、岩見沢、旭川、小樽と多い。たしかに北海道が日本のリールの先進地であったことが分かる。海岸都市と内陸都市の出願もあり、イトウ釣りにからんでいるという言及を読んだ記憶があるが、どこに書いてあったか忘れてしまった。もしも研究レベルの探求で実用新案の内容を見たとすれば、欧米のコピーがほとんどに違いない。あるいは初歩的、基本的なことを実用新案申請したりもあるだろう。先着順なのだ。また、戦後の日本のリールの歴史もマサニ欧米のパクリまたパクリのパレードであるのはいたしかたがないことではある。実は、現在の中国コピー商品氾濫にあまり文句もいえないかも知れないのだ。おそれいりましたというページを紹介しておこう。日本の輸出品の中には粗悪品が少なくないという時代もあった。

とにかく日本のリールは、雲の上の欧米先進国のリールの水準を見上げて、たどたどしく追尾してきたのだ。であるが、先人の苦労に思いをいたす必要はある。

前出のポイント3は、よくわからない。台湾リールの歴史的情報がほとんどない。日本の台湾併合や、中国本土進出で現地の釣車を目の当たりにしたはず。中国から日本に釣車の持ち帰りはあったと思うが、、、。また、欧州列強も早くから中国に進出したので、白人は現地の釣車を見たはずである。どのように伝播されたのか、あるいは、すでに類似のリールがヨーロッパにあったのか。ここでいう釣車スタイルとはリール軸と竿が直角直付けのもの。基本的にギアなしのダイレクトリールである。

サイドマウントリールと呼ぶ場合もあるようだ。アメリカではインデアンスタイルという事例もある。このスタイルの変形はいくつかお目に掛かるのだ。はたしてノッチンガムリールの変形なのか。中国釣車の模倣なのか。

1886年のメイセルバッチというメーカー。

B7lvo3cgkkgrhqnjmezkg5pjb7bm0qygesw

B7lvoqewkkgrhqvisezneengigbm0qydroq

多分最も有名らしいのはヘドンのワイノア。ワタクシはEBAYでやっと落札できた。毎回、終了寸前に必ずひっくり返されてばかりだったから人気があるらしい。1929年にパテントと刻印されている。サミングバーがパテントなのだろう。

Cccrqegkkgrhqjhyezepstv6bnbjun1lqg_

Ccce2w2kkgrhqrlqezt4fzjbnbjufko9_3

以下の写真はEBAYからです。転用お許しを。

ノッチンガムリールと同時代の木製のサイドマウントリールもEBAYにたまに出てくる。

Cmuw8qwkkgrhqzhiezepo5bncivygg_12

Cmulrqewkkgrhqnmeez2vpu04bncp0byw_1

インデアンスタイルとしているゴイトのアルミダイカスト台湾リール。

Dscn0092

よりシンプルなモデルもある。

B8t8rrwb2kkgrhqrjqezkdksipbm2swjzyv

ゴイトはリールシートに対して、直角にオフセットされている。なるほど、こういうのもありだなと感心する。

日本のオリンピック釣り具の製品で四国のローカル商品。たまにヤフオフで見る、グレという名称のリールがあり、このスタイルの車竿を阿波釣法は使っていた証拠。どこかで読ん記憶がある。歴史のある阿波釣法の古い写真も見た記憶があるが、出てこない。そうだ、たしかに阿波の木駒と紹介されていた。

これはグレに似ているアメリカのリール。

Bdli0b2kkgrhqzkseyjcyeibm8sutsyg_12

現在、石垣島で活躍する台湾リールはプラスチックだ。写真はネットにあったもの。お借りいたします。

Middle_1218209250

これは欲しいなあ。使ってみたい。取り寄せるツテはないかなあ。石垣島に旅行して、台湾リールを持って帰りたい。

ウチにある鹿児島産の台湾リール

その5に続く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月27日 (木)

先達の磯釣番外、永田一脩その6

ふらりふらりのお散歩。大磯に永田一脩の常設美術館がある。「大磯小さな美術館ギャラリーアンドカフェ」。先日訪ねてみた。永田の油絵の現物を見たかったからだ。探せばネット上にいくつか油絵の作品が出てくるので見ることができる。しかし、永田の常設美術館があるとは驚きであった。どういう美術館なのだろうか。

ネットにその小さな美術館のページを見つけたのが発端。それを見て、おおよそのイメージは分かった。大磯駅から徒歩15分。略図をたよりになんとかたどりついた。

大磯には小学校にいく前のガキの時代に海水浴で一度だけ行ったことがある。ほとんど覚えていないが、貝殻細工の土産物とか、うみほうずきを売っていた記憶。その同じ時代に新宿から小田急で江ノ島海水浴場のぼやけた記憶もある。4歳5歳かな。昭和25年ころだろう。大磯は日本の海水浴の老舗中の老舗。以前の記事で紹介した戦前のステレオ写真を持っている。

大磯駅前に明治時代の錦絵の海水浴図柄の絵はがきがあったので帰りに買った。明治初期の錦絵はおもしろいものが少なくない。文明開化の錦絵。

Img_0002

大磯駅前から歩く。

Img_0005

大きなアワビの殻をたくさん飾っている塀。おもしろい。昔はこんなのが獲れたのだろう。

Img_0008

なにか分からない派手なお家。唖然。なんなんだ一体。

Img_0007

夏みかんの似合う神社。湘南の情感あり。

Img_0009

足下を見たら、立派な大磯オリジナルマンホール。立派だ。歩きながら、大磯っていいねえ。なんとなく味がある。

Img_0010

日本の草創期のリゾート地。湘南の発祥地とか。よく意味が分からないが、納得する。東海道の街道時代から由緒ある地名だ。

Img_0014

小さな美術館におじゃまして、ワタクシ永田のおっかけをやっています。インターネット上でいろいろ探求して書いているのです。と館主の尾崎さんにあいさつ。ええ、なんと永田のおっかけですか。非常に驚いて感激なされた様子。そうでしょう。まず、そういう人はそこらにはいないでしょう。ワタクシは磯釣りの先達として、永田先生の著作と、また、その一生の軌跡を知って敬愛の念を深め、師と仰ぐようになった。館主の尾崎さんは永田の大磯在住時代に交流させてもらっていた。その後永田が横浜に越してからも行き来した。永田が亡くなってからすでに23年だ。永田の常設美術館を運営するくらいだから、師と仰ぎ、敬愛する度合いはいうまでもないだろう。小さな美術館はミニコンサートなどイベントにも貸している。

館主はパソコンはやらないそうだ。紹介ページも人にお願いしているとか。この小さな美術館はコーヒーが飲めるようになっている。で、永田の作品と館主の尾崎さんの作品を拝見して、いろいろ楽しくお話をさせていただきました。ワタクシは永田研究家がもしも何人かいたら、その末端の一人である自負しております。と、話しているうちに、テンションが高くなった。え、ははは、永田研究家ですか。永田病が進んだのかも知れない。

戦前のプロレタリア運動の軌跡、新聞社時代、磯釣同和会での活動、リアリズム写真運動での活動、勤労者釣りの会の会長、執筆活動、画業。この他、大磯の地元写真サークルでも教えていたとはじめて聞いた。

オーナー館主は結婚した時に永田から贈られた油絵の小品を持っている。館主自身が永田を師と仰ぎ、油絵を描いている。展示されている作品を拝見した。そ。うですか、尾崎画伯とお呼びしなくては、というと笑っていた。

Img_0015

気さくな方で、なんと生まれはワタクシと同じ年で、学年はひとつ上ということが分かった。

Img_0013

永田の作品はなんといっても、リアリズム。誰でも分かる具象画。

Img_0011

新聞社時代の画業活動はどうだったのか。プロレタリア絵画時代から作品の変化も知りたい。

Top0812062

調べていくと、永田追悼文集というのがあるらしい。なんとか蒐集してみたい。調べて、なんとかたどりついて目星はついている。ウチにある手頃な油絵がこれ。最近入手した大正池である。

E_seraphimimg600x4451295177457yxqa5

年代が分からない。どこかに出展したものらしい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年1月24日 (月)

3Dヴィジョンズ東京都写真美術館

東京都写真美術館の「映像をめぐる冒険vol.3 3Dヴィジョンズ –新たな表現を求めて」を先日見てきた。3D映像が不思議で珍しいものではなくなりそうな昨今。以前に行われていた同じような展示会と違ってきたのかな、という期待もあった。期待はちょっと裏切られた。新たな表現を求めて、、、というと、表現というからには、芸術作品だろうか。社会の実用品と対局であるような前衛アートだろうか。しかし、なんだか、驚きがない。それならば、しかるべき熟成も高度な技術や職人技もないような。ワタクシの目が厳しいわけでもない。ステレオのアンセルアダムスや土門拳を探しても当然ない。

スターウォーズの動画ホログラフィーでも実現したら腰を抜かす。あれは難しいだろうな。

でも、3Dテレビが浸透してきた時代だから、その土台を使い倒すようなことはスタートラインでなければならない。それを踏まえて、どういうことを見せてくれるのか。

東京都写真美術館収蔵品の展示はそれなりで、お茶を濁す程度。啓蒙としてはこんなものだろうが。クリスタルパレスのダゲレオタイプ現物はたしかに自慢だろうが、何回も見ている。たとえば、T.R.Williamsの初期作品でも蒐集するとか。ブライアンメイが集めているのだから、東京都写真美術館なら蒐集できるはず。これは優れているし、ステレオカードとしての歴史的意義がある。ダゲレオタイプなら、当時の王室や上流階級の個人肖像ステレオ画像がある。アメリカならアンダーウッド以前のカードがいくらでもある。スコット探検隊に同行したポンティングの南極のステレオ写真を探し出して買い付けしたら、おお、と感激する。ラルティーグの作品を片眼でないオリジナルで蒐集したり。戦前のライカステマー撮影のコダクロームがどこかにあるはずだ。戦前のコダクローム。そういう人が何人かいたに違いない。その時代の臭いをぜひ見たい。そうだ、昔のステレオ写真はその時代の臭いが写っていて、それを見るのだ。ワタクシがホームズステレオカードやアメリカの戦後、50年代60年代のリアリストマウントをそれぞれ数百枚蒐集してしまった理由でもある。しかし、ラウムビルトの展示がなかったような。以前当ブログで記事にした千葉大学の収蔵品にあるくらいだから、ナチスドイツと一体となったステレオ写真のひとつの歴史として意義がある。

うーん。なにをいっているのか分からないかも知れない。ちょっとしたステレオ写真ファンならそうだそうだと分かりますよね。

ずっと以前、渋谷ブンカムラでラルティーグをやっていた時、大きな鏡2枚のホイートストンビューアーを見たが、今回も同じものを見て、やはりすごいと感嘆した。万国実体写真協会のオリジナルビューアーとオリジナルブックをはじめて見た。活画館ものとの違いを気にする人は他にいないだろうなあ。

Img_0017

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«日本のリールの歴史その3