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2009年3月28日 (土)

先達の磯釣番外、永田一脩その3

永田一脩の略歴がネットにあったので追加する。

1923年、第4回帝展に初入選

1927年、前衛美術家同盟の結成に参加

1928年、第1回プロレタリア美術大展覧会に出品

1929年、日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加

1930年、治安維持法により起訴された。

やはり、治安維持法にやられている。モダンダンス誌の前のことである。そして前衛写真協会は1938年である。前衛という名前だけで目をつけられる。モダニズムもダメなのだ。シュールもだめ。その時代では前衛美術もワケが分からないからダメ。この生き方は真に尊敬に値する。小林多喜二が拷問によって死亡したのは1932年2月。

政府は特高警察の資料の全貌を公表していないそうだが、1925年から1945年まで7万人が逮捕され起訴されたのは7千人という数字があるそうだ。被害者側の調べでは虐殺死80人、病気その他の獄死は1400人、送検7万6000人、逮捕数十万人。

また、1976年の共産党の文化評論誌では、194人が取り調べ中の拷問、リンチによって死亡、1503人が獄中で病死、本土での検挙者は7万人という数字がある。日本では少なかった死刑が、植民地の朝鮮半島では民族独立弾圧のために多かったという。

また、ネットから引用。

<<厳密に言えば、日本内地では治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。後述するゾルゲと尾崎の所為は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。思想犯に転向を勧めるノウハウ、論破・説得術は、一種の芸術のような高レベルだったと言われている。また、時代が進むにつれ、「転向」のハードルは上がっていった。初期は、政治活動を放棄すれば思想を変えなくても転向と見なされたが、やがてそれでは不十分とされ、ついには「日本精神」を身に付けることが転向の要件とされた。>>

うーむ。起訴から終戦まで、どのような精神状態でどのような生活したのか。

そして戦後。治安維持法で起訴という経歴は、とにかく一目置かれることは間違いない。

永田一脩は1965年、日本リアリズム写真集団の第二回総会で副理事長になっている。第三回総会で顧問には中島健蔵、木村伊兵衛、土門拳といった高名な人が名を連ねている。

<<日本リアリズム写真集団は、写真の創造活動を通じて表現の自由を守り、日本の平和と民主主義の発展に寄与しようとするプロおよびアマチュアの写真家、評論家、編集者などで構成する自主的な創造運動体です。>>ホームページの目的から引用。

また、1968年東京勤労者釣りの会の初代会長となった。組織は現在まで健在であり、環境保護や、反ブラックバス勢力の一翼を担っている。釣りは、釣り師が業者、業界に踊らされると、営利のためにどこに行くのか分からないことになる。日本の自然を破壊して、日本の文化を破壊することもある。そうさせないための力が必要だ。残念ながら、そういう自覚が少ないから勤労者釣りの会のような運動の意義がある。

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