文化・芸術

2017年2月 3日 (金)

新宿下落合氷川神社の節分祭

地元神社の豆撒きに行きました。最初に福の神が神前で舞。鬼がやって来て、豆をぶつけられる。弓で追い払われる。追儺。ついな。普通は読めない死語。
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2014年11月27日 (木)

落語黄金餅のコースを歩く

下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私もくたびれた。
志ん生の十八番。https://m.youtube.com/watch?v=yxi0W95a_9o&feature=youtu.be
https://m.youtube.com/watch?v=yxi0W95a_9o&feature=youtu.be

あった。リンク切れになっていないヤツ。ヒットラーに志ん生の黄金餅をシンクロさせた動画。絶品です。よくこんなもの作った。ぜひ観てもらいたい。最初にオリジナルの落語を聞いてからこっちをどうぞ。ダマされたと思ってクリックね。http://m.youtube.com/watch?v=rN0cFG9FK7cリンク
https://m.youtube.com/watch?v=rN0cFG9FK7c

さあ来たぞ。上野山崎町。万年町になって東上野となった。江戸最貧民の町の一つ。大道芸などの部落民の町らしいです。台東区役所あたりとしてスタート。




アキバの街を抜けて


筋違い御門が万世橋






その2に続く

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2014年5月17日 (土)

紅白仏合戦写真展「仁王さんと観音様」

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大江戸線落合南長崎にあるアイテラスで無料。仁王写真家の渡邊 丈士さんと、巨大仏像写真家の半田カメラさんのコラボ。
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東京新聞の記事で大仏女子の半田カメラさんと写真展を知った。読んで、いいねえ、おもしろいじゃないの、なにアイテラスか、ウチから歩いて10分。仁王行脚は全国1400組。一対ですから2800体だろうな。大仏女子である半田さんは全国120ヶ所。今回はほとんど観音さま。大船観音、高崎観音、東京湾観音は誰でも知っている。会場で人気投票をやっていた。美人は大船観音だと思うけど。仁王さんね、国宝重文級の運慶、快慶もよいが、近世の俗っぽい真っ赤な仁王さんが味を出している。そのレベルは普通は世間には知れ渡らない。その地元でも、注目されていないかも知れないような仁王さん。お寺で山門を作り、資金があれば仁王さん一対が付き物として当然ということだろうが。仁王さん欲しいけど省略ということもあったのだろう。こういうレベルの仁王さんは、多分地元自治体観光課で取り上げられるのがセイゼイで、下手すると全く無視だろう。全国に知られるなんて超変人マニアでないとあり得ない。
こういう写真は投稿型のネット上の仁王さん写真図鑑、ネット上の巨大仏像写真図鑑になったら最適じゃないかな。同好マニア数人が集まればもっと充実する。でも、個人でプロ写真家として著作権重視路線だとどうかな。クレジットのスタンプを画像の端に入れるということはよく見るからに、無断コピーには一定の歯止めになるのかならないのか。写真のウイキペデイアを目指す図鑑ドットコムさんの範疇だな。橋渡しくらいはできるけどね。

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2011年8月22日 (月)

服部博物館


名人の軌跡、近代釣具の変遷

ご存じ服部名人の歴史が凝縮されている。あの11pmの服部名人です。世代によっては知らない釣り師もいるだろう。まさに一世を風靡した。驚いたこと。金沢八景の旧服部邸のものすごさ。横浜の家が昭和19年に焼けて、金沢八景の別宅に昭和33年まで住んでいたという。600坪の豪邸。村本海事の向かい側だ。お年は昭和4年生まれ。なるほど。早稲田大学を卒業して読売映画社。それで日本テレビの11pmにつながる。読売新聞横浜支局長と八景の釣りで知り合うのが読売との縁だと書いている。

ええ、え。そうだったのか、先輩であった。かなり昔になるが、三宅島の阿古食堂でお会いした全磯連の中部支部の幹部先輩と3人だったかな、意気投合して、それでは全磯連稲門会でも作りましょうかという冗談を思い出した。その一人はベテラン新聞記者であった。
この本は6月ころ本屋で立ち読みして見つけた。パラパラと見て、おお、すごいね、これは、、、すごい。昭和23年1月20日発行。編者、つり情報編集部。発行、日東書院。3200円+税。
腰巻きにはこうだ。「戦後の海へと繰り出した若き日々。懐かしの11pmフィッシング。そして現在、日本の釣りの第一人者服部善郎名人が50年以上に亘り蒐集した釣具の数々。日本の釣りの歴史がここにある。」「世界初の電動リール、腕の延長だった横浜竿、大型カジキと渡り合ったトローリングタックル、世界一の技術を誇る数々の国産釣り針、地方色豊かな日本全国の釣具、仕掛けETC、現在では蒐集不可能なあらゆる釣具を一挙公開、解説」

「釣り情報」誌の通算100回を超す長期連載をまとめたもの。写真と解説はご存知の葛島一美による。
不肖ワタクシさかなちゃんの志向性からすると、たいへんおもしろい。たいへんなコレクションである。日本の釣りというものは、世界に誇るべき文化であって、地方の郷土色も豊かであることは論を俟たない。とくにライン、フックの項は立派。
また、民俗の漁や釣りの香がふんぷんと匂う。その多くは滅びつつある。そうだ、渋沢敬三と宮本常一だ。突然の飛躍、お許しください。柳田国男や折口では捉えることが出来ない。フィールドワーカーの旅人、宮本常一と服部善郎のどこが結びつくのか。結びつく。レベルは違っても日本全国を歩き、服部は海外までも飛び歩いた。おもしろいと思う心、記録に残す観察眼。白戸三平の好奇心にもつながる。これは大先輩、良き先達、服部への讃辞。11pmでも育ちの良いおっとりした温厚な性格が出ていて、立派な人だと思っていたが、奥行きの深さを知って見直した。大橋巨泉も服部善郎も先輩だからというよいしょではない。

釣りの名著の項では、「学生時代に出会った(釣技百科)の衝撃」がある。昭和17年によくこれだけの本が出せたものだと書いている。当ブログでも以前に同様に書いたことがある。この松崎明治の名著は現在でも通用するところがすごい。服部善郎の原点であるともしている。
金沢八景の釣り船での釣りが原点であり、とくにタイのしゃくりの釣りという御仁であるが、あらゆる釣りを駆け巡った。この守備範囲に匹敵する釣り師は他にはいないのじゃないかな。
すべてに渡って、恐れ入りましたという他に為す術はないのだが、ただ一点。台湾リール、車竿の発祥に関する記述。どうも世界最古のリールである寒江独釣図を見逃していると思えるのが気に掛かる。当ブログの日本のリールの歴史でもふれている。
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2011年1月27日 (木)

先達の磯釣番外、永田一脩その6

ふらりふらりのお散歩。大磯に永田一脩の常設美術館がある。「大磯小さな美術館ギャラリーアンドカフェ」。先日訪ねてみた。永田の油絵の現物を見たかったからだ。探せばネット上にいくつか油絵の作品が出てくるので見ることができる。しかし、永田の常設美術館があるとは驚きであった。どういう美術館なのだろうか。

ネットにその小さな美術館のページを見つけたのが発端。それを見て、おおよそのイメージは分かった。大磯駅から徒歩15分。略図をたよりになんとかたどりついた。

大磯には小学校にいく前のガキの時代に海水浴で一度だけ行ったことがある。ほとんど覚えていないが、貝殻細工の土産物とか、うみほうずきを売っていた記憶。その同じ時代に新宿から小田急で江ノ島海水浴場のぼやけた記憶もある。4歳5歳かな。昭和25年ころだろう。大磯は日本の海水浴の老舗中の老舗。以前の記事で紹介した戦前のステレオ写真を持っている。

大磯駅前に明治時代の錦絵の海水浴図柄の絵はがきがあったので帰りに買った。明治初期の錦絵はおもしろいものが少なくない。文明開化の錦絵。

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大磯駅前から歩く。

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大きなアワビの殻をたくさん飾っている塀。おもしろい。昔はこんなのが獲れたのだろう。

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なにか分からない派手なお家。唖然。なんなんだ一体。

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夏みかんの似合う神社。湘南の情感あり。

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足下を見たら、立派な大磯オリジナルマンホール。立派だ。歩きながら、大磯っていいねえ。なんとなく味がある。

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日本の草創期のリゾート地。湘南の発祥地とか。よく意味が分からないが、納得する。東海道の街道時代から由緒ある地名だ。

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小さな美術館におじゃまして、ワタクシ永田のおっかけをやっています。インターネット上でいろいろ探求して書いているのです。と館主の尾崎さんにあいさつ。ええ、なんと永田のおっかけですか。非常に驚いて感激なされた様子。そうでしょう。まず、そういう人はそこらにはいないでしょう。ワタクシは磯釣りの先達として、永田先生の著作と、また、その一生の軌跡を知って敬愛の念を深め、師と仰ぐようになった。館主の尾崎さんは永田の大磯在住時代に交流させてもらっていた。その後永田が横浜に越してからも行き来した。永田が亡くなってからすでに23年だ。永田の常設美術館を運営するくらいだから、師と仰ぎ、敬愛する度合いはいうまでもないだろう。小さな美術館はミニコンサートなどイベントにも貸している。

館主はパソコンはやらないそうだ。紹介ページも人にお願いしているとか。この小さな美術館はコーヒーが飲めるようになっている。で、永田の作品と館主の尾崎さんの作品を拝見して、いろいろ楽しくお話をさせていただきました。ワタクシは永田研究家がもしも何人かいたら、その末端の一人である自負しております。と、話しているうちに、テンションが高くなった。え、ははは、永田研究家ですか。永田病が進んだのかも知れない。

戦前のプロレタリア運動の軌跡、新聞社時代、磯釣同和会での活動、リアリズム写真運動での活動、勤労者釣りの会の会長、執筆活動、画業。この他、大磯の地元写真サークルでも教えていたとはじめて聞いた。

オーナー館主は結婚した時に永田から贈られた油絵の小品を持っている。館主自身が永田を師と仰ぎ、油絵を描いている。展示されている作品を拝見した。そ。うですか、尾崎画伯とお呼びしなくては、というと笑っていた。

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気さくな方で、なんと生まれはワタクシと同じ年で、学年はひとつ上ということが分かった。

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永田の作品はなんといっても、リアリズム。誰でも分かる具象画。

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新聞社時代の画業活動はどうだったのか。プロレタリア絵画時代から作品の変化も知りたい。

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調べていくと、永田追悼文集というのがあるらしい。なんとか蒐集してみたい。調べて、なんとかたどりついて目星はついている。ウチにある手頃な油絵がこれ。最近入手した大正池である。

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年代が分からない。どこかに出展したものらしい。

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2009年10月22日 (木)

ベティペイジが落とせない

またまた、なんじゃそれは、、、です。申し訳ない。ベティペイジは知っているという方も少なくないでしょうが、裏のマリリンモンローと呼ばれた女性です。ピンナップの女王とか、ボンテージモデルの女王とも呼ばれる。2005年に半生を描いた映画になり、日本では2007年に公開された。2008年12月に亡くなった。ネットのWikipediaにありますので検索すると出ます。1954年にトップピンナップガールと称されたころ、モンローの全盛期と重なるので、裏モンローとなったわけです。最初はロープや拘束具で縛られた写真がストリップ小屋の脇で売られていたというところが非常に輝かしい。ポルノ追放キャンペーンでやられた。ふーん、そうだったのとWikipediaを読む。アンダーグランドの臭い。俳優養成所時代、演技が下手だったのが彼女の運命だったともいう。でも魅力的です。いや、世代によるかな。1950年代半ばに最も光り輝いていたセックスシンボル。オーラを出していますね。しかも裏面もカバーする女王。そのころの臭いを僅かしかリアルタイムでは知らないのに懐かしむという世代の人間の倒錯かな。その当時に詳しく知っていたわけではない。なんとなく以下という程度です。安保闘争の1960年に中学生でした。アメリカの輝き。輸入時代のプレイボーイ誌。アメリカンポップス。あ、これは高校以後です。

Bb5lkcq2kkgrhquhcmeqvi0vyhibkylu5en では、落とせないとは、なんだ。EBAYのベティペイジのステレオ写真スライドです。なにがなんでもという気持ちではないから落とせない。なんだつまらない。アメリカでも人気があるのです。良いもので170ドルくらいがどうも相場のようです。ちょっと高価。もちろん自制心も働きます。EBAYは世界最大のネットオークション。やってみたら簡単でした。日本のヤフーオークションは評価450くらいの経験があります。PAYPALという支払い口座の開設手続きさえできれば、日本のヤフーオークションより簡単でずっと楽です。英文メールが必要になることはほとんどありません。英文メールは数回やりましたが、ブロークンで通用しました。

リアリスト版のスライドがたまにEBAY出ます。とてもおもしろいものが出る。アメリカ人が1960年代にイタリアに旅行した90枚のセットなんてのがあったり、アフリカのサファリ旅行とか。1枚が1ドルから2ドルくらいが相場。すばらしいステレオがあったりして、そのうち紹介します。

1_a_slides257 Bcku9lgbgkkgrhquhdceqdstwjubkzrbloc ベティペイジはかなりステレオ撮影されているらしい。素晴らしいというかリッパですね。

他の映画スターがないのかな。どうもないという感触です。モンローはごく僅かありまして本になっている。有名な本で、一度EBAYに出たのを見ましたが高くなって落とせなかった。残念です。スライドではあったとしても、聞いたことがないから天文学的数字を覚悟でしょう。

こういうものなら15ドルで落としました。ベティペイジではないヌードステレオです。ステレオではない片眼写真なら、大きいオリジナル写真が30ドルくらいでいくらでもあります。でもボンテージは貴重品なのか、見たことがない。

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2009年3月28日 (土)

先達の磯釣番外、永田一脩その3

永田一脩の略歴がネットにあったので追加する。

1923年、第4回帝展に初入選

1927年、前衛美術家同盟の結成に参加

1928年、第1回プロレタリア美術大展覧会に出品

1929年、日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加

1930年、治安維持法により起訴された。

やはり、治安維持法にやられている。モダンダンス誌の前のことである。そして前衛写真協会は1938年である。前衛という名前だけで目をつけられる。モダニズムもダメなのだ。シュールもだめ。その時代では前衛美術もワケが分からないからダメ。この生き方は真に尊敬に値する。小林多喜二が拷問によって死亡したのは1932年2月。

政府は特高警察の資料の全貌を公表していないそうだが、1925年から1945年まで7万人が逮捕され起訴されたのは7千人という数字があるそうだ。被害者側の調べでは虐殺死80人、病気その他の獄死は1400人、送検7万6000人、逮捕数十万人。

また、1976年の共産党の文化評論誌では、194人が取り調べ中の拷問、リンチによって死亡、1503人が獄中で病死、本土での検挙者は7万人という数字がある。日本では少なかった死刑が、植民地の朝鮮半島では民族独立弾圧のために多かったという。

また、ネットから引用。

<<厳密に言えば、日本内地では治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。後述するゾルゲと尾崎の所為は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。思想犯に転向を勧めるノウハウ、論破・説得術は、一種の芸術のような高レベルだったと言われている。また、時代が進むにつれ、「転向」のハードルは上がっていった。初期は、政治活動を放棄すれば思想を変えなくても転向と見なされたが、やがてそれでは不十分とされ、ついには「日本精神」を身に付けることが転向の要件とされた。>>

うーむ。起訴から終戦まで、どのような精神状態でどのような生活したのか。

そして戦後。治安維持法で起訴という経歴は、とにかく一目置かれることは間違いない。

永田一脩は1965年、日本リアリズム写真集団の第二回総会で副理事長になっている。第三回総会で顧問には中島健蔵、木村伊兵衛、土門拳といった高名な人が名を連ねている。

<<日本リアリズム写真集団は、写真の創造活動を通じて表現の自由を守り、日本の平和と民主主義の発展に寄与しようとするプロおよびアマチュアの写真家、評論家、編集者などで構成する自主的な創造運動体です。>>ホームページの目的から引用。

また、1968年東京勤労者釣りの会の初代会長となった。組織は現在まで健在であり、環境保護や、反ブラックバス勢力の一翼を担っている。釣りは、釣り師が業者、業界に踊らされると、営利のためにどこに行くのか分からないことになる。日本の自然を破壊して、日本の文化を破壊することもある。そうさせないための力が必要だ。残念ながら、そういう自覚が少ないから勤労者釣りの会のような運動の意義がある。

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2009年3月23日 (月)

先達の磯釣番外、永田一脩その2

1933年モダンダンスという雑誌が創刊された。永田はこの表紙をデザインしている。以後、寄稿したり、翻訳したりしてこの雑誌に参加している。たとえば、1933年5月号では、表紙デザインの他に「一九三二年の英国ダンス界 永田一脩訳」とか、「ウオルツのヴァリエション(アマチュア・ダンス誌より) 永田一脩」が、目次に現れる。

このころ、明治大学山岳部のOB三羽ガラスと親しくなり、夏は合宿のテントにもぐりこんだり、冬は明大山寮に入り込んだという。釣りより前に山をやった。

その後、どういう曲折があったか不明だが、1938年前衛写真協会という研究会を作りオリエンタル写真のフォトタイムズ社の後援で活動する。滝口修造、田中康夫の名前が出ている。田中康夫は濱谷浩の兄弟で、戦後も写真評論家として活動している。わたくしもかろうじて名前を知っている。元長野県知事ではない。プロレタリア絵画、いわゆる社会主義リアリズムから滝口修造のシュールリアリズム、アバンギャルド芸術に接近するわけだが、この両者の距離は非常に遠いようで実は裏口では繋がっている。コラージュ、モンタージュ。写真の歴史や教科書には定番でお目にかかるものだ。

このころの作品が東京都写真美術館にあった。時代は日中戦争、満州事変、ノモンハン、日独伊三国同盟、もうどうにもならない時代だ。徴兵はどうなのか。1903年生まれだから、モダンダンスが創刊されたとき、30歳。1940年は37歳。写真で見ると、兵隊に取られるような体格ではない。この経歴だと、特高警察や、憲兵隊からノーマークというわけにはいかないだろう。滝口修造も逮捕されたというから、あるいは、そのくらいのことがあっても不思議ではない。

179. NAGATA Isshu, Fire Mountain, 1939 (永田一脩, 火の山)

180. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1930s (永田一脩, 題不詳)

181. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1938c (永田一脩, 題不詳)

211. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1940 (永田一脩, 題不詳)

昭和16年、1941年東京日々新聞に入社。戦争中の話はどこにも書いていないようなので、ずっと新聞社勤務だったのか。18年の冬にスキー仲間と蔵王にいっている。あるいは兵役は内地だったかも知れない。

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2009年3月22日 (日)

先達の磯釣番外、永田一脩その1

この人の全貌というものは世間一般ではすでに忘却の彼方へと向かっている。わたくしには、知れば知るほど、尊敬の、いや敬慕の念を抱かざるを得ない。一度お会いしたかった。わたくしはあなたのファンです。著作はほとんど読み、感化されましたと、、、、。レベルはくらべものにならないが、通底する心情や生き方には、わたくしにとって、共感以上のものがあるからだ。

まず、小田原の大久保藩の武士の家系に生まれた。かなりの実家でないと、芸大からプロレタリア運動、高級遊民の生活はできない。そもそも芸大は天才でないと入ることさえできない。わたくしは早くからだいたいの概要は知っていたが、ネットで永田一脩とググると驚くほど出る。

芸大の西洋画には卒業制作に自画像というものがあるそうだ。これがすごい。

ネットで見つけた次のコメントがある。ヒットして読みあさった件数が多いので、本来なら出所明記して引用するべきだが、未整理のまま許してもらいたい。

<<藤田のほかにも、例えば、永田一脩(ながたいっしゅう)という人がいる。
鼻筋の通った細面で、髪を7:3にわけ、前髪がはらっとひたいに落ちている、現在でも通用するようないい男なのだが、自分の頭の上に、フランス語を書いている。C'est un homme で始まるその言葉には、西洋の写生本のようにバラの花が絡みついている。ちょっとーぉぉぉ。これはもう、どうしてくれよう。きざも休み休みにしてくれ。まぁ、かっこいいので許可。それにしても、色白でちょっと甘めで、神経質そうだけど、でもモテただろうな、という顔だった。(何を見ているんだ私。)
この人は、その後どんな画家生活を送ったのだろう? そもそも画家として活躍したのだろうか。 私ははじめて聞いた名前だった。>>

その後、プロレタリア運動に入る。昭和5年プロレタリア絵画論(天人社)を書いている。

虐殺された小林多喜二の蟹工船がブームになったが、戦前のマルクス主義は並大抵ではない。転向問題はどうだったのか気になるところだ。戦前からわたくしの世代くらいまでだろうが、マルクスボーイは少なくない。とにかく根絶されて戦争に投入したのだ。

そして、「『プラウダ』を持つ蔵原惟人」という油絵を書いている。ネットのコメントを引用する。

<< 初っ端から、林倭衛「出獄の日のO氏(大杉栄のこと)」、津田青楓「研究室に於ける河上肇像」、永田一脩「『プラウダ』を持つ蔵原惟人」、大月源治「告別」……とまぁ、物凄(ものすご)い作品が並んでいて圧倒されるが、僕が足を止め胸を熱くしたのは、日本共産党所蔵の川上律江が描いた「面会」だった。検挙された夫との面会を待つ若い母親は乳飲み子を背負っている、その傍らには白い夏服の官憲が監視している、日に照らされた警察署の殺風景な中庭が見える……、これは、この間、宮本百合子の会で読んできた「刻々」「1932年の春」の世界じゃないか!! 瞬間、脳裏には極めてリアルな物語が浮上する。>>

ネットで探すとこの絵は出てくるだろう。いわゆる社会主義リアリズムであり、以上でも以下でもない。

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2008年8月 5日 (火)

ああ、赤塚不二夫逝く。下落合焼きとりムービー。

マンガ界の巨星が消えてしまった。ここ数日、いろいろなところで論評されている。何年も意識が戻らず寝たきりであったのを知っていた。やっと楽になったと思う。天才であった。ワタクシが思うに、赤塚不二夫は、この世をギャグで切り返す。人生はギャグだ。それと、酒なくてなんの人生か、の人。なんといっても下落合の赤塚不二夫である。さびしいよ。うちの女房がやっている花屋を何回か使っていただいて、ワタクシがお届けに上がったこともあった。同級生が中井の商店会の役員をやっていた。地元の赤塚さんにお願いにいくとよく協力していただいたと聞いたことがある。こちらは隣りの町会なのでうらやましかった。

全盛期のころ、どこかに試合に行くのか、よく下落合駅にフジオプロの草野球のチームが集まっていたのを思い出す。大量のアシスタントたちのチームだろう。30年くらい前の話。

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さてその頃、赤塚不二夫の伝説の映画。昭和54年。1979年。知る人は知る、「下落合焼とりムービー」。全編ハチャメチャ。誰かが笑えないギャグの連発と書いていた。山本晋也がポルノではない一般映画を初めて監督し、所ジョージ、タモリ、柄本明、佐藤B作、宇崎竜童、内藤陳、たこ八郎、団しん也、アルフィー、近江俊郎、高見恭子、グッチ祐三、モト冬樹、ウガンダトラ、鳥居恵子、司美穂、赤塚不二夫。もちろん資料を見ながら書いている。え、この伝説の映画に出ていたの、そうだったの、という人が多い。

Img_2555 当時のビッグネームは近江俊郎だけで、制作配給の東映では他の誰も知らなかったとか。こんな映画があったとは地元の下落合の住民にはほとんど知られていない。

Img_2556 Img_2558 1996年。こんな本出したのか、と軽く買って読んだ。「下落合シネマ酔館」小学館。赤塚不二夫とやまさき十三の対談形式。映画を愛してやまぬ二人の果てしない対話。抱腹絶倒、笑止千万、罵詈雑言。ギャグ満載の酩酊対談集という腰巻。赤塚不二夫の映画好きはよく知られている。なかなかおもしろかった。

Img_2557 この本の中の写真だが。TV番組にまでなった還暦記念イベント。シェーをやっている打ち上げ風景。右から高井研一郎、山田紫、本人、山本晋也、林家喜久蔵、小野ヤスシ、なぎら健壱、古谷三敏。実は、この舞台は今はなき下落合駅前の山楽ホテルの宴会場なのだ。山楽ホテル。幾多の映画のロケセットに使われた下落合駅前の有名ホテル。下落合に山楽ホテルありと、知っていた人は限りなく少ないが、ペーソス溢れるホテルだった。今は駐車場になっている。おやじさんはまだ元気。評判の良い息子も毎朝、道路を掃除している。

Img_2559 Img_2560 最後に、ユニクロのマンガTシャツ。うなぎ犬。愛用している。ニャロメもケムンパスも出してくれないかな。キャラクターが多いから、もっともっと出してくれ。反体制猫なんて素晴らしい。菊千代も良かった。これは七人の侍の三船がやった菊千代からきていることを山本晋也が話していた。

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