日記・コラム・つぶやき

2009年11月 2日 (月)

シンさんのモノクロ写真展

当ブログのリンクにある、ストライクエニイホエア。ちょっと古いフィルムカメラでモノクロ写真を撮っている御仁。15年前だったらこういうモノクロ撮影を敢えてしている人は少しも珍しくなかった。しかし、その時にすでに写真の勉強というか求道の人という感じだった。ネットを見ると、まだまだ、いらっしゃることはいらっしゃる。女性も少なくない。よく見かける。

シンさんとは新目白通りのウチのトイメンにある茶房杏奴で知り合った。アンヌという。ここはブロガーが集まる処のようで、どうも何人もいらっしゃるらしい。リンクにある「気になる下落合」をやっている北沢さんも常連だ。下落合には茶房杏奴ありという有名店かも。先代の喫茶店時代から知っていても、そういうことまでは知らなかった。灯台下暗し。とうだいもとくらしね。「気になる下落合」というブログは建築探訪とか地域文化とか地域現代史いう方面では屈指の内容。驚愕、感嘆、びっくらこいた。へー、下落合にここまでのブログがあるのかと。価値有り、意義有り、心意気有り。固定読者やアクセス数でも屈指だろう。地元の人が感動しないでどうするというレベルで、まさに感動している。これに比べたらワタクシのブログなんざあ子供の遊びだと思った。

Img_4423 さて、ストライクエニイホエアのシンさんのモノクロ写真。ブログを教えてもらって、拝見。これまた立派。ひとことでいうと、まあ、おもしろくて、味がある。少し前まで写真はほとんどモノクロだったわけだが、キレイ、綺麗、整っている、技術も完璧というような写真の対極であった東松照明、森山大道をリアルタイムで見てきた経験がワタクシにはあるのだ。難解であった歴史上の大写真家だ。そういった写真を下敷きにしてしまうと、そりゃ、なにかがすごく足りないが、比較する相手が間違っている。難解というのは、写真に凝縮しようとする重さというのかな、それを見る者に強いようとする奥行きだね。社会や現実と対峙する写真家の緊張関係。こういった写真家には軽さは探してもない。軽妙洒脱なんて、もちろんなかった。その一方でライカ使いのアンリカルチェブレッソン、日本でいえば木村伊兵衛といったタイプの写真家は被写体には激突しない。どちらもライカ使いというところに、何かの意味が分析できるかも知れない。被写体の切り取り方のレベルと決定的瞬間というヤツかね。ここで、完璧に激突しようとした土門拳を挙げておかないと片手オチ。

Img_4424 実は調子に乗ってシンさんに論評してあげるからね、俺のブログに書いてあげる、と言ってしまったのがたたっている。「ごくろうさん、よかったよ、立派だね」と書いても何の役にも立たない。有り難くもないだろう。しかし、短い言葉で核心を摘出することは簡単ではない。力量が必要で、どうしても長くなるのだ。いいかげんな論評にならないようにとなるとなおさらだ。それでもいいかげんなのだが。能力だから仕方がないとして、、、、。

時は流れ、綺麗、キレイという写真ではない分流のひとつは、私写真というようなことになっているらしい。荒木、アラーキーが私小説に対して私写真といっていた記憶がある。私写真を他人が見る。どういうことだろうか。他人が見ることを目的としない写真が持つ内容と意味とは。しかし、場合によっては他人の鑑賞を意識していないわけではない。心象風景だろうか。詩人萩原朔太郎の心象風景のステレオ写真に触れた記事がこのブログの過去ログにあるが、朔太郎だから意味があるのであって、どこにもころがっている人間の平凡な心象では意味が違ってくる。私写真の鑑賞。まず、感情の共感。理解できるという共鳴。軽妙。見ておもしろい。ユニークという切り口。昔は連帯という言葉も重要だった。ポーランドの自主管理労組のワレサ以後は流行らない。平凡が転じて光るということもあるだろう。これがポイントかな。

お散歩写真という範疇や、トイカメラの楽しみという流れもあるらしい。あれもレンズの味ということになるのかな。ロシアカメラね。それからピンホールの世界もある。もちろんステレオ写真もある。写真の座標、、、、大判のアンセルアダムスからファッション写真、ドキュメント系までの座標を論じてもあまり意味がない。その中でシンさんの座標を論じてもという意味だ。その平凡の私写真の切り方。そして、遅れて来た青年かなとご本人と喋ったのだが、すでに青年ではないらしくて、志向性もネットで類似の人達が少なくないことを見ると、遅れているとまでは言えないかも知れない情勢なのかな。シリアル2000番台のバルナックと旧エルマーを使っているような、ワタクシのような人に間違っても遅れているとは言われたくないのは当たり前であろう。

Img_4419 写真展は目白通りのギャラリー喫茶「ピアリッジ」で10月29日から11月10日まで。下落合4-21-16。詳しくはリンクのストライクエニイホエアを見てください。ウチは1丁目ですが、地元下落合ですから、聖母坂を上がって見に行ったわけです。洒落たお店でミニコンサートもできるとか。Img_4420 カウンターの白Tシャツがシンさん。Img_4422

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2009年9月14日 (月)

片貝花火

Imgp5896a 9月9日、10日、家内と89歳老母と一緒に新潟県小千谷市の片貝花火を見物にいった。知る人は知る片貝の花火。日本一の四尺玉が上がる。小千谷市片貝町の住民は日本一の花火人間たちである。町民の生活は花火と共にある。四尺玉は知っていたが、片貝の花火にこのような背景があるとは知らなかった。感動的でもある。とにかくスゴイ。あっぱれである。褒めすぎではない。こういう町があるのだ。いまでは珍しくないかも知れない三尺玉の発祥地でもある。浅原神社の祭礼に奉納されるのが片貝花火だ。

片貝花火の歴史でググるとたくさん出る。たとえば、

http://www.geocities.jp/noa6171/works-b2001/hanabi.htm

冒頭を引用しよう。

死んだら花火と一緒に夜空に散る。それが夢だ。
 「墓も葬式も要らない。燃やして残った骨を星(火薬)に混ぜて尺玉にして打ち上げてほしい。星が微笑む漆黒の大空に、一瞬間だけ輝いて、何もなかったかのように消えてなくなりたい。その輝きが、好きだった人たちの記憶に残るだけでいい・・・」諸行無常か仏陀の教えか、哲学的でもある。

うーむ、スゴイね。中略。

Imgp5849aImgp5852a Imgp5850   「片貝人」の人生は花火に始まって花火に終わる。子供が生まれると親は我が子の、祖父母は孫の誕生を祝い、神社に花火を奉納する。その子が本家の跡取りならば、親戚中で祝う。小学校入学、中学校、高校合格、親は子の成長を花火で感謝する。そして20歳。厄年、還暦、古希、自ら花火を打ち上げ、人生の節目を知る。村を出た人々は、祭りでより大きな花火を上げることで、故郷に錦を飾る。そして、死。妻が夫が、子が孫が供養の祈りを、空に捧げる。

うーむ、そうなのか、、、。

地元では奉納煙火という。

http://tokihakutaka.fc2web.com/saijiki/0609/060909.html

ここでは地元中学の同級会が20歳、33と42の厄年、50歳、60歳の還暦にみんなで打ち上げると書かれている。結婚式で上げ、子供が生まれて上げ、死んでも上げる。この2日間のために毎日働くという。花火にはたいへんなお金がかかる。

Img_4369 Img_4373 新聞の大きさの花火番付がある。大半が個人の打ち上げだ。家内安全、健康祈願、孫誕生元気で育て、還暦祝いも多い。それぞれ何時何分打ち上げと予定されていて、その文句をスピーカーで流しての奉納打ち上げなのだ。父何回忌追善供養なんてのも多い。すべてがそうなのだ。企業もたまにあるが、提供ではなく、奉納なのだ。とにかく、なにかにつけてドーンなのだ。お祝いでドーン、供養でドーン、記念でドーン、人生の節目でドーン。片貝の人は花火にお金がかかる。同級会は大スターマインの競争だ。たとえば、今年の厄年42歳は36回卒業生の成友会。祝50歳は28回卒業生の双葉会。いいねえ。こういう同級会。お金を貯めてはスッカラカンになるのだろう。町会で上げるのもあるのかな。特別にやるわけでなくても、毎年いやでも花火に30万円くらいはかかると聞いた。一般の標準なのかな。

Img_4370 Img_4372 四尺玉は2発しか上がらないが、一発500万円とか。尺玉以下だったらいくらくらいかな。数万円だろうか。こういうのは尺玉の前後にセットで7号とかいって上がる。尺玉の二段打ちというのが一番多いようだ。

花火撮影はフィルムカメラでステレオ撮影なので、そちらはまだ上がってこない。デジ一眼撮影は一部しかなく、しかもあまり良くない。三脚に載せたステレオバー2台方式の片端に申しわけで載せたようなもの。気合いが入っていない。

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2009年4月 7日 (火)

神田川の桜09年

今年は東京の桜開花から低気温が長く、開花期間が長いのが特徴だ。神田川では4月4日土曜、5日の日曜がピーク。まだまだ数日は見頃だろう。昨年、ブログにアップした日を見ると3月29日の土曜だった。一週間違っている。今年の開花は早かったのだが。Imgp5679_edited1

正面に見えるのは西新宿の都庁の特徴ある建物。小滝橋下流のここの角度でないと見えない。

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同じ場所の水処理センターの階段から俯瞰。

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小滝橋から上流の右岸にある神田上水公園という細長いスペース。ここ以外は遊歩道だからお花見のシートが続いている。撮影方向。上流に向かってか、下流に向かってか。分かる人。右岸、左岸が分からないとダメです。

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小滝橋からだったかな。川のコンクリート三面貼りが下流と違っていて、川幅もやや狭い。

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途中で見かけた枝垂れ桜。近くで見ると相当違いますね。

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2009年3月28日 (土)

潮風会総会の立派な魚拓

3月の中旬だったが、わが潮風会の総会が行われた。だいたいどこの釣りクラブでも同じような総会をやるのだろうが、今年度の魚拓が立派。過去にはもっと大きいのが出ているが、立派な石物とメジナの型物が光っている。

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先達の磯釣番外、永田一脩その3

永田一脩の略歴がネットにあったので追加する。

1923年、第4回帝展に初入選

1927年、前衛美術家同盟の結成に参加

1928年、第1回プロレタリア美術大展覧会に出品

1929年、日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加

1930年、治安維持法により起訴された。

やはり、治安維持法にやられている。モダンダンス誌の前のことである。そして前衛写真協会は1938年である。前衛という名前だけで目をつけられる。モダニズムもダメなのだ。シュールもだめ。その時代では前衛美術もワケが分からないからダメ。この生き方は真に尊敬に値する。小林多喜二が拷問によって死亡したのは1932年2月。

政府は特高警察の資料の全貌を公表していないそうだが、1925年から1945年まで7万人が逮捕され起訴されたのは7千人という数字があるそうだ。被害者側の調べでは虐殺死80人、病気その他の獄死は1400人、送検7万6000人、逮捕数十万人。

また、1976年の共産党の文化評論誌では、194人が取り調べ中の拷問、リンチによって死亡、1503人が獄中で病死、本土での検挙者は7万人という数字がある。日本では少なかった死刑が、植民地の朝鮮半島では民族独立弾圧のために多かったという。

また、ネットから引用。

<<厳密に言えば、日本内地では治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。後述するゾルゲと尾崎の所為は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。思想犯に転向を勧めるノウハウ、論破・説得術は、一種の芸術のような高レベルだったと言われている。また、時代が進むにつれ、「転向」のハードルは上がっていった。初期は、政治活動を放棄すれば思想を変えなくても転向と見なされたが、やがてそれでは不十分とされ、ついには「日本精神」を身に付けることが転向の要件とされた。>>

うーむ。起訴から終戦まで、どのような精神状態でどのような生活したのか。

そして戦後。治安維持法で起訴という経歴は、とにかく一目置かれることは間違いない。

永田一脩は1965年、日本リアリズム写真集団の第二回総会で副理事長になっている。第三回総会で顧問には中島健蔵、木村伊兵衛、土門拳といった高名な人が名を連ねている。

<<日本リアリズム写真集団は、写真の創造活動を通じて表現の自由を守り、日本の平和と民主主義の発展に寄与しようとするプロおよびアマチュアの写真家、評論家、編集者などで構成する自主的な創造運動体です。>>ホームページの目的から引用。

また、1968年東京勤労者釣りの会の初代会長となった。組織は現在まで健在であり、環境保護や、反ブラックバス勢力の一翼を担っている。釣りは、釣り師が業者、業界に踊らされると、営利のためにどこに行くのか分からないことになる。日本の自然を破壊して、日本の文化を破壊することもある。そうさせないための力が必要だ。残念ながら、そういう自覚が少ないから勤労者釣りの会のような運動の意義がある。

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2009年3月23日 (月)

先達の磯釣番外、永田一脩その2

1933年モダンダンスという雑誌が創刊された。永田はこの表紙をデザインしている。以後、寄稿したり、翻訳したりしてこの雑誌に参加している。たとえば、1933年5月号では、表紙デザインの他に「一九三二年の英国ダンス界 永田一脩訳」とか、「ウオルツのヴァリエション(アマチュア・ダンス誌より) 永田一脩」が、目次に現れる。

このころ、明治大学山岳部のOB三羽ガラスと親しくなり、夏は合宿のテントにもぐりこんだり、冬は明大山寮に入り込んだという。釣りより前に山をやった。

その後、どういう曲折があったか不明だが、1938年前衛写真協会という研究会を作りオリエンタル写真のフォトタイムズ社の後援で活動する。滝口修造、田中康夫の名前が出ている。田中康夫は濱谷浩の兄弟で、戦後も写真評論家として活動している。わたくしもかろうじて名前を知っている。元長野県知事ではない。プロレタリア絵画、いわゆる社会主義リアリズムから滝口修造のシュールリアリズム、アバンギャルド芸術に接近するわけだが、この両者の距離は非常に遠いようで実は裏口では繋がっている。コラージュ、モンタージュ。写真の歴史や教科書には定番でお目にかかるものだ。

このころの作品が東京都写真美術館にあった。時代は日中戦争、満州事変、ノモンハン、日独伊三国同盟、もうどうにもならない時代だ。徴兵はどうなのか。1903年生まれだから、モダンダンスが創刊されたとき、30歳。1940年は37歳。写真で見ると、兵隊に取られるような体格ではない。この経歴だと、特高警察や、憲兵隊からノーマークというわけにはいかないだろう。滝口修造も逮捕されたというから、あるいは、そのくらいのことがあっても不思議ではない。

179. NAGATA Isshu, Fire Mountain, 1939 (永田一脩, 火の山)

180. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1930s (永田一脩, 題不詳)

181. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1938c (永田一脩, 題不詳)

211. NAGATA Isshu, Title Unknown, 1940 (永田一脩, 題不詳)

昭和16年、1941年東京日々新聞に入社。戦争中の話はどこにも書いていないようなので、ずっと新聞社勤務だったのか。18年の冬にスキー仲間と蔵王にいっている。あるいは兵役は内地だったかも知れない。

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2009年3月22日 (日)

先達の磯釣番外、永田一脩その1

この人の全貌というものは世間一般ではすでに忘却の彼方へと向かっている。わたくしには、知れば知るほど、尊敬の、いや敬慕の念を抱かざるを得ない。一度お会いしたかった。わたくしはあなたのファンです。著作はほとんど読み、感化されましたと、、、、。レベルはくらべものにならないが、通底する心情や生き方には、わたくしにとって、共感以上のものがあるからだ。

まず、小田原の大久保藩の武士の家系に生まれた。かなりの実家でないと、芸大からプロレタリア運動、高級遊民の生活はできない。そもそも芸大は天才でないと入ることさえできない。わたくしは早くからだいたいの概要は知っていたが、ネットで永田一脩とググると驚くほど出る。

芸大の西洋画には卒業制作に自画像というものがあるそうだ。これがすごい。

ネットで見つけた次のコメントがある。ヒットして読みあさった件数が多いので、本来なら出所明記して引用するべきだが、未整理のまま許してもらいたい。

<<藤田のほかにも、例えば、永田一脩(ながたいっしゅう)という人がいる。
鼻筋の通った細面で、髪を7:3にわけ、前髪がはらっとひたいに落ちている、現在でも通用するようないい男なのだが、自分の頭の上に、フランス語を書いている。C'est un homme で始まるその言葉には、西洋の写生本のようにバラの花が絡みついている。ちょっとーぉぉぉ。これはもう、どうしてくれよう。きざも休み休みにしてくれ。まぁ、かっこいいので許可。それにしても、色白でちょっと甘めで、神経質そうだけど、でもモテただろうな、という顔だった。(何を見ているんだ私。)
この人は、その後どんな画家生活を送ったのだろう? そもそも画家として活躍したのだろうか。 私ははじめて聞いた名前だった。>>

その後、プロレタリア運動に入る。昭和5年プロレタリア絵画論(天人社)を書いている。

虐殺された小林多喜二の蟹工船がブームになったが、戦前のマルクス主義は並大抵ではない。転向問題はどうだったのか気になるところだ。戦前からわたくしの世代くらいまでだろうが、マルクスボーイは少なくない。とにかく根絶されて戦争に投入したのだ。

そして、「『プラウダ』を持つ蔵原惟人」という油絵を書いている。ネットのコメントを引用する。

<< 初っ端から、林倭衛「出獄の日のO氏(大杉栄のこと)」、津田青楓「研究室に於ける河上肇像」、永田一脩「『プラウダ』を持つ蔵原惟人」、大月源治「告別」……とまぁ、物凄(ものすご)い作品が並んでいて圧倒されるが、僕が足を止め胸を熱くしたのは、日本共産党所蔵の川上律江が描いた「面会」だった。検挙された夫との面会を待つ若い母親は乳飲み子を背負っている、その傍らには白い夏服の官憲が監視している、日に照らされた警察署の殺風景な中庭が見える……、これは、この間、宮本百合子の会で読んできた「刻々」「1932年の春」の世界じゃないか!! 瞬間、脳裏には極めてリアルな物語が浮上する。>>

ネットで探すとこの絵は出てくるだろう。いわゆる社会主義リアリズムであり、以上でも以下でもない。

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2008年11月 7日 (金)

中学の同期会20年

Img_2761 Img_2762 Img_2763 毎年開くことになった新宿区立落合中学校の同期会。1962年卒業だから、46年前か。さすがに消息不明の人が多くなっているのは致し方ない。A組からE組まで5クラスだった。クラス42名から44名。卒業時216名だった。昭和21年生まれだから団塊直前世代ということになる。しかし、団塊の認識だよね。正真正銘、戦後を生きてきた。その半数強が不明。ほとんどが引越で所在が分からなくなっている。また、分かっているだけで、クラス平均4人から5人が亡くなっている。約10%か。不明の方もいらっしゃるだろうからもっとだな。そういう年齢だよね。

同期会は固定常連メンバーがいて、たまに来るグループ。いつも、はじめて参加メンバーも加わる。

Img_2765a 今回は母校訪問という企画。我々の時代とは雲泥の差。一般の公立中学から見ても、かなり飛んでいる。知らない人は驚く。その建築デザインから公立中学全国100選に入っているそうで、よく視察に来るそうだ。職業家庭科とか理科室、図工美術室や英語室とか専門教室の充実は時代の流れだろうが、音楽室があきれるほど凄い。説明役の副校長は6校か7校は歴任しているそうだが、ここは驚いたという。

屋上にプールがあるのだが、そこから新宿高層ビルの夜景、振り向けば池袋のサンシャイン60の夜景。視察に来た地方の先生方はこれを見て恐れ入りましたとなるそうだ。

現在の生徒数は総数277名。うち約100名が旧学区外から。つまり人気中学。新宿区外は16名。ふーむ。新宿の公立学校は統廃合が進んでいるのだが、我が落合中学は大丈夫みたいだな。某女史は、もう一度この中学で学びたいと、ため息がらみで漏らしたが、同感。

Img_2779a Img_2777a Img_2780a Img_2768a Imgp5284a Imgp5291a 母校から高田馬場の中華飯店で宴会。話はつきない。元気で再会を誓う。また、参加率を高め、新規開拓も必要。なにかの工夫、努力もしなくちゃなるめい。

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2008年11月 1日 (土)

草野球または年寄りの冷や水

Img_2739a Img_2741a 今から5年くらい前からかな、草野球をやっている。けっこう楽しい。カラダは大丈夫かってですか。いやー、それがあまり筋肉を使わないようなので、ほとんどなんともない。どうも力を入れていないみたいなんです。あ、達人がよく力が抜けているというのではないのです。非力の人間が非力のままやっているにすぎない。高校野球ならフニャフニャやるなバカ者、、やる気あるのか、コノー、、状態かな。次第に慣れてきたけれども。最初は外野フライなんて目測がまったくできない。あー、今もそうですけど。前進して頭上を抜かれてバンザイと両手を上げて見送る状態ばかり。ゴロ捕球もダメ。打っては三振か良くてボテボテのピッチャーゴロ。芯に当たらない。バットスピードが遅い。スイング軌道はメチャクチャ。それがまあなんとなく毎年やっているものですから多少だけ経験が。いやいや、変わっていないともいわれております。他のチームを見ても、うまい人、まあまあの人、だめな人。だいたい3等分くらいで成り立っているのが草野球のおもしろいところ。だめな人が少ないチームは強いです。

Img_2740a それと年齢も大いに関係する。平均年齢55歳くらいが普通と思うけど、どうでしょうか。若い人より年寄り中心。

宅配料理のアルバイトの人のチームと対戦した。明らかに平均年齢が違う。なにかのノリでユニフォームを作って、野球やろうぜって盛り上がったのでしょう。立派です。しかしながら、部員が長続きするチームとも思えませんから、練習不足は否めない。草野球でも強いチームはすごい。いろいろな地域の連盟などに加入してリーグ戦をやっている。飲み屋の常連が結成したチームなんてのもありまして、それぞれ昔の経験があって、自信があってチームができたのでしょうから強いです。ほとんどが元野球部の野球少年だったのでしょう。硬式野球をやっていたという経験なら草野球では神様です。あ、ヤクルトの一軍二軍に13年いたという人がいるチームと毎年対戦します。知らないと、どの人がそうなのか、まったく紛れ込んで分からない状態。腹が出ている。

ワタクシはだいたいライトの八番の典型。たまにセカンドもあり、ベンチもある。

ぴったりの境遇で幸せですね。あ、62歳数ヶ月になります。

写真は月曜日の朝だったかな、目白学園下の上高田球場。

野球経験ですか。小学校以来まったくありません。小学校でもちっともうまくなかった。うまい友達を感心して見ていました。子供が小学校の時にキャッチボール程度。それぞれ小学生女子ソフトボールと少年野球チームに入って、応援にはよく行きました。

Img_2752 Img_2754 こちらの球場は昨日の朝の試合。中野区の哲学堂で土のグランドです。右後ろに有名な水道タンクの建物の頭が見えています。相手の平均年齢は55歳くらいで同じ。惜敗でした。三振と一塁ゴロ、四球という結果に終わりました。

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2008年10月26日 (日)

紅葉の谷川ロープウエイ

金曜日、大雨の中を老母と群馬県水上温泉に行った。来月初旬に米寿の祝い。その下見と打ち合わせ。そこは水上温泉の最も古い旅館だという。利根川上流の切り立った崖の下が源泉だそうだ。その崖の上に立っている。もちろん源泉掛け流し。46.2度の毎分700L。良い温度でそれなりの湧出量だ。湧出湯量が少ないとどうしようもない。水上温泉は数年前に温泉疑惑のニュースに登場した。一滴も温泉がないのに入湯税を取っていた宿があった。


土曜。朝から晴れた。谷川岳ロープウエイに向かう。お手軽に雄大な紅葉を一望できる。ちょうど見頃。以前の小さなゴンドラから22名の大型になった。片手懸垂の時にも乗ったことがあるが、両手懸垂となり、以前よりも安定している。天神平からさらに上に行くリフトは88歳の年寄りには無理。
もうひとつおまけに法師温泉に立ち寄り入浴。あの温泉はまた行きたいと、老母は気に入っている。湯沢の貝掛温泉の帰りに寄ったことがある。高峯秀子のフルムーン旅行の写真で有名だが、人気が高い一軒宿。なんと混浴。貝掛温泉とは三国峠を挟んで反対側になる。とにかく建物全体が昔のままを残している。湯船の底は玉砂利に適当な丸石。昔は川底から湯が湧いていた場所。堤を作って川を蛇行させ湯船を作り、屋根を作ったといわれる。Img_2722Img_2720_2
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2008年10月18日 (土)

なんとなくダレて


アクセス解析でみると、アクセス数は伸びている。が、しかし、このところ更新する気力が萎えている。磯釣りはどうした。竹竿はどうした。このあいだ、ウドネ流れの式根でイシダイやってきたのだが、書くことなし。写真は、、、、下田フィッシングのホームページにウチの会の若手ホープが出ているのでご覧ください。わたくしは水面でばらした。なぜ。
http://www.izu-shimoda-fishing.co.jp/cgi-bin/col4.cgi
このすぐ後に、B先輩が菖蒲沢の沖磯で中型クーラーいっぱい釣った大アジを20匹くらい貰った。35cm以上の立派なものばかり。こんなのが磯の夜釣りで釣れるのだ。いったいぜんたい、どうして、なぜ。数年前から知る人ぞ知る。私が持っている神津島のイサキ夜釣り用の50Lと35Lクーラーはどちらも一回も満杯になったことがないというのに。土曜に行って、火曜にまた行くから一緒に行こうという。式根は例会で日曜の釣りだ。日曜の火曜はさすがに、用事もあるので行けない。
アジはタタキ、刺身、塩焼きと近所のおすそわけに消えた。写真は撮っていない。

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2008年8月 5日 (火)

ああ、赤塚不二夫逝く。下落合焼きとりムービー。

マンガ界の巨星が消えてしまった。ここ数日、いろいろなところで論評されている。何年も意識が戻らず寝たきりであったのを知っていた。やっと楽になったと思う。天才であった。ワタクシが思うに、赤塚不二夫は、この世をギャグで切り返す。人生はギャグだ。それと、酒なくてなんの人生か、の人。なんといっても下落合の赤塚不二夫である。さびしいよ。うちの女房がやっている花屋を何回か使っていただいて、ワタクシがお届けに上がったこともあった。同級生が中井の商店会の役員をやっていた。地元の赤塚さんにお願いにいくとよく協力していただいたと聞いたことがある。こちらは隣りの町会なのでうらやましかった。

全盛期のころ、どこかに試合に行くのか、よく下落合駅にフジオプロの草野球のチームが集まっていたのを思い出す。大量のアシスタントたちのチームだろう。30年くらい前の話。

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さてその頃、赤塚不二夫の伝説の映画。昭和54年。1979年。知る人は知る、「下落合焼とりムービー」。全編ハチャメチャ。誰かが笑えないギャグの連発と書いていた。山本晋也がポルノではない一般映画を初めて監督し、所ジョージ、タモリ、柄本明、佐藤B作、宇崎竜童、内藤陳、たこ八郎、団しん也、アルフィー、近江俊郎、高見恭子、グッチ祐三、モト冬樹、ウガンダトラ、鳥居恵子、司美穂、赤塚不二夫。もちろん資料を見ながら書いている。え、この伝説の映画に出ていたの、そうだったの、という人が多い。

Img_2555 当時のビッグネームは近江俊郎だけで、制作配給の東映では他の誰も知らなかったとか。こんな映画があったとは地元の下落合の住民にはほとんど知られていない。

Img_2556 Img_2558 1996年。こんな本出したのか、と軽く買って読んだ。「下落合シネマ酔館」小学館。赤塚不二夫とやまさき十三の対談形式。映画を愛してやまぬ二人の果てしない対話。抱腹絶倒、笑止千万、罵詈雑言。ギャグ満載の酩酊対談集という腰巻。赤塚不二夫の映画好きはよく知られている。なかなかおもしろかった。

Img_2557 この本の中の写真だが。TV番組にまでなった還暦記念イベント。シェーをやっている打ち上げ風景。右から高井研一郎、山田紫、本人、山本晋也、林家喜久蔵、小野ヤスシ、なぎら健壱、古谷三敏。実は、この舞台は今はなき下落合駅前の山楽ホテルの宴会場なのだ。山楽ホテル。幾多の映画のロケセットに使われた下落合駅前の有名ホテル。下落合に山楽ホテルありと、知っていた人は限りなく少ないが、ペーソス溢れるホテルだった。今は駐車場になっている。おやじさんはまだ元気。評判の良い息子も毎朝、道路を掃除している。

Img_2559 Img_2560 最後に、ユニクロのマンガTシャツ。うなぎ犬。愛用している。ニャロメもケムンパスも出してくれないかな。キャラクターが多いから、もっともっと出してくれ。反体制猫なんて素晴らしい。菊千代も良かった。これは七人の侍の三船がやった菊千代からきていることを山本晋也が話していた。

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2008年5月17日 (土)

高田馬場の手塚治虫

JR高田馬場駅の発車合図は鉄腕アトムの曲。タンタンたらーらランというテレビアニメでお馴染みのメロディ。このメロディーをリアルタイムで知っている人は相当昔の人だろう。若い人は知らないかも。再放送で知っているのかな。いつごろからこうなったのか、よく覚えていない。昔は単純な発車ベルで、それが電子チャイムになった。国鉄民営化以後は間違いないけど。それぞれの駅がそれぞれの理由から選んだ。公募したのかな。プロレスでもプロ野球の個人選手にもテーマメロディがあるという。

印象深いメロディーと意識に残らないメロディーがある。恵比寿駅の第三の男のテーマは耳に入るとドキッとするほどで印象に残る。つまり、空白の心に、ああ恵比寿かと思わせる威力がある。メロディーの印象が強い。オーソンウエルズの映画のいくつかの場面までも浮かぶようだ。高田馬場の鉄腕アトムもそれに近いのじゃないかな。

鉄腕アトムのストーリー設定では、高田馬場に科学技術省があって、生みの親の天馬博士だったかな。また、虫プロが西友の少し先の早稲田道りに面してあった。現在の虫プロは早稲田通りをさらに下って、小滝橋の少し手前、馬場を背にして左に少し入ったところにある。なぜか高田馬場を離れない。

で、今年の4月初めに高田馬場のガード下に新しく出来上がったのが以下の写真。耐久性はどのくらいあるのだろうかと、気になる。昔から謎だったのは高田馬場のどのあたりに科学技術省が想定されたのだろうかというつまらないこと。そして、なぜ高田馬場。単に手塚治虫の仕事場だったからだったのかな。どうして。

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2008年5月 2日 (金)

今年も薬王院のボタン

アクセス解析で薬王院のボタンのフレーズ検索から来る方が何人もいらっしゃることが分かった。たしかに昨年アップしている。なんだ去年のか。今年がなくて申し訳ない。見頃になりましたなんていう情報が良いのでしょうが。んー、一応撮影しています。例年、4月29日の旗日がベストと思っている。地元の年中風物ですから。でもねえ、、。ステレオ撮影もしているのですが、なんとなく萌えるものがない。しかし、定点観察ということもあるし。。いつもの解像度の640くらいから800から950まで大きくしてみました。

ステレオ分はフィルムとデジ一眼アダプター。整形が面倒くさいから暇があって、気が向いたらそのうちということでお許しください。

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Imgp5122 ついでに、薬王院のすぐ隣の、最近まで畑であったところ。野鳥の森公園という小さな公園の前でもあります。東京の新宿とは思えない、時間がズレた雰囲気。いかにも野良というかダラリとしたオーラが。

Imgp5123 さらにウチの隣のバラの垣根。これはモッコウバラといって、ひとつひとつは1cmくらいの小さなバラです。集まっていると一体となった大輪に見える。これが密集しているところはたいしたもんです。

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2008年3月29日 (土)

神田川の桜ステレオ編

ペンタックスデジ一眼に以前紹介したステレオアダプターで撮影した。ステレオペアーの画像をアップするのは面倒で難しい。平行法裸眼立体視できるサイズを想定して縮小するわけだが、ビームスプリッターは中央に黒い部分が入るのでカットして画像編集しなければならない。Imgp5014 Imgp5015 Imgp5016 Imgp5017 Imgp5018 Imgp5019 Imgp5020 Imgp5021 Imgp5023 Imgp5026 Imgp5027

Imgp49861 このなかで、柏木不動は中央の黒い部分をカットしていない。そのままである。これでも大丈夫じゃないかな。

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今年も神田川の桜

桜の季節が来た。神田川と妙正寺川の旧合流点から上流に向かって青梅街道の淀橋まで桜並木が整備されているらしい。しかし、そこまで行ったことがない。今日は大久保通りの手前あたりまでデジカメを持って歩いてきた。高いところから俯瞰したのは、下水処理場の階段を上がって。ここで処理された水が神田川に入っているのだが、アユが遡上するほどの水質になっているらしい。

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神田川には上流で善福寺川が合流して中流の落合で妙正寺川が合流していた。現在は、改修工事によって落合では合流していない。新目白通りの地下を流れて明治通りの高戸橋で合流している。高戸橋の名前は高田と戸塚の地名からそれぞれ取った。今は新宿区戸塚という地名は消えた。こういういいかげんな命名は少なくない。中央線に国立ってありますが、国分寺と立川からきているそうだ。

Imgp5004 Imgp5005 Imgp5007 早稲田通りの小滝橋に里程標があった。隅田川まで10km、源まで14.6kmとある。源は井の頭公園の井の頭池。善福寺池もあり妙正寺池もある。井の頭池は行ったことがあるが、善福寺池と妙正寺池は行ったことがない。それぞれ昔は豊かな湧水池であったということはよく知られています。

神田上水のことを書き始めたらきりがない。興味のある方はネットで検索するといくらでもあります。

Imgp4995 Imgp4990小滝橋から上流の遊歩道は広くなっていて、ウチのそばの下流とは作りが違っている。                           Imgp5008     

                  

                     

                   

                 

Imgp5002 明治後期の小滝橋の写真があった。幅が3間ないな。板橋だ。この人相風体は大正、昭和の人ではない。明治の人だと分かる。ちょんまげがあれば江戸の人だ。この人達の大師連って、どこの大師だろう。川崎が普通だけど、まさか西新井じゃないだろうな。川越かな。

中央線の下に柏木不動があった。知らなかった。でもねえ、大型犬の犬小屋くらいの大きさ。可愛いというか、変わっているといっているのであって、他意はありませんので念のため。デジ一眼にステレオアダプターで撮影したのでそちらは別にアップします。小滝橋と中央線の間に、きれいばしというのがあった。なにが綺麗なのだろうと思ったらこういう字だった。Imgp5011

東中野の日本閣は高層マンションになっていた。

Imgp5030 このあたりに一箇所、やや急流になっているところがあった。Imgp5031

神田川の桜に絞ると。高戸橋から江戸川橋まで桜が続いていて名所になっている。とくに椿山荘の下の江戸川公園は有名だ。これに対して小滝橋周辺の桜並木が整備されたのは比較的新しい。

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2008年1月 6日 (日)

たこの干物

Img_2030 Img_2033 Img_2032 Img_2031 もらい物です。残念ながら自家製ではありません。これを何回か見た覚えはあります。下田街道の網代あたりか、沼津の高速インター前の干物屋。内房の土産物屋さんでもあったような気がする、、、。たこは明石が本場だろうと、乏しい知識でググるとやはり同じものがありました。南紀では小さい蛸で足は広げていない干物があった。

何やってるんだ、このタコ、という場合は多少は許しているところがある。もう少し段位があがると、いやねえ、おバカさん、、、に出世するイメージで同類項でくくれる。そして、いやーん、ばか、、となると尋常ではない親愛の情が加わる。  、、、、、、なに書いているのだろう。

たこのはっちゃん。たこ八郎。ひどいものを読まされたというあなた。洒落です。

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2008年1月 1日 (火)

地元氏神様に初詣

みなさま、あけましておめでとうございます。

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Img_1996a 大晦日の0時近くになって、地元の薬王院から除夜の鐘が聞こえてきました。地元の氏神様に初詣に行きまして、先程帰ってきました。下落合の氷川神社ですが、なんだか今年は初詣風景ということでテレビに映っていたということです。なぜ都会の変哲ない下落合氷川神社が選ばれたかは分かりません。偶然でしょう。地域密着の神社の初詣ということで手ごろだったのでしょうか。馬場下の穴八幡なら全国区レベルの知名度ですから分かりますが。高田馬場近辺では諏訪神社と早稲田の水稲荷あたりの方が知られていると思われます。

神楽殿で地元の子どもがお神楽をやっていました。

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お炊き上げの結界は例年通り。約一間四方に忌み竹を立て、注連縄をめぐらす。注連縄にはお約束の御幣。昨年の破魔矢とお札を持っていってお炊き上げいたしました。いつもここでしばらく火にあたっています。暖かい。なんとなく燃える火を見つめる。

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参拝の列は鳥居から出て、長蛇の列となっていて、30分以上並びました。ニ拝二拍一拝。二礼拍手一礼というのかな、よくわからん。例年破魔矢と氏神様のお札だけですが。お伊勢様のお札は省略。ほんとはお伊勢様もいただくのが本式。知っていて省略するところが、抵抗というか、こだわりです。

写真はいつもの初代IXYですが、夜景モードで簡単。良く写っていますね。撮影モード選択というカメラのメカの進歩。だいたい、神様を写真に撮ってはいけない。今年も、中学同期の平尾君と会いました。地元睦会の甘酒サービス。出会った町会やお祭の睦会の人たちと新年挨拶をして例年のパターン終了。

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2007年11月 3日 (土)

同期会

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中学の同期会が地元の横といってもよい目白駅の新しいホテルで行われた。1962年卒業だから卒業後45年になる。うーん、はるかに遠いね。少年時代、思春期の思い出は誰でも甘く酸っぱいものだろう。それを捨ててきてしまった人もいるかも知れない。ほとんど思い出さない人や、あるいは、もしかして楽しい思い出がない人もいるかも知れない。会の席で誰かをいじめたという話が出た。現在と比べて、片方はそれなりに我慢して、片方は限度を超えなかったのだろうか。

45年ぶりに会った人もいた。不思議な感覚。3分か4分するとぼんやりした存在がリアルになる。整形手術でもしない限り、本人は変えようがない。体型、肉付き、髪の毛の量、このあたりは個人差が大きい。すぐに45年の時を超えて、その当時の気分で話ができるのは不思議だ。その人の人生の中年期の3年間と中学時代の3年間が同じ時間の流れであるとは信じられない。内容が違い、重さが違い、輝きが違う。ついこの前の初老以後の最近の3年間なんて、流れるように過ぎ去ったとしか思えない。時間をやり過ごすことのルーチンワークのスキルが厚くなるのが人生だろう。多分、この先、もっともっと軽く時間をやり過ごすことになるだろうと確信できる。万一ぼけてきたら、流れるような軽い時間が通りすぎるのかも知れない。いや、そうではないのだと精一杯の抵抗はできる。自分の場合は少なくともいろいろある。はかない抵抗かも知れない。そういえば、ここ3年か4年で仏教書を硬軟含めて数冊読んでいる。少しもそんなことを意識しないでそうなっている。くわばら、くわばら。濫読多読は昔からだが、要はジジイになってしまった。ああ、。

しかし、こうなってくると、人間いつ死ぬか分からない。団塊の世代のはしりだから人数は多かった。すでに亡くなった方もよく聞くようになった。

この先いくらも時間がないのだから、同期会に出ることくらいは人生の句読点として必要だろう。と出たことのない人たちに呼びかけたい。

人生の年輪が顔に出て、いい顔になっているという事例はたしかにある。写真家がよろこんで撮影する顔だ。そういう顔になりたいがなれない。あれって、やはり土台ってものがあるのだよね。今回の写真ではいるようで、やはり、いないか。漁師の中にはいるね。農民でもいそうだ。あとは職人ね。

続きを読む "同期会"

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2007年9月10日 (月)

御神輿

御神輿にはマニアがたくさんいらっしゃる。実はお祭りや御神輿は地域の伝統であるから手伝っているだけで、それほど好きではない。といっても時期になれば、やはり熱が入る。仕方がない。御神輿には町会御輿と宮御輿がある。宮御輿は本社御輿ともいう。それぞれ地域の伝統がある。

江戸三大祭りというと、神田、山王、深川という説があり、また神田、山王、三社、あるいは神田、山王、根津ともいう。江戸時代、幕府の天下祭りは隔年で神田祭、山王祭であったが、根津との三社で交代に行うようになった。江戸城に行列が入って将軍の拝礼があったという。

御輿深川、山車神田、だった広いが山王様。こんなことわざ知らないよね。書物に出ていた。町会御輿連合渡御ではなんといっても深川。かけごえは、わっしょい。地域が広いので三社のように上下に揺らさず、マエマエといいながら速く進む。深川四十八ヶ町の各町会が競って御神輿を作った。神田、山王は山車に未練を持って深川に立ち後れたという。これに追随して明治末から東京のほとんどの地域で町会御輿が広がった。これも昭和7年の上海事変まで。戦争に突入していく。ウチの御輿はちょうどこの最後だね。どうして、こんなに立派な御神輿を作ったのか。初めて見る人は宮御輿ですかという。あ、これは御輿を多少は知っている人ですけど。謎だ。ウチの地域の景気が良かったのか。近衛さんは大正には目白の土地を売却した。相馬子爵と徳川さんの分家が大口の寄付でもしたのか。よく分からない。

わっしょい。朝鮮で神様がいらっしゃったという言葉だそうで、古くから伝わったかけごえ。ついでにソイナーは、鳥越のかけ声で、御輿に添いなさいという意味だそうだ。いまや都内に広がっている。おりゃ、は三社で賑やかなかけ声とある。おいさっの訛りという説もある。子供のころは、わっしょいだけしか知らなかった。東京の神社のお祭りの元は深川の町会の御神輿ではないかと思っている。

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お祭り19年

なんだかんだと忙しくて長く更新できませんでした。固定客のみなさま、申し訳ありません。8日9日と地元の祭礼が終わりました。新宿下落合の氷川神社です。山手線の外側で高田馬場と目白の中間に位置します。氷川神社というのは水というか川に関係のある氏神様で関東中心の系統です。妙正寺川と神田川が合流しているので落合というのですが、縄文時代から川沿いに集落がありました。遺跡や古墳があります。川が暴れて氾濫したので鎮めるための、そういう関係の神様です。関東のいたるところに氷川神社はありますね。この関係を調べて書くとなると長くなるので省略。もっとすごい地元下落合専門のブログがあります。

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お祭りは土曜の朝6時から設営がはじまって、月曜の朝6時集合で撤収がさきほどやっと終わりました。ずっと、準備がいろいろあって、他のことをやる気がしなかった。同級生が他の町会にもいて、同じようなことをやっています。鉢洗いは夜に行われます。鉢洗いという言葉は知らない人はまるで知らないでしょうね。

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写真はウチの中御輿で例年初日の宵宮に担ぎます。作りは大御輿と同じで昭和7年製の総彫りです。これでも普通の町会の少し小さい御神輿のサイズでしょうか。姿が良く、作りは立派だと思います。ほとんど同じ作りで子供御輿もあります。以前に書いたように今年は連合徒御。目白駅前から目白通りを山手通りで左に曲がって、新目白通りをまた左に曲がって山手線方向に向かいます。

Img_1621ed_2 山手通りの休憩で連合の御神輿が揃っている写真。揃っていると大きさが分かります。次は新目白通りを通過して、ウチの前です。

Img_1627ed_2 御神輿は昔の町会ごとに持っていますが、町名変更の住居表示には対応していません。この件に関しては徹底抗戦して旧町名が残った牛込地域に敬意を表します。旧牛込区、旧四谷区、旧淀橋区が合同して現在の新宿区となりました。

次の写真はそれぞれの旧町会の御神輿です。東睦の御神輿は屋根は塗りではなくて彫りですね。ウチの御神輿に似ています。単独の写真では大きさはよく分かりませんね。

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2007年8月14日 (火)

バガボンのパパの逆立ち

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犬の朝のお散歩コース。地番でいうと中落合で、ウチは下落合だが、徒歩5分。昔は中落合なんてなくて、本人も下落合のなになにと使っていて、そういう本もある。とにかく逆立ちしているのが素晴らしい。逆にいうと、バガボンのパパは普通の格好をしていたのではパパらしくないのだ。マンガの聖地、椎名町というのはここから徒歩10分か15分くらいのところにある。あ、椎名町のトキワ荘ね。マニアネタかな。マニアでなくても世代によって知っている人は知っている。

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2007年8月11日 (土)

ウチの自慢の御神輿

お祭り世話人会が数回行われました。毎年9月の第二週の土日で、8日、9日。今年は連合渡御。目白駅前から山手通りを回って新目白通りを各町会の御神輿がぐるりと回ります。ウチの御神輿は担ぎ手が300人くらい必要の大きさの御神輿ですが、まあ、250人がいいところ。もちろん交代要員がついて歩くためです。都内の普通のお祭りでは担ぎ手がいなくて、どこも大変なようです。町内にそういう担ぎ手がいない。

Img_0316ed Img_0322ed 有名なお祭りや、人気のある御神輿ではいわゆる同好会が集まります。写真をごらんください。昨年の撮影ですけど。なんといっても御神輿の姿が良い。昭和7年の御神輿です。このくらいの御神輿は都内の他の町内にもあったと思いますが、戦争で焼けたのが多いようです。で、戦後に作ったのがほとんどのようです。銘竿というレベルの竹竿も似たようなものでしょう。

そういう御神輿は、屋根が塗りというのが多いのですが、ウチのは白木の彫り物。これが自慢。知っている人にはかなりの人気で、担ぎ手は例年担ぎたいということで集まります。拍子を持って馬に乗って立っているのはわたくしの同級生です。大工さんですから適任です。

Img_0303ed わたくしは神酒所で会計をやってます。パソコンに各年度の奉納金明細から経費一切の会計項目が入っております。また、写真のような神酒所の神棚をお供え一式やっております。日本橋の和紙専門店のはいばらから奉書を買ってきて、わたくしが御幣を作ります。これって知らないとまったく作れない。また大きな榊を用意します。それから、奉書をくるくる巻いて左右に飾るやつを作ります。これも巻き方、巻きの方向があります。剣術道場の神棚にあるのを昔の映画ではよく見ましたが、最近は見ない。これの名前が分からない。分かる方いらっしゃらないかな。お供えにはその地域、極端にはその町内の伝承があります。塩、米、水は神道に作法があり、共通のようです。ずっと以前に町内の前担当者から引き継ぎました。マダイも2匹。野菜、果物。Img_0323ed あとは稲穂ですね。御神輿の鳳凰の口に奉書で巻いてから麻でくくりつける。写真にも写っています。神道ではなんでも麻ですからほそぼそと需要がある。榊に御幣をくくり付けるのも麻でないといけない。昔は水道工事の必需品でしたよね。パイプのネジに巻いてから締める。あ、世代によって見たことない人が多いかも。

昔はどこの町内にも、神農の専門家でもある香具師がいて、そういうことは常識だった。ウチの町内にもいたそうです。テキ屋さんです。それと町内の頭がいた。鳶の頭ね。現在は激減でしょう。

このくらいの内容ですと、御神輿やお祭りのワード検索でいらっしゃった方にも格好がつくでしょうかな。

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2007年8月 4日 (土)

検索ワードについて

1竿敏、2石鯛、3和竿、4リール、5遊遊さなか大図鑑、6石鯛竿、6abu、6ソフトバンク、9自作、10ヘチ竿、10アンバサダー、12ABU、13ダイレクトリール、14釣り、14竹竿、16携帯、17作り方

うーむ。これはこのブログにいらっしゃる検索ワードのここ1ヶ月のランキングである。アクセス解析でいろいろ分かる。書き込みが活発になり、アクセスが連動して活発になってきたのはここ1ヶ月である。反復固定客を含めて毎日平均20人くらいの訪問があり、平均100を越えるページが読まれている。いや、見られているかな。ページといっても、さなかちゃんトップのページを全部読むには自分でもいやになりそうな分量だ。竹竿のカテゴリーページなんてもっと勘弁しての分量だろう。読んで役に立つといった考えで書いていないので、あまり役に立たないことは確かである。まあいつも書いているけど、中の下から中の中くらいの情報と経験を持っていて、それがどこかに出ているかも知れない。それだけだ。これを見ると、結局、書き込んできた内容と比例する。

ソフトバンクと携帯ねえ。これは例外で一度書いただけ。来てみてがっかりするだろう。そういうことはいろいろあるはずだ。不肖わたくしは、1989年から、パソコン通信のはしりの時代からやってきた。入れ込んだり離れたり。あれは双方向型で、反応を見て反応するという新しいコミュニケーションであった。ブログはそういうことができる発展型であり、普通のホームページと違って、電脳掲示板の発展系と思っているが、いまのところそういう機能はいまひとつだ。

ところで。マニアが検索する。そうだ、マニアは情報を検索するのだ。検索上位はそういうマニアが付いている項目なのだ。竿敏、石鯛、アンバサダー。しかり、しかり。検索ワードは100くらいあるが、DAMで来た人もいる。リールで書いたドイツの釣り具メーカーね。こんなのいるのかよ。祭りというワードで3人。えー、書いていないよ。どこで書いたか分からない。これから、ウチの町会の自慢の立派な御神輿はぜひとも書こうと思っているのだが。おっちょこちょいのマニアがいるんだねえ。

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2007年7月13日 (金)

磯釣人魚会の谷島さん

関東の石鯛釣り師ならこの人を知らない人はもぐりであった。ちょっとオーバーかな。非常に残念なことに若くして病を得てお亡くなりになった。具合が悪くなっていた時のやつれた姿を見たことがあるので、遠くから及ばすながら心配していた。ご冥福をお祈りする。わたくしが磯釣りに入門して全磯関東支部の他の磯釣り会の大きな顔をした面々に接したころ、すでに強烈な個性で活躍なさっていた。とにかく有名人であった。顔は真っ黒、声はガラガラ。築地市場の関係者であった。声だけでなく、築地でも少しも負けないガラだ。あ、そうだ、ネット仲間のたぬきさんに似ている。たぬきさんを二回りガラを悪くした感じ。ごめん、ネタとしても知らない人はまったく分からない。突然の不意打ち、ごめん。東海汽船のフィッシングクラブの役員世話人から幹事長になって、その行事を推進なさった。その後、磯釣人魚会の会長となった。自分と同年代とは思ったが、少し上だとしか思えなかった。実は一年下だと知ったのは晩年である。高校生の時から石鯛をやっていたそうなので、自分より10年くらい先輩であることになる。人魚会は石鯛一本の会として知られ、学釣連OBが多いのが特徴。人魚会を知らない関東の磯釣り師は昔だったらもぐりだろう。釣り師の組織運動が斜陽ではなかった時代である。全磯しかり、ヘラの日研しかり。前置きを書くと長くなるのでここらで中断。谷島さんのエピソードは枚挙にいとまがないのでいつかそのうち後日。

この谷島さんが竿敏のフリークであった。ずっと昔、なにかの大会で我々と竿を並べた時、竿敏の元竿をなぜながら、あんなグラスロッドになんか負けるなよ、と奇天烈な冗談を飛ばしてくれたことは記憶に強く残っている。仁さんはガラが悪いから食わない。どちらの餌を食ったらよいか魚は分かっているさ、とかへらず口をたたいた。自分は竹の石鯛竿を2本か3本しか持っていない時でグラスを使うことが多かった。谷島さんも入門時はNH16Hでフルスイングしたと話していたけど。

さて、本題。谷島さんは竹の石鯛竿論を展開する数少ない一人だった。竿敏に関しても知識情報該博であった。ああ見えても、あの人相風体でもかなり研究熱心であった。竿茂を持っていった時に、谷島さん会うと竿茂の石鯛竿について論じた。竿茂をよく知っていた。印象批評からちょっとした竹竿論。筑水を持っていった時にも論じた。ところが、かなり昔だが、御蔵島の沖手房で竿を出していたら、我々のところに他の渡船が近づいてきて、チャカ付けしてきた。すでに何人か竿を出していて、それほど釣り座があるわけではない。誰かいなと見たら谷島さんが乗ってきた。苦笑しながら、こんなところで偶然に、来ていたの、いやいやいやどうも、、、と歓迎の挨拶をした。まさかガンを飛ばすわけにはいかない。こういう時に絶対にガンを飛ばさないのが我々の会の美しい教え。たとえ誰だろうと同じ。支度する道具を見て驚いた。当時のカーボンの一番強い竿、リールはペンの4/0くらい。道糸がめちゃくちゃ太くて釣り物を間違えているようなダイマーニだった。竿敏命の信奉者がどうしたのだ。心境の変化はどういうことか。なんでこんなの使うのかと聞いた。この頃は12キロ以上のヤツを釣ることだけが目的だよ。人魚会の会員が八丈の一の根で記録したヤツは知れ渡っていた。それ以外はいらない。それより小さいのを釣るためにやっているのじゃない。小さいのは釣れないような針を使っている。というようなことを言った。じゃあ、竿敏はどうするのと聞いた。欲しいという会の若いもんに出している。え、なにそれ。会の賞品として出しているんだ。半分は分かるけど、聞いて驚いた。心境の変化。長くなったので、心境変化以前の谷島さんの竹竿論と竿敏論、そして自分の竹竿論は後日改める。これが本題だから、まったく本題に入っていないことになってしまった。長い前置きだ。

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2007年5月11日 (金)

薔薇が咲いた

内の裏庭。猫のひたいの過酷な環境に咲いている。商売に似合わず、あまり手をかけてもらえない薔薇。よくアブラムシにやられて、あっというまに葉が全滅しても、なんとか生きている。塀の外にはシャガ。ゼラニウムの鉢も置いている。そばには雑草も花を咲かせている。黄色はごくごく小さな花でよく道端に見る。すみれの極小タイプも咲いている。この季節はどこでも一斉に百花繚乱。ステレオ写真の頃はよく出かけた。銀塩の古いレンズを入手するとまたよく出かけた。はい、カメラバックと中型三脚を持って。そういうおじさんがたくさんいて、その中に入り込んでいたことも。クラカメとセミクラカメだと静物よりもスナップ撮影に出かけたことも多かった。バルナックライカがやはり良い。古いエルマーやズミクロン、ズミタールがよかった。Imgp47681 Imgp47721 Imgp47731 Imgp47771

デジカメの今はほとんどやらなくなった。せっかくデジカメ一眼と大口径ズームがあるからもったいない。28ミリ70ミリF2.8というやつ。開放で使うと背景がみごとにボケて、花にはぴったり。コンパクトデジカメはレンズが暗いからどうしてもパンフォーカスになっちゃう。画面全体がシャープで鮮明で、仕方がないといえば仕方がない。その用途で使っているのは初代のイクシー。ズームがないけど、一番コンパクトだから便利。

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2007年4月 1日 (日)

神田川の桜

Imgp4734_edited1 今日、4月1日日曜。どこでも桜が最高。ウチから100mの神田川流域の旧落合付近から小滝橋まで桜の名所になってきている。小滝橋から中央線を越えて青梅街道の淀橋まで同様の景観となっている。遠方から来た見物人が多い。さらに高田馬場から下流も両側に桜並木が繋がる。椿山荘の下も名所。

正面には池袋のサンシャインビル、黄色の西武新宿線を見る。画面の下流50mくらいが妙正寺川との合流点、落合である。

とりあえず撮影した数点。

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