本の紹介

2009年11月 5日 (木)

ラウムビルトその2

ドイツ語でラウムビルトは立体写真のことです。空間ラウムの写真像ビルトです。アメリカのEBAYから2回ほどラウムビルトを落札したことがあります。ドイツのEBAYならRaumbildで検索するとちゃんと出てきます。ドイツの出品はバラ売りカードが多い。だいたい1枚1ユーロ。

http://shop.ebay.de/?_from=R40&_trksid=p3907.m38.l1313&_nkw=Raumbild&_sacat=See-All-Categories

しかし、アメリカのEBAYではRaumbildでは出てきません。CollectiblesStereoviewsで検索すると、やっとその中に発見することができます。

http://collectibles.shop.ebay.com/Stereoviews-/13706/i.html?_npmv=3

3500枚くらいのホームズベイツ式のステレオカードがあって、さらにRaumbildで絞ると出ます。直接の検索ではヒットしないのが不思議。

http://collectibles.shop.ebay.com/i.html?_nkw=raumbild&_sacat=13706&_trksid=m270&_dmpt=Art_Photo_Images&_odkw=&_osacat=13706

09年11月の検索では23件ヒット。アメリカの業者出品はブックが多い。

ブックが欠損したバラのカードがあり。他の検索では、たまにビューアーだけがあり。通常はビューアーとカードがセットになっているブック。

Img_4442 Img_4444 Img_4443 Img_4445 ブックでもカード枚数の多いシリーズは高価だ。ウチにあるブックは、24枚カードという最小クラスのブックです。これで140ドル。現在も同じものが同じ値段で出ていた。えーと、Kostbarkeiten des Barock。バロックの宝石のその2です。表題を訳すと、17世紀、18世紀の世俗建築と室内装飾。教会ではないシリーズで、その1が教会建築となっている。こちらは持っていない。

その他にウチにあるのはブック欠損のカードだけのいくつかのシリーズもの。それと美品の単独ビューアーが付いていた。基本的にブックの形式は写真のようにビューアーが定位置に収まるようになっている。そして、解説ページがある。だから本来はブックの数だけビューアーが増えていくということになる。

Img_4449 ウチのカードのみのシリーズは、バイエルンが33枚。ドイツの田舎というシリーズの1と2、それぞれ30枚。戦災破壊建物のビフォーアフターというシリーズが30枚。これは歴史的建築が廃墟になって、見ると悲しい残念な気持ちになる。同じ位置から破壊後の姿を撮影している。他にRothenburg ob der Tauberという12枚。ベルリン ポツダムという27枚。

全般的に古き良きヨーロッパそのものという香り。有名な中世からの都市と名もないドイツの田舎町。ドイツ山岳地方。民族衣装というのかな、大人がはいている革の半ズボンが似合うようなスイスからオーストリア、ドイツにまたがるヨーロッパ風景。どれも見ているだけでしびれます。

実は、これらのシリーズはすべて、Made and Printed in West-Germanyとなっている。

西ドイツの印刷とある。つまり戦後の製品だ。撮影は多分戦前が多いと思うが英語とドイツ語が裏面に印刷されている。アメリカへの輸出用だ。戦前版にはドイツ語だけで英語は一切無い。バロックの宝石シリーズがそうです。

その1に紹介したHPを見ると、ブックというのはかなりの種類があって、名所旧跡や、風景が多い。ドイツの他にヨーロッパの主要地がある。ウイーンとかプラハなどの東欧や北欧もある。イタリアも多い。このオットーの会社はナチスにすり寄っていたのは確かですが、当時の事情を考えたら仕方がないだろう。立派だなと思うのは、教育分野もあること。両生類の立体骨格というシリーズのブックを見たことがあります。看護婦用の外科手当教育なんてのも見た。そして自らはラウムビルト出版といっていた。立体写真の業者としてアメリカのアンダーウッドやキーストンとは違う発展を目指したかも知れない。ラウムビルトを広く大きな山脈に発展させるという総合戦略を考えていたのでしょう。しかし戦争で挫折したのはどうしようもない歴史の流れ。でも、戦後の1950年代まではなんとか存続していたようです。なぜ、消滅したのか。キーストンが衰退し、リアリストやビューマスターでさえ結局は消えたのだから、やはり滅びたのは運命だったのだ。美しい悲劇である、と評価したい。それから、戦前の日本にどのくらい入っていたのか。日本におけるラウムビルトに詳しい方がいらっしゃったら、そのあたりを教えていただきたい。また、同好の方がいらっしゃったら連絡をお待ちしております。もしかして、特殊ハイレベルすぎて、いらっしゃらないかも。そんなことないか。日本では、そうだな、5人くらいかな。

Bztsyiwcgkkgrhgookkmejllmvusbkmbpsc Br3rmqq2kkgrhgohc8ejlll3wegbkmbn3bp 370221462248_1_0_1 1936年ベルリンオリンピックのラウムビルトが大量輸入されたかどうか。当時の情勢ではあり得ると思う。ナチス信奉派の陸軍の一部とか、その関係者がナチスものということでラウムビルトを日本に輸入していたかも知れない。

ラウムビルトのサイズは60ミリx130ミリのカードで画面は48ミリ角。印画紙を使っている。12ミリ空きだからベースは60ミリということになる。ベース60ミリは裸眼でも容易に立体視可能。裏面には解説が印刷されているというスタイル。

実は、ドイツにも類似品のシリーズがあり、イギリスにもある。イギリスはビスタスクリーンという。独特のビューアーとカードが手元にあるので次回に。このあたりになるとステレオファンでもレレレだろう。

ここで思い出すのは45mmx107mmのステレオ判。え、思い出さない。当ブログの萩原朔太郎のところで登場したステレオ乾板です。このサイズはその後、ベスト判フィルムのロールバック付きカメラに転進していきました。ちんぷんかんぷん、なんじゃらほい。クラシックカメラと写真の歴史とステレオ写真のすべての素養が必要なので、なんじゃらほい、ということで申し訳ない。ブローニーフィルムとベストフィルムのステレオカメラがありましたね。ローライドスコープには両方あります。ベスト判というのは40x65mm。ステレオにはいわゆる44判です。44判二眼レフというのがありましたが、その三眼カメラ版です。しかし、ラウムビルトは48ミリ角ですからベストステレオ密着焼きより大きい。

Img_4453 ホームズベイツのステレオカードとラウムビルトとリアリストを並べた比較写真。このホームズベイツは88mmの178mm。実はメーカーでけっこうサイズが違います。90の180くらいのがあるかな。面倒だから他は測っていない。画像は65の68でした。画像もそうとう大きさが違います。

Img_4447 で、以前に当ブログに登場した、パリのリシャールのビューアーを出してみました。45mmが横から入れるようになっているので、60mmの130mmカードは入らない。しかし、上に置くことができて、立派に立体視鑑賞可能です。どちらも、レンズの焦点距離は70ミリから75ミリといったところ。つまり、3.5倍のビューアーです。虫眼鏡の光学超初級理論。ここで撮影焦点距離と同じレンズで鑑賞すると同じ画角鑑賞となり、最も理想的ということを思い出してください。画像の大きさと鑑賞距離理論です。この周辺については誰も語らない。無視しているのか、無知なのか。不思議です。超広角レンズ撮影の画像を標準レンズの画角で鑑賞していることの意味。以前に当ブログのどこかに書いております。裸眼と違う見え方を無意識で享受しているわけだが、人間ではない眼球の見え方であり、そういうものを楽しむ感覚レベルを持っているわけね。

では、このラウムビルトを裸眼立体視するときの主要データとそれぞれの意味を論じよ。というような試験問題が出たら答案はどうしますか。これまでの記事を読むだけで、アヘアヘとなっているでしょうからやめます。つまり、ド素人のワタクシがいいたいことをいっているにすぎない。ははは。

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2009年10月29日 (木)

ラウムビルドその1

ラウムビルドをご存じか。またまた、なんじゃこれは。ステレオ写真ファン、いや、日本における、かなりの愛好家レベルが限定対象です。申し訳ない。でも、おもしろい。まず、知らないと思う。聞いたことがあるという方、偉い。ステレオ写真ファンの経験だけは長いよと自負するワタクシも数年前まで、やっとこで、このレベルの下に引っ掛かる程度だったのです。その知識というと、ドイツにはベルリンオリンピックの立体写真があり、ブックの形式であること、ナチス親衛隊の黒制服やヒトラー総統のステレオ写真があるということ。その視線がこちらを見て、画面から妖気が漂うごとく浮き上がっている。知っていると言う方もそんなものでしょう。

数年前から、アメリカのEBAYの光り輝くステレオ写真の山脈を時折ですが、麓から眺めていたのです。よし、そろそろ踏み込んでみようと、昨年くらいからPAYPAL口座を作ったのですが、いろいろと出てくるのでその現物を手に持つことができました。本国に公式HPみたいなものがあります。ドイツ語です。

まず、このアドレスをご覧ください。ステレオ写真ファンでなくとも、見ておいて損はないでしょう。へー、こういうものがあったのか、ふーん。

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http://www.stereofotos.de/Raumbildbaende/Otto_Schonstein/body_otto_schonstein.html

この写真のスカルプ頭の人物が作り上げたものです。オットーシュオーンシュタイン。ショーンシュタインかな。

Otto Schönstein 発音がこれで良いのかどうか分かりません。第二外国語はフランス語だったのですが、基本的に日本語しかダメ。メルシーボクーコマンタレブー。トレビヤン。しかし、いかにも、いかにもというドイツの風貌で、気に入りました。映画に出てくるような類型人物と思います。

http://www.stereofotos.de/Raumbildbaende/Raumbildband/Frank___Heidecke/body_frank___heidecke.html

中にブラウンシュヴァイクのフランケハイデッケがあります。ハイドスコープとローライドスコープのプロモーション目的とあります。クラシックカメラファンの基本中の基本アイテム。貴重な資料です。いつかは程度の良いローライドスコープで撮影したいというのはステレオ写真ファンの憧れでしょう。

Bild1190

そして、これが民族の祭典ベルリンオリンピックのラウムビルドです。

http://www.stereofotos.de/Raumbildbaende/Raumbildband_Schoenstein_/Die_Olympischen_Spiele_1936/body_die_olympischen_spiele_1936.html

この現物がEBAYに出たことがあります。その筋の世界に、これあり、と知る人は知る超有名アイテムですが、世界にかなりの数が現存していることは間違いありません。よし、と決死の覚悟で参加しましたが、遙か上の上に飛んでいきました。ワタクシが、これは、と思っているくらいですから、世界のファンもこれはと思っているわけです。この中にベルリンオリンピックの記録映画を撮った有名な女性監督もいます。レニ・リーフェンシュタールです。

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次にナチス国威発揚ものがラウムビルドの特徴でしょう。

http://www.stereofotos.de/Raumbildbaende/Raumbildband_Schoenstein_/Der_Kampf_im_Westen/body_der_kampf_im_westen.html

西部戦線の戦いです。フランス、オランダに侵入した時かな。

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http://www.stereofotos.de/Raumbildbaende/Raumbildband_Schoenstein_/Hitler-Mussolini/body_hitler-mussolini.html

ヒトラーとムッソリーニなんてのもありますよ。

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とにかく、膨大な分量がある。関心のある方はこのHPをすみずみまでご覧ください。長くなりますので、次はEBAYでどこにどういうものがあるのか、ワタクシが持っているものを含めて、また、専用ビューアーなども説明します。

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2009年10月26日 (月)

先達の磯釣りその8

その7で触れた関東磯釣クラブの井ノ口和雄さん。ほとんどリアルタイムに近くなってしまった。実は、以前の先達の磯釣りの記事の中にも登場しているが、日本磯釣倶楽部で全磯連初代会長の三谷嘉明を欠き、磯釣同和会から関東磯釣クラブの野口勝弘を差し置いてはまったくバランスが悪い。歴史上の人物だから敬称略ね。あ、理論家の長岡輝衛も欠いている。その理由は、エポックメーキングな磯釣りの著書を背景にしているからだ。長岡はかなり書いているが、たしかまとまったものはないと思う。

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注意。以下本気で読んだら長いよ。それでも駆け足ではしょって書いているけど。

昭和44年井ノ口和雄さんは「離島の大物釣り」を書いた。473ページある。すごいものだった。いまでもスゴイ。前編が釣技。後編が釣り場ガイドという構成。釣り場は日本全国を網羅している。すごすぎる。初心者が読むと寒気がして怖じけ付くのは間違いない。別世界と思いながら、九州、奄美、沖縄を読んだ。その当時の西表島、波照間島、与那国島の記事は今読んでもおもしろい。男女群島の記事では、すでに「九州の釣り人はもとより、日本全国から釣り人がひきもきらずに押し寄せる」と書かれている。チャーターは10トンの船で1日一万五千円から二万円という時代。

井ノ口和雄さんは昭和9年生まれ、日本航空勤務、大橋巨泉の11PM釣り情報にたびたび出演した。関東磯は俳優で磯釣りもやる梅宮辰夫もいた日本磯釣連合の名門クラブで、現在も健在の御仁です。75歳になるのかな。直接的には知らない。勝手にこんな論評をしてしまって申し訳ない。潮風会にも所属して懇意にしてもらっていた先輩が関東磯の大幹部で、(いや、語感が似ていますが、その筋の組織ではありません、念のため)井ノ口さんの先輩だ。いろいろ話を聞くと、井ノ口さんは一度退会してまた入って、最近やめたという。引退なのかな。日本航空勤務を利用してとんでもない島で磯釣りをやっているのを読んだことがある。大西洋のカナリア群島だったかな、アフリカの沖です。イシダイに似た魚が磯にいるそうです。オーストラリア周辺、ニュージーランド周辺、南太平洋だったら分かるが、大西洋ですぞ。インド洋なら、さもあらん、というでしょうが、大西洋となるとねえ。

伊豆諸島の釣りは約100ページを割いている。カジキの突きん棒だけで生活している漁師は数十人いるが、神津が一番と書かれている。神津島GPのコメントで触れた突きん棒の現況に愕然とする。この時代、民宿は一泊三食で1000円だ。銭州は昭和36年大阪磯釣クラブの森岡秀泰が釣り人として初渡礁とある。森岡は初渡礁マニアで知る人は知る。この人はパイオニアとして大先達の一人。イナンバにも昭和39年に初渡礁した。米軍の射撃訓練があって、危ないと書かれている。三宅の三本は東京のクラブが昭和34年開拓とある。三本もそれまで米軍の爆撃訓練の場所だったのは知っている。神津のタダナエはそれより古くから日本海軍の艦砲射撃の標的だったと、渡船と観光船もやっていた竜宮丸の船長から聞いたことがある。神津は岡から近い渡船の磯があるので、もっと古くからやっていたと思う。

ぱらぱら読み直して光っているのは、神津の潮の呼び名だ。南西からがシンバ潮、(多分語源は新場)。北東からがニッチョ。北西からがオトシオ。南東からがデシオ。潮の内容として黒潮本流がミシオ。寒流系の冷たい潮がオオシオ。暖流寒流が混じっている潮はオトシオとある。シンバというのは黒潮系であり、シンバデシオ、シンバオトシオがある。神津が黒潮本流にすっぽりという時だけシンバ潮という。普通は蛇行したり、青ヶ島と八丈の間を通ったりしますよね。うーん、わたくしは以前に潮と風の民俗学考察は柳田邦男にいたるまでもっと調べた経験がある。風の呼び名は全国各地に方言がある。全国の漁村の風俗は民俗学の研究対象なのだ。生かじりだったので今ではすべて忘れた。とほほ。

八丈小島の記事もおもしろい。まだ住民が生活していた時代だ。宿泊設備のある家はない。カヌーが2隻だけ。本島との連絡船は週一便。漁船チャーターは1万円だが、5月6月にテングサ船に便乗が良いとある。これなら、3人パーティで2千か3千円。ふーむ。磯釣りは昭和39年に開拓された。現在は無人となっているが、実際に島を見ると、こんなところに住む場所がないよなと思う。

青ヶ島は不便さにかけてはトカラや南大東島をしのいで日本一とある。なんと月1回就航だった。村営の環住丸がなかったのだね。「将来どうみても青ヶ島が一般的な釣り場になることは考えられない。ヘリコプターを使って出来るようになれば、ここも改めて見直されるかも知れない」と書かれている。その後、村営連絡船による週1就航時代に潮風会の先輩が行って記録物を釣った。半月帰れないかも知れないといっていた。わたくしはかなり以前、ヘリコプター時代に行って返り討ちにあった。それでも下手すると天候待ちで2、3日以上は足留めがあると覚悟だった。現在多くの釣り師が行っているが、記録物時代のように青ヶ島は燃えていない。

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この井ノ口さん写真。帽子のツバを跳ね上げて、バッチをたくさん付けている。尻には毛皮の尻当て。わたくしも昔はこんな格好だった。大物章の金バッチを帽子に。尻当ては山岳用品屋で売っていた。だいたい山羊だった。もっと大昔は日本カモシカが最上とか。

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2009年9月19日 (土)

先達の磯釣その7

このスレッドはネタが切れてきた。多分これで最後かも。全磯連の大先輩である塩地和男さん。名門、新潮会の所属である。この会はよく知られているが最盛期はものすごい会員数だった。その後、分裂があったようだ。敏影さん、中村ご隠居、寺門さんなど、磯釣りの先達が。関東の磯釣師では知らないとモグリでしょう。ウチの近所の新宿の小滝橋に釣り道具屋をやっていた新田さんという人もいた。回転リールの新田式投法というのがスゴイ。ただし、知る人はほどんどいない。知っていたら偉い。あの世でそろって磯釣りをしているのだろうか。あ、あ、塩地さんは現在もご活躍で、大島ではよくご尊顔を拝することがある。しかも、ホームページを持っていらっしゃる。

プロフィール

http://www.geocities.jp/djnfw907/purofeel.htm

Img_4376 Img_4377 Img_4378 これを見ると、昭和5年だからウチの会や他の会の諸先輩に比べるとやや若い。ご老人に若いというのもナンだが、「磯釣りと釣り場案内」を書いたのが若い時だ。32歳のバリバリの時だったのだ。最初はもっと上の世代の御仁かと思っていた。昭和37年初版。1962年。版を重ねた。大泉書店。ウチにあるのは昭和45年だ。序を永田一脩大先達が書いている。そこに、書き始めて3年、調べ始めて10年とある。関東の磯釣り場をこれだけ網羅したのは初めてだっただろう。当時の磯釣り入門者にはバイブルのようなものだった。今見て、そのころの写真がおもしろい。広告がおもしろい。当時の渡船の案内解説がおもしろい。

塩地さんはその後、シロギス釣り、渚のクロダイ釣りなど、釣り場や釣技を開発して全国を歩いている。

ついでだから、この次、いつか近いうちに井ノ口和雄さんも紹介しようかな。「離島の大物釣り」というのを昭和44年に書いている。日磯の関東磯釣クラブにいた人。最近、会はやめているらしいと聞いた。昭和9年の人だ。

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2009年8月 6日 (木)

東松照明写真集 11時02分 NAGASAKI

Img_4325 Img_4326 夏になると、マスコミは原爆特集、そして8/15の終戦特集をやる。夏と結びついていて、身体にしみ込んできた夏のイメージの一面だという人があった。夏には反戦が浮上するのならば良いのじゃないかな。希薄になって、忘れられるということがないように祈りたい。

Img_4327 東松照明は日本の代表的写真家。「11時02分 NAGASAKI」は昭和41年8月1日に発行された。彼の最初の写真集。あまりにも有名だから説明は不要だろう。

Img_4328 その後、1995年6月に新潮社から、普及改訂版というべき、「長崎<11:02>1945年8月9日」(2000円)が出た。こちらは現行に近いので、知っている人、持っている人は少なくないだろう。新しく収められた写真も多い。腰巻きには<戦後写真史の金字塔 被爆地・長崎を重層的にとらえた傑作写真集を新編集復刻!!>とある。

子供のころ、土門拳の「ヒロシマ」とか「筑豊のこどもたち」があった。すぐに捨てられてどっかにいってしまった。残念。

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2009年8月 4日 (火)

F・ベアトその1

日本の写真黎明期の巨人ベアト。わたくしには幕末の写真というだけで価値があるのだが、現在から普通に見ても優れた写真、立派な写真が多いと思う。だがしかし、ベアトは日本の写真の歴史のスタートからすると遅れて日本にやってきた写真家である。すでに、外国からやってきた写真師と少数の日本人のパイオニア写真師が活躍していた。それでも当時の日本の写真界では、ベアトが芸術的センスや技術において他に優越していたというのが定評だろう。日本にやってくるまでの経緯は、その筋ではよく知られているので省略。

Img_4325 ベアトの写真集では横浜開港資料館による編集で明石書店が刊行した三部作がある。最初に1987年12月に出た、「幕末日本の風景と人びと フェリックス・ベアト写真集」(本体4000円+税)。これはハードカバー本。そしてその後、2006年7月、同じ内容に一部加筆訂正した新装版「F・ベアト写真集1」(2800円+税)を出版。軽装復刻版に近い。これに数ヶ月先立つ2006年4月に写真集1とは重複しない写真を収録し、その後に判明した研究成果解説のある「F・ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」が刊行されている。出版の順番が前後していて、2が先に出て1が出たわけだ。最初の87年版を持っていたが、新しいベアト写真集1と2を購入した。ベアトは、有無を言わせないだけの価値がある。ベアトのセンスによって日本の美しい原風景の最後の姿と、その時代の幕末明治の日本人が切り取られ、見事に静止して生きているからだ。これから西洋文明が浸透して、消化していかなければならなくなる時代だ。

Img_4326 Img_4327

ベアトの略歴を新装版カバー裏の紹介文から引用する。

<イギリス領コルフ島(イオニア海の島、現在はギリシャ領)の出身。報道写真家としてクリミア戦争、インド大反乱(いわゆるセポイの乱)、中国のアロー合戦争等を取材し、文久3年(1863)春に来日した。横浜を拠点に幕末明治の数年間、精力的に各地の風景や日本人の風俗・習慣を撮影するとともに、元治元年(1864)下関戦争に従軍、芸術性豊かな風景写真や彩色を施した風俗写真を生み出し、日本に於ける写真表現の源流を形成した。明治17年(1884)離日。晩年はビルマ(現在のミャンマー)で写真館や骨董店を経営していたが、没年は不明。>

ベアトのアルバムと個別写真を多数所蔵する横浜開港資料館の斉藤多喜夫がベアト研究では第一人者。ベアトは横浜で活躍し、いわゆる横浜写真の源流であるからだ。この人による87年版と06年版の解説がほとんど唯一の定番となっていると思われる。生年は1834年と判明して旧説と9年の違いが明らかになったそうだ。イギリス領となっていた元ベネツィア領民である。イタリア系のイギリス人だ。コルフ島はイタリアから地中海をギリシャに近い位置にある。兄のアントニオ・ベアトは1864年に有名なエジプトのスフィンクスに並ぶサムライを撮影した。幕府第二次遣欧使節団の姿である。兄はエジプトでサムライの写真を撮っていたのだ。当ブログの以前の記事でも触れている。島を出て海外で生きようという心を持った兄弟だ。その時代に発明され普及しだした写真を拠り所というか生きる糧として。この時代を考えても、うらやましい生き方だ。やっと、民間人が、目的があれば世界を移動できるという時代になった。その手段は蒸気機関外輪動力付きの帆船という時代だろう。日本では黒船出現という船の時代。地中海に生まれた人間には古代フェニキアの時代から海外雄飛は珍しくないという精神を持っていたのだろう。つまり海を越えて航海すれば異国に着くのが当たり前。そういう血を持ったベネツィア人だったのだろう。いいねえ。ベアトはイタリアの陽気な性格と社交性を持っていたそうだ。

新しく発明された写真の持つ驚きの能力。世界を旅行し撮影した写真家はその写真の威力を実現し、ニーズに応えた。この時代の世界を旅した写真家は少なくないだろう。欧米先進国には遠い異国、アジア、中東、アフリカの写真にはニーズがあっただろう。ところが、ベアトは30歳から50歳まで日本に居着いてしまった。イタリア人らしい社交的な性格で、テニスとボウリングを趣味とし、横浜山手居留地の建て売り住宅不動産業、横浜グランドホテル開業オーナーの一人。アメリカの朝鮮遠征隊に同行。絹の商売、絨毯の輸入。銀相場で大資産を作り、米相場で失敗。スッカラカンとなった。と新書館の「世界の写真家101」(1997年・本体1800円+税)にベアトが出ていて、大島洋が書いている。銀相場と米相場はよく知られているが、他の経歴はビックリだった。ともかく、ここではベアトは歴史上の名だたる写真家の中に名を連ねている。

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2009年7月30日 (木)

眼の誕生

Img_4326 ついでに同じような書評連発。えーと、2006年3月発行だ。すると3年前。この本もおもしろかった。今この本を拾い読みすると、やはりやはり、ほとんどの内容が右から左に通過しているだけだった。これは前記書評の本と同じ。どちらも読み直す価値があるな。繰り返し読んで、本のとじがバラバラになるという中国のことわざ、なんというのだっけ。

緯篇断つだったかな。読書なんとか自ずから意が通ずというのはちょっと違う。こっちは380ページある。「眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く」(アンドリュー・パーカー、草思社2200円+税)

で、腰巻きの文章には、5億4300万年前、生命最初の「眼」がすべてを変えた。生物はなぜ、突然、爆発的に進化したのか?そのカギをにぎる「光スイッチ」とは。生命史上最大の謎に迫る、驚きの新仮説。すごいでしょ。わたくしだったら、これを読んで、むむむむ、、、と低くうなる。

もうひとつ。キャッチコピーが腰巻きの裏に。<40億年前に誕生した生命は、34億年もの時をかけて、ようやくクラゲやカイメンに進化した。だが5億4300万年前、生物は突如として爆発的に進化し、僅か500万年で多様な形態を持つに至った。その謎を解く鍵は「眼」にあった。(うん、なるほど、なるほど、そいつはよく聞く話だ、わたくしでも興味を持っていた、それで、、どうなの・・????)地球上に登場した「最初の眼」とはいかなるものだったのか?それは進化にどんな影響をもたらしたのか?「眼の誕生」にまつわる意外なドラマが明らかになるとき、カンブリア紀大進化の謎に終止符が打たれる。(むむむむ、なんと、そうか、そうでございますか、、それで、、それで、、)

カンブリア紀大進化の謎。普通はカンブリア爆発というね。この言葉には弱い。インパクトも強い。クラクラクラクラと幻惑される。バージェス頁岩。エディアカラ動物群、よくわからないが、もうやめてというくらい魅惑のかたまりの言葉だ。めまいがするくらいだ。というのはどこかで繰り返し散発的にこの言葉にお目に掛かって、深い感慨と関心、敬愛の念を持続しているからだ。敬愛の念ってなんだ。しろうと大衆向けの生物科学雑文などでよく出現しますよね。いや、見たこと無いっていう方。そんな訳ありません。関心を寄せていなくても、眼にはいります。頻発出現する普遍的名詞です。

読んでいて、最初はふーん、そうなの、すごいね、くらいだったが。へー、たいしたもんだ、おそれいりました、そうでございましたか。知らぬ事とは申せ、大昔の生物高校教科書レベルの知識しか持たないので、最近の研究までは知りませんでした。なにとぞご勘弁ください。そのくらいすごいのだ。生物学はおもしろい。

要するに、あるときまで生物には眼がなかったのだ。いわれてみれば、そうだろうと思うけど、そうだね。見る、見られるが始まったのだ。捕食圧、生存競争、種の保存。ここで、非常に鋭い記述があって、首をひねっている。敵に喰われないため、周囲全体を見渡せる一対の眼を持つよりも、性能は劣っていても数で上回る眼を身体のあちこちに配備するという手があったのに、そのような進化とならなかったこと。例外を除いて一対だ。眼の進化は生物にとって、非常なコストがかかる。必要性からコストを克服してきた。簡単で済むならば、他の部分にコストを振り向けるだろう。なぜだ。前後左右、上下。六眼。こういう眼はなぜないのか。こういう考察はしろーとの範囲を逸脱しています。

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2009年7月26日 (日)

目の誕生は私たちをどう変えたか

Img_4324 見ること。つまり視覚全般の探求には自分なりに関心をよせていた。でも、それとなく程度。わたくしのような人間にとって、この本は広く浅く、生物が見るということの周辺分野を含めて過去の研究の歴史から現在の先端学術知見のいろいろな到達点をすべて網羅しているように思えた。これは読むべし。「見る 眼の誕生はわたしたちをどう変えたか」(著者サイモン・イングス2009年1月発行・早川書房2600円+税)

人間が見る、もう少し広く、人類に近い霊長類が見るということ、広く脊椎動物が見るとは一体どういうことだろう。しかしこの本はハードカバー本の小さな文字、450ページもある。よくある新書サイズ入門書タイプの数倍の内容はある。外国のサイエンスライターによる一般向けの読み物の翻訳だから普通の人でもそれほどつっかえるところはない。だがしかし、書かれている内容や登場する研究者の名前を半分も知らないレベルだと疲労困憊するかも。わたくしが半分くらいかな。あまりにも守備範囲が広すぎる。ある程度以上の関心を持っていて、多少の予備知識がないと読めないかも知れないな。

ともあれ、視覚脳科学というのはつい最近やっと分かってきた分野である。それまで、難しくて、メカニズムを調べる方法もなかった。ブラックボックスに近い領域だった。光を感ずる細胞から水晶体のレンズから網膜までの進化。桿体細胞、錐体細胞。また、単眼、複眼の違いだけではなく、生物の眼は発生的にも機能的にも何十種類もある。それぞれの生物のまったく違う眼がたくさん存在する。つまり発生的に異なるのだ。

ステレオ写真に関わる両眼立体視機能はごく僅かの動物しか持っていない。ウサギは頭の両側に付いた左右の眼で360度みることができるそうだが、両眼視野はほとんど重ならない。ウサギのような被捕食動物はどこから襲われるかわからないので、奥行きのある立体視より全周囲が見えた方がよい。捕食動物は奥行きが分からないと攻撃できないので立体視は必要不可欠。

視野の一部だけ両眼立体視でその外側は融像立体視できないというのが普通だが、全視野が融像しないと遠近はどうなる。その場合は移動視差で奥行きを把握しているらしい。捕食者も被捕食者も動くものが分かればよい。動かないカモフラージュ模様は遠近が判別できないらしい。2次元の写真を見ている感じ。カマキリのように自分が動いて視差から距離を計測して捕食するスタイルもある。難しいことをやっているな。粗雑な複眼であっても個眼よりも動きはよく見える。ピクセルで見ている。ぼやけているがレーダーのような視覚だそうだ。複眼の中で、非常に狭い視野の集合視覚は連立像眼と呼ばれる。複数の像で見ている。視野が広い重複像眼もある。ひとつのまとまった像を作る。ホタル、カブトムシ、ガ。

あ、思い出した。留まっているトンボなどの昆虫をつかまえるとき、人差し指をゆっくり丸く回す。トンボは見ているのだが、だいたい動かない。ぱっとつかまえることが出来る。半分以上は逃げられるけど。複眼では分割されている個眼の全視野で、一方では像が消え、一方では像が現れている。解像力はあまり良くない。立派なレンズではないからだ。ゆっくりだと、風に揺れる木の枝などの自然の動きに見えるのだろうか。危険を感じないのかな。

わたくしの興味のひとつは立体視に関わることであった。その分野で出会った本はだいたい読むことにしている。どこかで書評を見て、今年の春に通読した。複数の本を同時乱読、しかも高速というのが読書スタイル。だが、一週間くらいかかって読了。その時はとてもおもしろかった。分からないことが相当分かったなと思った。あらためて、拾い読みをすると、その内容、理解は、ほとんど右から左に抜けている。

うーん、これで、よくお目に掛かる書評ブログの内容に近いものを書いた。単に当ブログの焦点がぼやけてきただけなのか。ステレオ写真=立体視=視覚=生物学=科学の歴史=知の探求=いろいろあるが、年寄りのひまつぶし、、、いや、違います。共感する方、ごくごく少ないだろうな。

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2009年6月 1日 (月)

明治の日本。おもしろ写真

Img_0178 彩色写真というものをご存じだろうか。手書きの総天然色である。双眼写真にはまいった、というレベルのものが多いが、彩色写真にも、恐れ入りましたというものが少なくない。え、これが幕末明治の写真なの、と驚く。主に本国に帰る外国人のお土産用である。ちょんまげの立派な武士がフルカラーなのだ。

古写真の入門書というか、とにかくおもしろいのは、石黒敬章のもの。この人は肩もこらないし、いいねえ。軽さが好きだ。わたくしはファンの一人というべきか。石黒敬七コレクションを引き継いだ、由緒正しい御仁である。

Img_0176 Img_0177 石黒敬章の基本定番として「幕末明治のおもしろ写真」1996年・平凡社コロナブックス1600円と、「続幕末明治のおもしろ写真」1998年・同がある。これは、まったく無地白紙のごく普通の人にもお勧めできる。

Img_0186 ただし、双眼写真についてはごくごく僅かしか触れられていない。写真館の鶴の探索だ。しかし古写真では手頃だし、本屋にある。その後もこの人の古写真編纂ものがいろいろ出版されています。

石黒は、本のあとがきで、つぎのように書いている。「1987年、朝日新聞社から(甦る幕末)が発行されました。ライデン大学のコレクションを公開した写真集です。中略。(幕末に長崎出島に来た、ボードワン兄弟がその当時収集した写真)と同等の珍写真を、百数十年も経た今になって、しかも小遣い程度の資金で集めることはとてもできません。」

そこで石黒は、切り口をひねり、古写真を読み解くおもしろさに絞ったという。屈指の古写真コレクター、石黒がそうなんだから。古写真のコレクションなど普通の人はできっこない。なにかの時によほど絞ってとしてもだ。欧州古都の、それも東欧あたりの骨董品屋の隅に埃をかぶって眠っているかも知れないが。たまたまそういうのを買って帰る人はいらっしゃるだろう。ザザビーとかいうオークションにベアト撮影古写真が出るかも知れないが。普通のお値段ではないだろう。エジプトスフィンクスのサムライや、ナダールスタジオなどはその筋の誰でも知っているから天文学数字。

Img_0181 Img_0182 しかしながら、「甦る幕末」の写真を見たときのインパクトは強烈である。石黒は珍写真といっているが、時代を写している良い写真ばかりである。繰り返し何回見ても濃厚な感動ものである。類書の中では群を抜く。と思う。Img_0183

Img_0187 Img_0188 同じ朝日新聞から、「甦る幕末」と前後して1986年に「読者所蔵古い写真館」が発行されている。編者の後藤和雄は朝日の写真部の人だが、古写真研究で知られる。この中に薩摩藩主島津忠義のステレオカメラとリシャールのビューアーが出ている。鹿児島の尚古集成館の保存されているそうだ。

Img_0189 Img_0190 Img_0191 ステレオ写真は桜島と江戸城、少年剣士の3ペアーをみることが出来る。しかし、ややや、という双眼写真が掲載されている。立体写真機をロンドンから購入した際に見本として送られてきたガラス彩色ペアーのノートルダム寺院。右と左で前掲の石が全然違うのだ。どういうわけか。左右同時撮影しなければこのように撮影はできる。しかし、見本としてなぜ、頭をひねっても分からない。ハイレベルとすれば、視野闘争Img_0192 という現象がありまして、このような双眼撮影の場合は、ビューアーでごらんになりますと、このように見えますよ、、、という説明見本なのか。だとすると、すごいね。

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2009年5月30日 (土)

明治の日本。G・ポンティング

Img_0168 Img_0169 100年前の写真家。日本ではステレオ写真の愛好家しか知らないだろう。でも、写真の歴史にかなり詳しい研究者レベルならば名前を知っているかも知れない。

Img_0171 Img_0172 ところが、「すぐ分かる作家別写真の見かた」(岡部昌幸・東京美術・平成17年・2000円)という受験参考書のような、お手軽ハウツー教養のような本をパラパラ立ち読みしていたら、並み居る歴史的著名写真作家の中に堂々とポンティングが入っていて驚いた。で、この本を買った。よく網羅されていて、解説寸評の教科書的羅列ではある。わたくしも含めて、お手軽大衆化という面では、これはこれで悪くないと思った。

ポンティングはステレオカードの大手、アンダーウッド社とHCホワイト社とも契約。日本中を旅行してステレオ撮影したことで、ステレオファンには知られている。彼が撮影した双眼写真はステレオカードとなって大量に流通した。そこには1900年前後の明治時代中期から後期の日本が見事に残されている。

Img_0170 小学館から立体写真集「NIPPON 明治の日本を旅する」編・伴田良輔1994年が出ており49ペアーの双眼写真を見ることができる。そのころはランダムドットの3Dブームの時だった。ステレオ写真ファンはその当時、小学館は立派だと尊敬し、とても喜んだ。すばらしいと思った。

Img_0173 Herbert George Pontingは1910年ロンドンのマクミラン社から、In Lotus-Iand Japanを出している。原題は「蓮の国日本にて」。蓮がギリシャ神話の食べ物とすると、訳者あとがきに書いているように、「この世の楽園・日本」という意味か。この抄訳が「英国人写真家の見た明治日本」だ。腰巻きにはスコット南極探検隊同行写真家の「百枚の写真で甦る百年前の日本」とある。講談社学術文庫・2005年・1100円。幕末、明治の西洋人による日本旅行記はなんとなく興味があり、おもしろくて何冊か読んでいるが、文庫本になったときに、あのポンティングだということで早速に拝読した。非常に好意的で日本の風土、風俗と日本人を賛美している。双眼写真の片方の普通の単眼写真だが、100カットが掲載されている。現代の日本人が読むと、むずがゆくなるようだ。それは何だろうか。明治の中期後期の日本社会には江戸時代が半分は残っていたのか、と、はるかに思いを致している。絵のように美しい日本の自然。わたくしの年代でいうと、祖父がやっと生まれた時代だ。

その後、ポンティングは1910年から12年、悲劇の英国スコット南極探検隊に写真と映画のカメラマンとして参加。おおお、そうなのか。で、スコット隊長の南極点アタック隊とは別に12年3月に帰国している。先着された絶望と遭難が判明したのは11月だそうだ。映画と写真は大変な評判となった。1921年「The Great White South」が出版され、1950年まで14版を重ねたロングセラーとなった。こちらの業績は彼の死後、写真集がいくつか新編集されているらしい。探しても簡単には見つからないだろうなあ。オフセットカラー印刷らしい。彼の活躍した時代のリアルタイムの写真集もあるが、もっと難しいだろう。

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2009年5月20日 (水)

日本で最初のステレオ写真っていうと2

とにかく、1939年、ダゲレオタイプ発明。この銀板の後に、ガラス湿板以後も、なんじゃら、かんじゃらの歴史がある。わたくしがそんなものをなぞって書いてもどうしようもないので省略。

Img_4294 Img_4295 そこで、日本の写真の黎明期入門書として、「ちくま学芸文庫」の「幕末写真の時代(小沢健志編)」(1994年刊の文庫化で1996年刊)が手頃というか定番かな。この中に1960年幕府の遣米使節団の野々村市の進と川崎道民らのステレオ印画がある。アメリカ軍艦ポーハタンと咸臨丸のときだ。このときに正使たちはポーハンタンに乗艦して少し先行して渡航したのだそうだ。多分、日本人が撮影された最初のステレオ写真だろう。外国のアメリカのスタジオではあるが。

Img_4298 その後、1864年、幕府の第二回遣欧使節団池田筑後の守がパリのナダール写真館でステレオ撮影されている。ナダールという人はその筋ではよく名前が出てくる有名人だ。1862年の第一回遣欧使節団のときにもステレオ写真を撮影されていたかどうか、不明というか、発見されていないようだ。

外国人による日本国内で撮影された最初のステレオ写真としては、1861年英国公使館員ガワーによる神奈川湊がある。横山松三郎双眼写に先立つこと9年だ。

Img_4300 他に、「中橋和泉町松崎晋二写真場(森田峰子)」朝日新聞社2002年がおもしろかった。こういう探索研究をやったらさぞかしワクワクするだろうな、という感想。専門研究者としての仕事というものと、注ぎ込むパワーには脱帽して納得する。松崎晋二は横山松三郎の弟子とされているが、もうひとつはっきりしていないらしい。晋二は、日本が最初に台湾出兵したときに、従軍写真師として参加。明治7年1974年のこと。政府に写真を納入した後、一般に売り出した。かなり高価であった。政府も明治天皇も写真を見た。そして、写真による報告書の威力に驚いた。当時の撮影は直前にガラス板に感光液を組み立て暗室の中で塗って、乾かないうちに撮影するというもの。感光液の薬品の調合が最初の仕事だ。写真術の体得には修行が必要だった。松崎の双眼暗箱での撮影はもっと後になる。その後、明治8年1975年、政府の小笠原調査行にも同行した。このときも政府に納入した後に販売許可を得て一般に販売した。双眼暗箱は持って行かなかったようだ。

しかしその後、松崎が写真販売所で、「双眼写」撮影して売りますという新聞宣伝のくだりで、著者の森田峰子は同じ写真を台紙に2枚貼り、、、、と書いた。なんじゃと、書くに事欠いて、なんたることを。まったくいただけない。正確を期すには視差とかグダグダと表現が難しく冗長になるってか。同じ写真と書かなければよいだけではないか。双眼写真を2枚貼りでも良いかな。

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2009年3月21日 (土)

先達の磯釣その6

戦後の磯釣りを集約して、磯釣り入門者を啓蒙した先達は何人もいらっしゃるが、著作に限ればこの人の右に出る人はいない。永田一脩さん。名前は、かずなが、と読む。わたくしには、ながたいっしゅうさんの方がすんなり。1903年生まれ、毎日新聞を1958年定年退職。日本磯釣連合が分裂する前まで全磯連相談役。名門の磯釣同和会の人でした。ここの通称は、いそどー、です。ウチの会と同じく、三宅島では今はなき阿古食堂が定宿でした。いそどーの方がいらっしゃった場合は、敬意を表し、三歩さがったものです。でも、ご本人はわたくしが入門したころには磯釣りはほとんどやっていなかったのじゃないかな。1988年に亡くなった。東京美術学校西洋画科を出た。今の東京芸大です。写真家でもありました。ライカⅢFとローライフレックスを使った。門外漢には分からないだろうが、これがまた、左様でございますか、それはまた、そうでしょう、そうでしょう。よろしゅうございますね、まったく、、、というような感激、共感なのである。ローライフレックスはなんとスタンダードで、テッサーの4.5という渋いところ。ライカはエルマーとズミクロン。キヤノンの広角。

今回は最初の本から3冊目くらいまでを紹介する。最初は1960年「山釣り 海釣り」(山と渓谷社・480円)写真は説明レベルではなく作品レベルでとても良い。磯釣り入門記という項に昭和24年、ご本人のはじめての石鯛釣の文章がある。1949年だ。興味深い内容。真鶴の釜ヶ淵。

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石鯛竿を曲げているのは長岡輝衛。石鯛釣りの理論家として有名。伊豆中木の白根で1955年5月。この写真も有名でよく知られているのではないだろうか。長岡氏の石鯛は1貫500匁。白根はたまに乗りますけど、磯はまったく変わっていない。Imgp5657_edited1

Imgp5655_edited1 この写真もいいですねえ。1956年。下田神子元島に渡る途中で後ろに見えるのは横根ですね。特徴がありひと目で分かります。この渡船と船頭が良い。わたくしでも入門時代はこれに近いものがありました。操船は梶から梶棒が伸びていて、船頭は足で梶を切った。バレーダンサーのように。なにをいっているのか分からないだろうな、きっと。

Imgp5658_edited2 寒鯛を持っているのは緒方昇氏。毎日グラフの編集長だった。1956年正月、伊豆大島の裏磯で炭焼き小屋を借りて釣行。2貫500匁。詩人でこの人の釣り本もよろしいものです。

漁村の風景。遊ぶ子供。1959年中木。この感じ。いい写真です。

1963年「入門 山釣り海釣り」という、文庫本。山渓文庫(230円)。前記の本の技術解説のつもりで書いたという。渡船風景では延べ竿を束ねているのが目だちます。この渡船は現在から見ると、いかにも危ない。これに近いのには乗ったことがありますが、これはちょっとね。昔の渡船は舳先に手すりがない船がたまにありました。

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Imgp5665_edited1 1964年「釣りの世界」(ひかりのくに昭和出版・400円)。エッセイあり、日記風あり、各論の序論といったのもあり、たいへんにおもしろい。この中に絵画史、写真史、写真術、登山、釣りといったものが好きで新聞社時代の家計は苦しかったとある。昭和34年ころ、新聞社の月給4万円。当時テレビディレクターは本給2万3千円、残業、休日出勤併せてやはり4万円という時代だったそうだ。石鯛釣り道具一式の概算は約2万円。スキーも同じくらいで他の娯楽道具より高いとはいえないとある。一回の出漁は、交通費千円。釣り宿700円、渡船500円、エサ1200円だそうだ。食事その他で5千円は持っていく必要がある。4万円の中堅サラリーマンで月5千円の小遣いは許される娯楽であろうと書いている。現在はだいたい8倍から10倍かな。新聞社、テレビ局だとすると月給はもっといくだろう。現在、神津か銭州の下田夜行日帰りで5万円持っていく必要があるのが現実だ。ゴルフより高いといわれる。

Imgp5667_edited1 この釣り宿の写真も有名。いそどーの磯師でしょう。

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2009年1月22日 (木)

携帯とデジカメが海水浴

12月初旬の潮風会の伊豆大島例会で携帯電話ソフトバンクX01HTとデジカメIXYデジタルL2に季節外れの海水浴をさせてしまった。竜王という磯。20分から30分周期で3発くらい頭上から大波の吹き上げたシャワーをかぶる程度であった。海面から4M以上ある釣り座。
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「IMG_2838.jpg」をダウンロード


うねりが這い上がって30cmくらいの厚さでザーっと磯を洗った。地磯の後方に置いた磯バックがコロコロと中身をはき出しながら回転した。ファスナーが半開き。そこの大きな窪地は一時水深30センチになった。オイオイオイとつぶやいたがどうにもならない。IC製品の行水はよろしくない。成仏なされました。風、波、うねり、ともに強いという状態だった。これに雨と低気温が加わったら、なんの運命でこんな地獄のような場所に存在しなくてはいけないのか、人生とは何か、人間の深層意識と行動との関係はいかなるシステム構造になっているのかと、哲学的思想に耽るところだろう。雨はなく晴れ。定石通り冬の大西と呼ばれる西風のはずが北東にかわった。読み違えで、西側の表磯がベッタリに変わった。南端の竜王は微妙な位置にある。でも、それほど寒くはなかった。
帰宅後、真水の中で強く振って潮抜き後、乾燥剤と一緒に密封し乾燥させたが携帯もデジカメも復活しなかった。水没させても海水でなければ復活事例は多いらしい。マニアックには無水アルコールに浸けて乾燥させるようだ。携帯もデジカメも世間にはかなりある事件ではないかなと思う。そうそう、釣果は35くらいの手頃なブダイ一匹だけ。干物に作ってとっくに食べてしまった。
で、12月初旬に発売直後のX05HTに機種交換。使っていたX01HTから約2年。画面がよくなっている。2年間の技術進歩。カメラは3.2MEGA。それほどでもないところもある。小さくなって薄くなった。スマートフォンとして過不足ないと思う。できれば、もう少し大画面にならないか。osはwinモバイルの5から6になった。WINパソコンとのactivesync連携は当然だが、macにもmissingsyncでつながる。2ギガのマイクロメモリーを入れた。ついでにブルーツースのイヤホンを新しくした。いままで使っていた普通のメガネのツルの補聴器型ではなく、折りたたみ型だから真っ直ぐにした状態ではスッキリしている。装着したときはなんでもないが、持ち運びの嵩高感がぜんぜん違う。写真のように専用ケースとイヤホンホルダーの親和性が良い。
デジカメは小さくて性能も良いので同じIXYのL2をネットオークションで入手した。新型は各社1000万画素になっているらしい。必要ない。この方面ではデジカメは撮ったまま使うな(岩波アクティブ新書)、とデジカメに1000万画素はいらない(講談社現代新書)、という2冊の新書本の題名通り。同じ著者で、たくきよしみつ、という人。どちらもなるほどなるほどと読んだ。おすすめできる。


「IMG_4009.jpg」をダウンロード

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2008年9月20日 (土)

お祭り20年その2

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「江戸の御輿」の本の中に「深川五十基」という一項があり、その写真があった。現在は四基増えて54基と聞いているが、その中で屋根が総彫りの御輿を探した。Img_2651 東陽5丁目、台輪2尺5寸。三好2丁目台輪2尺3寸。箱崎4丁目、台輪2尺5寸。新川2丁目、不明。清澄2丁目、台輪2尺3寸。豊Img_2654 Img_2655 洲、台輪2尺8寸。これは写真の写りが不鮮明で塗りの屋根かも。古石場2丁目、台輪1尺8寸。50基だからImg_2657 Img_2658 Img_2638 1割強が総彫り。江戸の御神輿の本場であるから、それぞれの町会は御御輿自慢が少ないないだろう。

ウチの御神輿は台輪たっぷり3尺。もしかしたら3尺3寸あるのかな。こんなことならメジャーで測るのだった。台輪に比較して、写真で分かるようにタッパがあり、ものの見事にスラリと立ち上がっている。見た目、スタイルが良いのだ。御神輿を見慣れている人なら分かる。御神輿の同好会にはたいへん人気がある。そういう人たちがたくさんいて、多くの同好会が来てくれるから、ウチの御神輿が上がるわけだ。そうでなければ、とてもとても。

Img_2621 Img_2618 分相応なのは中御輿かな。中御輿だけど、作りは同じで、立派だなと思っている。

とにかく、町御輿としては都内屈指といっても良いかな、、、と地元御神輿自慢になってしまうが仕方がない。宮御輿でウチのとほぼ同じ大きさでそっくりなのがあります。

で、土地の古老に話しを聞くと、昭和7年の浅子周慶だという人がいる。箱崎4丁目の総彫りが浅子周慶の昭和11年だそうだが。御神輿にそれほど入れ込んでいないので詳しくないが、それでも浅子周慶と後藤直光、宮本重義くらいの名前は常識として知っている。常識じゃないってですか。いや、これは基礎ですよ。別の話では、亡くなったお祖父さんが、町内の人と一緒に浅草に御神輿を買いにいったのよ、と近所のおばさん。これはうなずける。

Img_2617 なぜなら、ほぼ同じ作りの中御輿と子供御輿があるが、作人札に浅草聖天宮本重義とある。大御輿の作人札が見あたらないのでこんがらがっている。どこかにの裏に銘が墨で書かれていないかなと探したが見あたらない。そのつもりで何人かに聞けば判明するだろう。

Img_2620 中御輿は総彫りで、だいたい同じ作り。子供御輿は塗りではなく白木の屋根。

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2008年9月19日 (金)

お祭り20年その1

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Img_2640 地元の秋祭りが終わった。新宿下落合の氷川神社。わが地元の大御輿はいつみてもかっこいい。特徴のひとつである、屋根が総彫りの御神輿ってどのくらいあるのだろうか。気になる。尊敬するブログの「気になる下落合」(当リンクにある)ではないが、気になる下落合の御神輿だ。

Img_2660 手元に昭和56年発行の「江戸御輿」という本がなぜかある。本箱の奥から探し出した。著者は小沢宏之、発行は講談社。下町の撮影をライフワークとしている人だ。祭り情景と江戸御輿の主なものは撮影されている。宮御輿が多いが、町会御輿の写真もある。宮御輿は神社御輿、本社御輿とも呼ばれる。

Img_2659 この本の中に、神田の宮惣の五代目、村田圭一さんの「江戸御輿の歴史」という小文がある。

これによると、江戸時代から、いやそれ以前からも御輿は大神社の社領地の人足雇用者が白丁(はくちょう)姿でつとめた。つまり白装束。これが神社としての祭りの中心であった。ところが江戸の民衆の祭礼参加願望は強く、山車、曳き物、附祭(歌舞音曲等)にそのはけ口を見いだした。とある。これが町内氏子の参加型の祭りとなった。附祭(つけまつり)は、地走り、底抜け屋台、踊屋台、曲芸から曲馬までにエスカレート。幕府が禁止令を出したこともあった。つまりお祭りの余興だ。なるほど、そうか。しかし、地走りって何だ。どうも踊り歩きらしい。底抜け屋台は聞いたことがある。底がない箱の中に入って歩いて踊るのだろう。社領地のない神社では氏子の御輿担ぎ奉仕を懇請した事例があったが、御輿担ぎが庶民に開放されていたわけではなかった。とある。

山王、神田は天下祭りで幕府の庇護のもと、古今東西その比を見ない豪華絢爛なものであったという。王朝の都、京都のいろいろなお祭りと比べて、江戸幕府の膝元。だからやはり豪華さでは上をいったのであろう。いまひとつイメージがわかない。が、山車中心の祭りは日本各地に見られる。しかし、主役を御輿に明け渡したのは江戸、東京だけ。御輿は奈良時代から記録に残る。それは関西系の御輿に発展して現在に至る。江戸の初期、この関西系から変化したのが関東系と書かれている。関西形は室内における御高座が念頭にあり、関東形は台輪上を境内にみたてている。とある。ともあれ、江戸から東京になり、民衆参加型の山車から神社御輿ではない町御輿に移り変わっていく歴史だ。どうも明治中頃が大きな転換点のようだ。東京市中の電灯線や市電網充実、つまり電線が障害となり、山車は地方都市にかなり売られていったようだ。

Img_2642 大正2年内務省訓令、神社整備の指導要綱通達というのがあり、神社が切実に対処することになる。つまり神社御輿の整備をお上から公式に迫られた。平行して民衆参加型の山車は町御輿、町会御輿に変わっていった。町御輿では深川が先導して、山車に未練をもった山王、神田の氏子は立ち後れ、後塵を拝した。明治42年深川の御輿は大42台、小12台で繰り出した。とある。

以前も書いたが、なんといっても御輿は深川だろう。民衆参加型の町御輿の代表的存在でもある。神社御輿と町御輿は役割と経緯が異なる。つまり歴史が違う。それが同じようになってしまっているのが現状である。いわゆる神社御輿、宮御輿、本社御輿は大きな神社では人足が白丁姿でしずしずと担いだのが主流だろう。一方で宮御輿さえもない神社も少なくなかったようだ。町会が作った町御輿は町内の氏子が参加して、以前の山車に変わって年に一度のストレス発散の場となった。施政者は民が下手に暴発しないような安全弁を必ず作るのだ。祭りは安全弁のひとつとも考えられる。ともあれ山車は地方に存続して、東京は御輿に移り変わった。こんなところだろう。

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2008年5月 3日 (土)

ハッセル達人・ステレオ写真集・番外

最近のステレオ写真の世界をかいま見てのことですが。どうもステレオ写真の世界はデジタルカメラ2台方式になっているらしい。しかし、カラーポジステレオの段違いの見え味というか、切れ味を長年経験しているワタクシにとっては疑問が少なくない。ステレオ写真の見栄えの順番はカラーポジペア、紙焼きカラープリントペア、美術写真印刷の網線数の多い優れた印刷ペアもの、最後にパソコンディスプレイのデジタル写真のペアとなると思う。美術印刷レベルと最良のディスプレーは拮抗してきたかも知れない。同面積比較でどうなのかな。まだまだかも知れない。

ハッセルステレオ達人の前田さんは、写真集のあとがきにデジタルカメラ2台で撮影した画像をパソコンディスプレーで見るステレオ写真は縁がないだろうと書いている。よく理解できる。リアリスト判と35ミリフルサイズしかやっていないわけではなく、ワタクシも66のお手軽コースであるスプートニクもやっております。日本ステレオ写真の66ステレオビューアーが定番であります。

さらに、長年、レンズの味とか切れ味とか訳の分からない言葉を唱えて、カラーポジをカラーボックス上でああでもない、こうでもない、色再現のツヤとか剃刀の解像力なんぞとビューアーレンズで眺めてきた特殊な人たちの末端に加わっておりました。最後尾に近いのでたいしたものではありませんが、カラーポジ至上主義です。マクロスイターの比較研究なんぞといいだしたらすでに廃人ですが、古いレンズの色気や官能だとか、健康な人には理解不能な世界から見るとパソコンディスプレーで見る写真は少しも面白くない。

デジタル一眼の画素数の大きい最近の高級機は、交換式高級レンズの解像力も良いので、いくらでも大伸ばしに耐えるだろう。全紙でも全倍でもびくともしないかも知れない。また一方でコンパクトデジでも1000万画素を軽く超える時代。でも写真はレンズのウエイトが大きいから、こちらはレンズの性能次第。ハイスペックレンズを装着したデジタル一眼の2台方式でステレオ撮影したとしても、鑑賞はどうなるのだろうか。ここでひとつひとつ細かくは述べないが、ステレオファンであれば、平行法、交差法、裸眼立体視、ビューアー、透明ポジ、紙焼きプリントの差異を含めて、その原理と制約、利害得失は分かるはずですよね。よく分からない方には申し訳ないが解説は蛇足なので省略。

ところで近い将来、パソコンディスプレイの進化はあるだろうが、すでに飛躍的な余地は残されていないと考える。極端にいえば、ディスプレイー上の平行法立体視では限界が見えていると思う。以前にこのブログで言及した航空写真用実体鏡のレンズ性能の良いものがパソコンディスプレー用に改良されたらなんとかなるだろうが、こんなものが普及するとは思えない。25cm角ペアーまでいけるらしいが、ものものしくて使う気にもならないかも知れない。ただ見えるだけのレンズと収差のない高級レンズは別物なのだ。ディスプレー上でも大画面の交差法立体視ならば、より大きな画面で、20cm角から30cm角のペアの立体視は可能かも知れない。また、以前に言及したセオドールブラウン先生の片目に使う平行法スコープならば、15cm角から20cm角のペアくらいは可能だろうと考える。原理的にはブラウン先生の方式が交差法より優れているはずである。15cm角のパソコン画像というと同面積の紙焼きプリントの画像品質に及ばないが、将来は肉薄するかも知れない。でも結局はその程度だろう。ワタクシに言わせたら、やはり夢がない。夢ならば、飛躍してホログラムの進歩、実用化だろう。スターウォーズの、例の姫が出現するやつだ。あるいは、適当な枠の中に奥行き視差のある視覚が出現する装置。

振り返って、ハッセル達人の写真集の大伸ばしの片目の写真のグレード。これを交差法で見てみたい。

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2008年5月 2日 (金)

ハッセル達人・ステレオ写真集・その2

ハッセル達人の前田さんとの出逢いはこういうことがあった。十何年前かな二十年にはならないと思いますが、ウチの子どもが中学かそこいら。神宮花火大会に家族4人でいった。ワタクシはペンタックス2台をステレオバーに乗せて三脚を立てて座っていた。基線長は1mくらいです。隣に座っていらっしゃったのが、前田さんご夫妻であった。1946年生まれのワタクシより5歳上ですから熟年ご夫婦。こんな偶然があるもんですね。

大群衆の中でいくら石を投げても、ステレオ写真ファンには当たるものじゃない。そもそも、そんじょそこらには居ないのだ。それが、ハッセルステレオ達人の隣でツタナイながらステレオ撮影をしていた偶然。前田さんは純粋花火鑑賞で手ぶらでした。実はこれこれ、それはそれはナニナニとお話がはずんだ。え、中判でステレオ撮影していらっしゃるのですか、なんとまあ素晴らしい、恐れ入りましたでございます、というような話だったと思う。

で、NIFTYフォーラムのステレオ写真の愛好家数人と一緒に東急学芸大学にいらっしゃった前田さんのところにハッセルステレオ写真を見に行った。いや、最初は一人でいって、NIFTYにいろいろテンマツ報告を書いたのかな。当時はいわゆるアクティブメンバー代表の一人でしたから。ステレオビューアーを見た人は正に驚愕した。それ以来、兄事しているつもりだが、失礼して時間が流れていた。

実は、当ブログのどこかに書いているが、ワタクシの所属する磯釣クラブの潮風会の先輩がやはりハッセルステレオをやる。こんな人は普通はいないわけだから物凄い偶然である。世間は狭いというか広いというべきか。ワタクシよりたしか10歳以上は年上だが、この人はステレオベースに信念があって、ハッセル2台方式の弟としてマミヤ645、さらに末弟としてローライ2000という、35ミリのハッセル形式のカメラというフルラインナップ。もちろん普通のステレオカメラも使う。レンズのステレオベースが重要だというのだ。理論上は正しい。

その後、ワタクシの狭いところでハッセル達人を囲む会、並びにリアリスト判のステレオプロジェクターというミニオフ会をやったこともある。エピソードをひとつ。ハッセルステレオはビューアーを見ている時間が長いのだ。ひとつの作品を30秒も1分も見る。目が釘付けになる。目を離さず、ビューアーを離さない。時間が掛かる。素晴らしさに驚嘆して、隅々まで見て、さらにあきれながら熟視する。これはリアリスト判ビューアーとは違う。2倍3倍も違うのだ。もちろん撮影対象の素晴らしさ、そして優れた撮影技術も影響している。写真の作品としての質が高いのだが、ステレオ写真としてそれが増幅されている。同じ記述を赤瀬川源平のグループが見た時に、ほぼ同様に書いてあったのを読んだ。そうなのだから同じように書くしかない。ワタクシと一緒に見た人は、素晴らしい、ステレオ写真集にすべきだという人が少なくなかった。このレベルなら片目の写真集でも文句ないといったような記憶もある。

その後しばらくして、ステレオ写真集にする話を聞いた。サンプルも見せてもらった。しかし、これは当写真集のあとがきに書いているように事情があって頓挫した。そしてやっと実現したのがこのステレオ写真集である。

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2008年5月 1日 (木)

ハッセル達人・ステレオ写真集・その1

最近までの、入手できる日本のステレオ写真集ならば、たいていのものは見ているはずの小生が、確信を持って最高と評価できる。ステレオ写真ファンにはぜひこれを見てもらいたいと願う。「ステレオ写真作品集・立体無限」発行者・著者・前田慧(まえださとし)2008年4月21日発行。頒価1万円。

連絡先前田慧・maeda3d@mac.com

ハッセルステレオ達人の前田さんはよく存じ上げている。とても素晴らしい御仁。

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書店経由や出版取次ぎがどうなるのか、いまのところ分からない。月刊「写真工業」で紹介されるらしい。入手するには発行者にメール連絡かな。いわゆる自費出版ですけど、こういう出版物を流通に通す業者があるはずですが。

ステレオ撮影はハッセル2台方式。66のポジ原版のペアで、印刷実寸ペアはタテ73ミリ、ヨコ70ミリ。左右アキが2ミリ配置。裸眼立体視がギリギリ可能な最大の大きさで基線長72ミリとしている。これ以上の基線長配置だと、多分、裸眼立体視マタワリ(股割り)修行していない人だと無理だろうと思う。マタワリの周辺についてはこのブログのどこかに何回か書いているはず。そして各作品は左ページに297ミリ210ミリの片目の普通の写真を配置して、右ページにステレオペアと解説文という構成になっている。

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作品内容は高名なプロの山岳写真家、風景写真家とほとんど差のない、いわゆるハイアマチュアというレベルで文句なしに素晴らしい。撮影技術からいうと、こういうレベルの写真マニアの方たちは多くいらっしゃる。ちょっとした撮影ポイントにはこういうおじさんたちがたくさんいることはみなさんご存知の通り。ワタクシもリアリストの他に、重い三脚と数本の交換レンズを入れたカメラバックを肩にしておじさん達のはじっこで撮影していたこともある。といっても、所詮はお手軽コースであるから、もちろん、35ミリ一眼ではない中版カメラの御仁には敬意を払わざるを得なかった。67ペンタやマミヤ中判でもナニだが、ハッセルやローライとなるとなおさらである。ハッセルが2台並んでいたら普通の写真ファンの感覚では腰を抜かす。知識と素養のある人であると、ハハン、ステレオ写真だなと、もう一段階ほど尊敬するのが普通。レンズがプラナー標準2本ではなくディスタゴン2本と分かるとまた腰を抜かす。本体のお値段を知っているが、ディスタゴンの値段も知っているからだ。

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ワタクシの義弟は写真クラブに属して、よくあることだが、たまに、夜明け前から天気予報を気にしながら、風景写真のこれぞというポイントに待機するそうだ。深夜に車で数時間かけて行くことは珍しくない。もちろん国産中版カメラである。古くはブロニカからペンタだ。そしてギャラリーを借りて写真グループ展なぞをやっている。こういうレベルは特に珍しくない。

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しかしである。前田さんの撮影地の凄さには圧倒される。いったい何回海外撮影に行っているのであろうか。ツアーでロケハンに行って再度本番撮影旅行という場合もあると書かれている。何回も何回も腰が抜けますな、まったく。ロケハンって映画、写真で基本語であったが、馴染みのない言葉になってきた。ロケーションハンティング。こういうレベルは片目の普通の写真でもアマチュアではかなり少ないはずだ。

Imgp5151 Imgp5152 さらに、そして、なんと、ハッセル2台のステレオである。絶無に近いと断言できる。アメリカ、ヨーロッパにそれぞれ2人か3人くらいはこれに似たパターンのハッセルステレオ達人がいらっしゃるかも知れないが寡聞にして知らない。ともあれ、ヨーロッパアルプスの山岳写真はただ感嘆して見るしかない。ここで、言葉を悪くして、あえて言えば、この写真はだいたい絵葉書写真じゃないかというのは簡単である。技術のあるハイアマチュアなら言いそうである。片目の普通の写真ならば、そういう言い方は、もしかしたら通用するかも知れない。でもしかし、ハッセルのステレオ風景写真を見たことのない人は絵葉書写真が質的変化をしていることが、つまりまったく別物であることが、理解できないはずである。ハッセルのディスタゴンで撮影されたステレオ写真を見たことがない人は、簡単に何かを論評してはいけない。それも、できればポジ原版のカラースライドのステレオ写真を見てからの話だ。ポジ原版というものはもう一段違うものだ。経験のない人には理解できないだろう。そのくらい凄いのだ。あきらかに印刷や紙焼きとは数段違う。いかに美術写真印刷の技術が高度になったとしても、印刷ではポジステレオビューアーの切れ味を再現できないのは残念だが仕方がない。知識と経験のないステレオファンは、この印刷のステレオ写真でも驚くだろう。

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2008年4月30日 (水)

うつぼ喰い・その4

Img_2487 Img_2489 Img_2490 比較的最近の本。「外道楽・素晴らしきB級釣魚グルメの世界」。2004年10月海悠出版発行、主婦と生活社発売。1500円。まだ書店にあるかも。ご存知の「磯・投げ情報」という雑誌に連載されていたものをまとめた。雑誌はたまに立ち読みしていました。

あとがきに次の文がある。「食用にされない魚は、食べたことのない人の口を経ていつの間にかまずいという常識に変わってしまうようだ。極端な言い方をすれば、ただ単に(食べない)という存在が(食べる価値なし)・・・・(食べる価値がないほどまずい)・・・(まずい魚)と変わっていくようである。そして釣り物としても価値がない(外道)となる。つまり外道というのは釣り人側の一方的な位置づけで、多くは単なる偏見といえる。中略。外道の多くは食べたことのない釣り人の一方的な位置づけであることを知っておくこと。」

上記はごくまっとうな結論だが。まず知識のない釣り人が多くいて、知識があっても食べようとしない人がいる。チャレンジ精神がないのか、単に面倒くさいだけなのか。ワタクシがいいたいのは釣れたら食べてあげるという心。釣にはこの考えが必要だ。庶民の歴史的な食生活に思いを馳せるということも必要だろう。食の歴史というものにも思いを致す。日本の風土で先人はどういう食生活を継承してきたのかというテーマに繋がる。この方面では多種多様な書物、文献があふれている。いいかげんにいくつか読んでいる。入門、概説書として、樋口清之の、日本人の歴史シリーズ第2巻、「食物と日本人」(講談社)だけをあげておこう。現代は江戸時代ではなく明治大正の食生活からも隔絶している。とくに最近の食生活はそういったものから分断されていくこと甚だしい。今後はさらに進むだろう。憂いても仕方がないことであることを理解した上で、出来る範囲のことをオモシロガリながらやっていく姿勢。あ、なにがなんでも自然食というまで過激ではない。それでも、ウチは食の安全、おいしい食材という考えから、一番まともであると思われる生活クラブ生協の食材のお世話になっている。値段は割高だがたしかにおいしい。生活クラブ生協の地域末端集配所として冷凍庫を置いている。でも、ジャンクフードを、分かった上で食べている。ジャンクフードを食べないという立派な人もいるかも知れない。少し前だが、スローフードという言葉が出現した。何冊か読んで共感した。イタリアのバールにもいってみたいと思った。以前よりもエスプレッソを飲むようになった。え、単なるミーハーかも知れない。

Img_2488 うつぼに戻すと。外道楽には写真のようにウツボの骨格とおろし方の図解がある。背骨に骨が出ていて普通にはおろせないのだ。さく取りはたしかに難しい。うつぼ汁のところでコラーゲンが記述されている。肛門から下の尾は小骨が多く、骨切りが必至だが、素人は難しい。テレビでハモの骨切りを何回も見ているが、とてもできない。日本料理板前修業編というところだろう。

Img_2491 ついでに、「海の味」(異色の食習慣探訪)山下欣二著・八坂書房・1998年発行・1900円。を紹介しておこう。注目すべきは、古文献には食用とする記述は少ないという部分。「包厨備用倭名本草」「水族志」「本草綱目啓蒙」をあげている。「本草綱目啓蒙」には「賎民捕り食う」の記述があるという。しかし、地方によって、魚に出て燻製や干物を県外に出荷しているところもある。高知や和歌山だろう。高知でタタキ、から揚げ、煮こごりを注文して食べた記述がある。タタキは皮付きを強火でかるくあぶり、にんにくとポン酢で食べる。うまそうですね。この本は文献と参考図書の一覧が詳しいのが特色。

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2008年4月24日 (木)

うつぼ喰い・その3

今はなき、釣りサンデー社。関東の釣師には、もうひとつ馴染みがなかったが、滅びてしまったのが惜しまれる。本当に残念だ。釣りジャーナリズムの中で他とは違った理念があった。とワタクシは思っている。

とくに、ブラックバスに肩入れした釣り人社はよろしくない。けしからん。この方面になると、ネタはエンドレスになり膨大になる。ハードデスクの中にブラックバスからみで書いた文章が大量に残っている。ハンパな分量ではない。それこそ、かなり精力を使って、いろいろ詳細に調べて書いたし、論戦にもよく参加したものだ。

あ、横道に入ってしまった。釣りサンデー社の本の中で、「さかな大図鑑」

http://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2007/07/post_70ff.html

とならんで、スゴイ、たいしたものだと感嘆したのが、この「雑魚を食う」だ。(1995年12月、著者今井浩次、週刊釣りサンデー社)今井浩次という人は直接は存じ上げないが、なかなかだなとひそかに尊敬している。発行人の小西英人さんは存じ上げており、尊敬しているのは何回か書いた通り。その後いろいろあったらしいが、よく分からない。

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「雑魚を食う」はその筋の釣師にとって、バイブルのようなものではないかと思う。賛同して、共鳴する方が多いとは思われないのが悲しいところだ。マイナーで知られていないこともあるだろう。

腰巻には、(愉快・痛快・食のエッセイ。こよなく雑魚を愛し続ける食いしん坊釣師の味の冒険。食った!73種の珍魚・奇魚)とある。森田さんというプロの料理人とコンビで探索する。読んでおもしろい。

ウツボは薄つくりにしてフグだといって出して、浩次がうまいと食べた。もうひとつ、ウツボの皮とキュウリを使った酢の物が出ている。これが旨そう。身を薄く残して皮を引く。一夜干しして、味醂と醤油を同割りにして砂糖をかましたタレで付け焼きにする。三杯酢に2、3時間漬け込んで完成。泉のごとく旨さがしみだしてくる、とある。まだやったことがない。皮はから揚げにしても旨いだろうとある。ウツボの皮というと経験では面倒といえば面倒ですが。ウツボの皮のゼラチンの旨さの記述がどこにもないのが不満である。

この本の73種というのが凄い。いくつかは食べているが、とてもとても、制覇できそうにない。磯や浜で釣れる魚は可能性があるわけで、目標としている。マイナーな雑魚がほとんど尽くされているのじゃないかと思う。煮物、焼物、揚げ物、蒸し物、造り、鍋物、アラカルト、と多種多様である。

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うつぼ喰い・その2

漁村の民衆、山村の民衆が昔からおいしく食べていた食材と料理方法。底辺の庶民の伝統食。この分野では白土三平のフィールドノート2冊と続編である「カムイの食卓」、「三平の食堂」の4冊の右に出るものはないだろう。

フィールドノートの記事。

http://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2007/07/post_2d3a.html

うつぼに関しては、ナマダの茶漬け、寒ナマダの干物の2編がある。

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茶漬けは、骨きりして白焼きしてタレをつけて蒲焼にする。タレは頭と肝、骨を出汁にして酒、味醂、醤油で味付けする。この蒲焼を5ミリの厚さにきざむ。あとは、梅干、ノリ、季節の香りのする青いもの。

白土三平はウツボをこのように書いている。昔に読んだとき、印象に残った。「釣り上げたウツボを潮たまりに放り込んでおくと、鎌首を持ち上げて釣師の足元を狙って飛び掛ってくる。石でなぐりつけると、傷ついた我が身に噛み付く姿はとても魚とは思えない。100キロ以上の巨体を持ちながら、何の抵抗もせずに殺されていく豚に比較して、この魚の持つ闘魂と気概は野生のもつ魅力を我々に示してくれる。こんな磯の侍たちを無造作に殺し、捨て去ることは人間の都合主義と不遜さを見る思いである。」

んー、豚を少し擁護すると、家畜化したものであること、肉食の闘争本能丸出しの動物と、そうでない動物がいるわけで一概に評価するべきものではないと思うが、、、。

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寒ナマダの干物は、処理の仕方から非常に詳しく述べられている。上級編である。普通に干しあがってから薄つくりの藁むしろか紙に包んで冷暗所に寝かせる。つまり干し戻しである。醸成させ少し柔らかくさせ、風通しのよいところで陰干し。干し柿のようなうっすらとした白カビが浮かんできたら大成功。これは天候加減が大きく作用して難しいとか。失敗すると悪い餅カビのような緑か桃色が発生する。ふきとってアルコール消毒すればよいそうだ。ワタクシはもちろん、ここまでやったことはない。

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そうなのかという記述もある。死にまねをするから気をつける。容器に入れて塩をふりかけるとコテンといってしまうので、目打ちや釘で頭を固定Imgp5059 して背開きにする。

白土によれば、房洲ではナマダと呼ぶが、神奈川ではキダコ、山口ではナギッチョだそうだ。地方名を調べるともっとあると思うが、省略。そういえば、伊豆大島で腰の曲がったおばあちゃんが、釣師の捨てたナマダを拾って歩いていたのを見たことがある。こんなにおいしいものをもったいないと拾ったのだろう。

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2008年4月22日 (火)

うつぼ喰い


うつぼの旨さ。知る人は知る。常識ですよね。まさか磯釣りをやる人で知らない人はいないと思う。ん、メジナしかやらない磯釣師もいるからなあ。あ、その場合は磯釣師とは言わないかな。で、(かんむりベラとフッコの干物)の志賀さんのコメントに登場する、野村祐三の「豪快にっぽん漁師料理」(集英社新書2005年4月発行)に書かれている「うつぼ」のくだりはとても詳しい。この本は全体が素晴らしい。魚喰いの釣り師には必読の書。この本を読んで、やってみたいものはたくさんある。とくに焼き切りとか(メジナとイシダイは経験)、タカッパの丸焼きとか。取材によると、ウツボを食用とする浜は、甑島、薩摩、鶴見半島、高知南部、紀伊半島、志摩半島、伊豆半島南部、千倉。そして薩摩を発祥とするとある。ここは生のウツボを料理するからである。生のウツボの味噌炊き。天草では三枚に下ろして皮付きのまま熱湯をかけ、湯引きにしてから「ぬた」にする。そして高知西南では生の唐揚げ、高知市ではひと干ししてから唐揚げ。紀伊南端の古座では一週間天日干しを木つちでよくたたいてから短冊に切って油で揚げ、さらに醤油、みりん、酒、砂糖で煮る。揚げ煮である。伊豆の下田ではウツボをウナギといって、川ウナギとは呼び分けるそうだが、かちんかちんに干し、金づちでたたいて食べやすい大きさに割って焼いて食べる。伝播されるたびに少し変化している。

写真は以前に食べたウツボの写真。写真を撮らないで食べるのが普通。最近だね、ブログ用に撮影するようになっている。
トラウツボといって赤くてどう猛な顔のやつは、かちんかちんの干物にしたもの。丸干しにして、ぶつ切りにして焼いて食べた。なかなかいけたよ。ウツボの薄作りで刺身でも食ったことがある。これはまた別の本の紹介の時に。ウツボからみでは、白土三平のフィールドノートと、「外道楽」素晴らしきB級釣魚グルメの世界(主婦と生活社)と、コージ雑魚を食う(釣りサンデー社)にある。

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2008年3月 2日 (日)

天上の花

朔太郎の娘で、萩原朔美の母である萩原葉子の小説。当時芥川賞候補になった。調べると選考委員の選評があった。

http://uraaozora.jpn.org/akuta55.html

詩人の三好達治と、左藤惣之助と死別した朔太郎の妹愛子との悲劇が書かれている。愛子は父の妹だから悲運の叔母、悲劇を生きた叔母ということになる。

いずれにしても詩人として生きるということは、常人にはない研ぎ澄まされた切れ味がなければならず、触れば血が噴出すものでなければならない。三好達治も激しい。

しかし、グーグル検索というものはすごい。ワタクシがつたない知識、筆力でダラダラ書くよりも、これだ、というものがすでにあった。だいたい余すところが無いと思う。

http://napotaro.at.webry.info/200703/article_2.html

萩原愛子のその後というものが知りたくなった。で、もうひとつ、三好達治のその当時の45歳という年齢からして徴兵は免除されたのだろうが、戦地で無数の兵隊が斃れていた時代。三好達治は想い続けた愛子と一緒になるために妻子を捨てた。捨てられた妻子である佐藤春夫の姪のその後も気になる。

兄朔太郎が撮影したあのステレオ写真の愛子には魅力がある。左藤惣之助と結婚する前であろう。三好達治が恋焦がれていたのが分かるような気がする。でも反対されて許されなかった。左藤惣之助と結婚してしまった。達治からすれば取られてしまった。

このステレオ写真は、朔太郎が離婚して子どもを連れて実家の前橋に移った時代なのだ。シャッターを切るときには鬱屈した気持ちがないはずがない。葉子は写っていない。妻は浮気して子どもを捨て出奔したとされている。でも、しかしながら、あのステレオ写真の雰囲気は良い。良いステレオ写真だが、これだけの背景がある。

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2008年2月25日 (月)

萩原朔太郎と佐藤惣之助

当ブログにおいて、磯釣の先達に登場した佐藤惣之助と、日本のステレオ写真の初期愛好家として触れないわけには行かない萩原朔太郎には深い接点がある。二人の詩人の最後は、相次いであっけなくこの世を去ったのだ。朔太郎は昭和17年5月11日肺炎で死去。57歳。13日に自宅で告別式。佐藤惣之助が葬儀委員長であった。その4日後、惣之助は過労から脳出血で死去。52歳。なんということだと思う。実は佐藤惣之助は昭和8年、萩原朔太郎の妹周子、本名愛子と結婚している。先妻とは死別して再婚であった。朔太郎は惣之助の義兄なのだ。日本の詩の巨人であった朔太郎に対して、作詞家としては知られている惣之助にも生涯に22冊の詩集がある。惣之助には、<<私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った>>という文章がある。そして釣詩一如が惣之助が目指す境地であったのかも知れないと金森直治が復刻版の「釣心魚心」の解説で書いている。なるほど。作詩と釣り。惣之助は釣本では6冊残している。

Img_2284_2 「釣心魚心」は釣の随筆としては日本の釣書の中では屈指の本とされる。たいへん洒落た装丁の本である。

金森直治は名古屋の石鯛釣りの大先輩だが、釣本の研究家というか、釣のエッセイで知られる。知る人は知ってますよね、あなたも知っているでしょ。正統的釣師を目指すなら、必読の一人。下手な釣りライターなんて読んでいたらダメ。何回も書いているけど、とくに釣業界に擦り寄っているヤツはダメ。永田一脩の後、まともな書き手としてこの人の右に出る人はいないだろう。

Img_2283_2 話が横道に入ったが、朔太郎の妹の愛子の写真が朔太郎写真集にあるので紹介。昭和3年ころステレオカメラで朔太郎が撮影した家族の写真。後列右端が萩原愛子。おお、この人が萩原愛子なのかと。おとうさんも妹も甥っ子もいい雰囲気だったね。

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2008年2月22日 (金)

セオドールブラウンの面白さ

以前に紹介したこの大先生の御本には、かなりのステレオファンでも見たことも聞いたこともないがいろいろ出てくる。すでに知っている人がいたら、偉い。ワタクシがいうのだから間違いない。この大先生は文字通りステレオ写真の歴史から埋もれて消えたが、いい先生だねえ。ワタクシは好きだ。

恐れ入りましたというのもを2つほど。チープというかエクスペンシブでないということをかなり強調しているのがブラウンの特徴である。自分でステレオパーツの事業をしていたことが影響している。

Img_2280 Img_2282 ひとつは、トランスミッター。今はビームスプリッターというのが普通。簡単なものはフィルターのように装着する単一プリズムとペンタックスステレオアダプターのようにミラーまたはプリズムで2回反射させるもの。単一プリズムは屈折させるだけで反射はない。この方式も4個のプリズム、4枚のミラーから2枚のミラーと2個のプリズムなど、細部のバリエーションがある。

Img_2281 Img_2279 ところが、レンズの前に装着するミラー2枚のスプリッターを考案し実現していたのだ。商品化した。図を見たら、なるほど、こういうのもアリだなと納得する。もちろん驚く。現代の一眼レフ用を、レンズフードを利用して表面鏡2枚で作れないことはない。しかしねえ。よほどハイテンションでないと。どういうことになるのかな、反射一回だから、、、と、2回反射は元に戻るのだから、、、、、と、何をいっているのか分かるステレオマニアの方は、お考えください。チープではある。

Img_2277 もうひとつはビューアー。こちらも驚き度は高い。こんなの考えたのかって尊敬する。リフレクトスコープという。図を見だだけでは分からない。多少の工夫がある。ステレオマニアの方、お考えください。説明を読んでなるほどと思った。実はこのミラーはturned slightly away from each otherなのだ。中央が少し出ている。つまり、右目像に左目像が入らないようにしているのだ。で、簡単に裸眼立体視できるはずである。大きなものでも小さなものでも、ミラーの距離可変で可能だろう。現物がないでのそれ以上はいえない。でも、反射像を立体視することになる。裏焼きでいいのかな。マニアの方、お考えください。面倒だから考えない。これも作って作れないことはない。むしろ簡単だ。

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萩原朔太郎のステレオ写真その2

今回もいままでに増してマニア度が高いので申し訳ない。その1から続く。

45x107乾板は密着焼きでもよいが、ポジ鑑賞が主体らしい。60x130以上が印画ステレオカードに良いと書かれている。しかし原寸印刷はなく、どれも拡大印刷されている。サンエス堂の台紙を53x127に拡大印刷したものは基線長が70ちょっとなのでワレワレは軽く平行法裸眼立体視できる。それより大きなものはビューアー必須である。ところで、密着印画のステレオカードはトキオスコーImg_2269 Img_2270 プをビューアーとして使うことでは見ることができない。印画用のステレオカードを見る別のビューアーを使ったはずである。トキオスコープのビューアー使用では明り取り用の窓がないから真っ暗で見えないはず。

次はネット上のトキオスコープの詳細な資料。これはすごい。

http://www.camerapedia.org/wiki/Tokioscope

ここには、ビューアーの宣伝が出ている。Solidoscope(ソリドスコープ)1円80銭とAdjuscope(アジャスコープ)3円50銭。こういうものがあったはずだと思っていたが、ワタクシも初めて見た。

Img_2264 Img_2265 Img_2266 ウチにはリシャールの折畳み実体鏡がある。レバーによるピント調節の具合もよく出来ていて優れものである。昔、萌えていた当時にクラカメ店で見つけた。実寸で45x105サイズがちょうど入る。補助ツールを作ればリアリスト判でも使用できる。

Img_2267 Img_2268 当時のリーディングカンパニーといってもよいパリのリシャール社は、大型から小型までビューアーは多い。秋山の本では、45x107用と思われるものは明かり取りが開いたビューアーと折畳みが2種類出ている。同じものである。

Img_2272 Img_2271 当時のステレオ乾板は45x107と60x130がほとんど。Img_2274 大型乾板のステレオカメラはすたれてきている。60x130乾板は日本では使用する人が少ないと秋山轍輔が以前に紹介した本で書いている。この本は昭和11年であるが、すでにトキオスコープは残念ながら市場から消えているとある。そうだったのか。国産のステレオカメラである曽根春翠堂のトキオスコープは1921年(大正10年)発売で、フランスのリシャール社のグリフォスコープのデッドコピーといってもよい。トキオスコープは80x105の国産手札乾板を半分にカット加工した40x105乾板を使えるようにされており、曽根春翠堂はその国産カットステレオ乾板を供給した。しかし、45x107も両用で使えたらしい。正規国際規格の輸入品は高価だったからである。ステレオ乾板の国産品がなかったのであろう。

ついでにリシャールの密着用のステレオ焼き枠が出ていた。左右入れ替え用である。Img_2273

輸入のステレオ乾板はアグファやルミエールなど数種類。昭和11年にはオートクロームの天然色乾板もあった。また、高級機ではチェンジングボックスやロールフィルムバックやカットフィルムも出てきていたはず。マニアでないと分からない方が多いでしょうが、説明省略。日本の需要と供給の関係。

ところで、朔太郎が使っていたステレオカメラははっきり分かっていないようだ。40x106のポジが遺されているということは国産のトキオスコープも使っていたことは間違いないだろう。また、フランス製ステレオカメラを使っていたことは本人や周辺の人の複数の証言がある。その当時、多分最もポピュラーであったのは1905年(明治38年)発売のグリフォスコープであろう。他のカメラと比較して、その仕様から低価格、かつ実用的だったであろうと想像できる。秋山の本の当時では40円から50円で入門用とある。昭和11年の最新鋭高級機はフォクトレンデルのステレフレクトスコープで小西六本店定価表で630円から670円。ライカといい勝負じゃないかな。これはフォクトレンデルファンなら誰でも知っている有名なカメラだが、現在こんなのを持っている人は手遅れの廃人しかいない。ローライドスコープのオーナーは如何。トキオスコープ以前の時代にポピュラーでない高価なステレオカメラが日本に輸入されたとは考えにくい。あ、そうか徳川慶喜がいたか。グリフォスコープとトキオスコープはシャッター部分を外すとレンズだけが残り、ビューアーとして使えるのが特徴だが、その場合は構造上ポジしか使えない。つまり印画のステレオカードは見ることができない。ウチにあるようなスタイルの単独ビューアーで朔太郎は印画ステレオカードを見たのだ。

そしてもうひとつ、現存する最古のステレオプリントは明治36年5月撮影とある。朔太郎18歳で1903年。そうすると1903年のベラスコープは、当時のレア商品の輸入環境では無理がある。1894年の初代ベラスコープはたしか60x130じゃなかったかな。60x130の乾板は一つも残っていないので朔太郎は使っていないことはほぼ確実。となると、グリフォスコープではないフランス製のステレオカメラを使っていたのか。面倒だからもう探索はやめた。

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2008年2月21日 (木)

萩原朔太郎のステレオ写真その1

萩原朔太郎は高村光太郎と並ぶ。日本の詩人の二大巨人といっても良いだろう。詩集「月に吠える」は中学の国語の教科書で目にしたのが最初だが、深く印象に残り、心に刻まれた。中学生であり、凡庸な少年の心の中である。優れた詩だと思った。月に吠えるという詩集のネーミングも響いた。なるほど、優れた詩人というものはかっこ良いものだなと思った。高校ではランボーや日本の現代詩などを知った。当時の普通の青少年たちのありきたりのパターンであった。

Img_2257 そのずっと後になって、朔太郎はステレオ写真の愛好家であったことを知った。いつだったか、NIFTYのフォトフォーラムのステレオ写真会議室で、あ、ニフティーでは会議室という掲示板ですが、朔太郎の写真集が生地である群馬県前橋の上毛新聞社から昭和56年に発行されていること。そして、その写真集の在庫が新聞社にまだある。という情報がアップされた。常連メンバーのステレオファンに驚きの波紋が広がった。上毛新聞社に電話で注文して入手したのがこの写真集。かなり多くの人が注文したようで、新聞社が不思議に思ったそうだが、まもなく在庫がなくなったと聞いた。

巻末の、「僕の写真機」「自分の映像を見て」などのエッセイも読んだ。萩原葉子の、「父の枕元」や解説の「萩原朔太郎と写真」を興味深く読んだ。

次の一節は良く理解できた。<<僕はその器械の光学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されている、自分の心の郷愁が写したいのだ。僕の心の中には、昔から一種の郷愁が巣を食っている>>、また、

<<僕の心のノスタルジアは、第三次元の空間からのみ、幻想的に構成されるからである。>>

なるほど、ワタクシもステレオ写真には、たしかに不思議な現実感を感じる。疑似現実感。もちろん二次元の平面写真ではまったく得られない感覚であり、魅力である。朔太郎はこれを不思議に幻想的であると書いている。我々ステレオ写真ファンにとって、ステレオ写真の立体視は日常行動である。写真には片目単眼の写真と両目双眼の写真がある。普通の写真は片目単眼写真として峻別している。

Img_2258 その後、1994年に新潮社から、萩原朔太郎写真作品「のすたるじあ」が発行された。定価1600円。実現した新潮社は立派。こちらはステレオファンなら誰でも知っているだろう。

どちらの本も立体視するには非常にややこしいことになっている。遺されているステレオガラス乾板から印画プリントしたものは左右を入れ替えないで、そのまま状態を編集原稿としたため、交差法の配置となっている。編集者の知識不足からだろう。いや、立体視を試みなかった、あるいは立体視が日常行動となっていないからであろう。しかし、そのように理解した上で読者である我々は交差法裸眼立体視することができる。そうなのだ、交差法配置では裸眼立体視しかできない。交差法配置では普通のビューアーでは立体視は不可能。見分け方はペア中央が真っ黒のものだ。撮影ステレオ乾板そのままの姿である。

Img_2259

Img_2260 Img_2261 一方、最初から印画紙に焼き付けてステレオカード状態のものを複写原稿としたものはすでに平行法配置であるから、小さいものは平行法裸眼立体視、大きいものはビューアーで普通に立体視できる。見分け方はペア中央にサンエス堂、あるいはトキオスコープ、あるいは丸ビル浅沼製と入っているもので三種類遺されている。

Img_2263 Img_2262 ややこしいのは40x106のガラスポジ乾板が遺されていること。ペアの間の中央が白く抜けているものとトキオスコープと入っているものが平行法配置でポジ乾板だろうと思われる。観賞用ガラス陽画。一見して撮影ネガよりも中央がかなり広く開いている。この40ミリサイズはトキオスコープで撮影してトキオスコープをビューアーとして使用して観賞用ポジを見たことを示している。ポジ乾板はステレオ写真業者が処理したものは中央に社名が入っていただろうと想像する。面倒だが、自分で現像してさらに左右入れ替えてネガポジ反転、その乳剤面に保護用ニスを塗って作ることはできる。これをトキオスコープの場合は密着露光の際に中央社名入りとした。と想像される。コダックのマウントサービスの台紙ロゴようなものだろう。サンエス堂のものは台紙だけ利用して印画紙を貼っているのだろう。貼りが粗雑である。

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2008年2月 4日 (月)

先達の磯釣その5

釣り人、釣師の遊漁としての磯釣だけに限定すると、一般的には戦前のそれほど古い時代には遡らない。まず、昭和初頭あたりではないかと思われる。クロダイ、カイズ、あるいはスズキ、セイゴの内湾、堤防などの遊漁は明治、大正にはすでに盛んであり、明治の幸田露伴を見るまでもなく、その前の江戸時代の「何羨録」、「漁人道しるべ」、「釣客伝」、「魚猟手引き種」に散見される。

Img_2214Img_2220  これらの書は「江戸釣術秘伝」、小田淳現代語訳、叢文社、平成13年発行、定価2600円に収められている。また、何羨録だけなら、「何羨録を読む」副題が日本最古の釣り専門書、小田淳著、釣り人社、1999年発行、定価950円があるが、半分以上が解説ページである。

カイズ、クロダイ釣りではなく、ブダイ釣、メジナ釣ならば磯でしか釣れないから、どこかに出ていないかなと、斜め読みでザット見直したが、どうもないようだ。津軽采女正の「何羨録」は享保8年、1722年とか。采女正の最も中心的な釣は江戸前のシロギスであったようだ。まれに1尺2寸のキスと、書いてあり、漁師は海キスのことをシロギスといい、川ギスのことを青ギスというとある。漁師はシロギスとアオギスの違いを判別していたと思われる。青ギスは非常に浅いところで釣ったそうだから、川ギスと呼んだのもうなずける。9寸以上のキスが鼻曲がりとある。シャケの鼻曲がりは有名だけどキスでもなのか。江戸前の釣り場はとても詳しく書かれている。

「釣客伝」は黒田五柳著で文政年間、1818年から1830年だそうだが、銚子のスズキ釣、小田原のカツオ釣からシイラまでの記述がある。漁師の釣りの伝聞のようだ。しかし、箱根湯本塔ノ沢の川釣は遊漁の案内と思われる。裕福な町人の旦那衆は温泉がてらにこのあたり釣ったのかも知れない。江戸末期だけどすごいね。Img_2217 それから江ノ島のアジ、サバの乗り合い船釣というのがある。遊漁で、三人か四人。これもすごい。さらに大磯のワカナゴ(ブリの当歳で、今はワカシというのかな)とクロダイの釣は永田一脩の書いているオオナワの源流そのものであるが、セミプロまたはプロの釣のようだ。オオナワの略図がある。四間の竿(7.3m)でImg_2216 長いバカ(全長24m)を出すのが特徴で、永田の本では詳しく書かれていて、ループを出してフライのように打ち込むことが分かる。この図では分からない。仕掛けは羽根を出した牛の角とあり図があImg_2215 る。この針は角と呼ばれるルアーである。釣客伝では14人から20人が立ち並ぶと書かれている。ナブラを釣る釣りであるから、繰り返す多数の打ち込みが効果あるのかも知れない。

磯釣では江ノ島岩屋前の釣りとあるが、多分磯釣だろう。9尺の竿、いそめ餌、ウミタナゴ、ショウサイフグ、アイナメ。なんとウミタナゴが出ている。ウミタナゴ、いいね、すばらしいね。ワタクシも竹の継ぎ竿でやるこの釣りは大好きだ。さらに、さらに、同場所のタイ釣り。暮れ方より夜の10時ころまで、行灯を持って岩の先端に出て、三間から四間の竿、針元の鉛5匁から6匁、餌はコシイワシ、クルマエビ、魚の腸、魚の大小は1尺5、6寸まで(45cmから48cm)。明け方の時刻はとくに良い。大波が打ち上げる場所で、不慣れの人は無用である。とある。おお、すばらしい。こんな釣りがあったのだ、感動モノだ。もしかしたら、素人ではないかも知れないが、これが記録に残る磯釣の源流ではないだろうか。

神奈川の根釣は遊漁の船釣の王と書かれ、本牧沖などで、沖釣り場まで3里から4里(12から16キロ)二人船頭で船賃は一分金とある。江戸から神奈川というと前夜一泊だろう。近場の江戸前の釣宿の船ならかなりあったようだ。

Img_2218 Img_2219 すでにキスの脚立釣や釣下駄の釣も盛んだった。五柳はどうもスズキセイゴの釣にもっとも意を注いだように感じられる。

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2008年1月27日 (日)

先達の磯釣その4

Img_2150 戦前の松崎明治の復刻版ならウチに二冊ある。ひとつは昭和17年10月朝日新聞発行の、釣技百科。定価は4円80銭。950ページ余の大著である。昭和54年、アテネ書房による復刻版となって再び現われたのだ。辞典のように数回引いたことがあるが、通して読むようなものではない。なんと、この本もオリジナルは戦時下の発行であったことになる。はしがきに明治は全国各地の釣技の踏査を年来の宿題としてきたと書いている。昭和17年7月20日、海の記念日、著者識す。とある。

Img_2152 Img_2153 この本は昭和13年の同じ松崎明治による釣百科を底本としていると見られている。ややこしいが、昭和13年の釣百科の方は戦前に12版重版された。戦後も佐藤垢石の補による増補版が発行されメートル法に直した新釣百科が昭和36年再増補改訂版であり、これがウチにある。名前が似ているが、昭和13年が釣百科で、昭和17年は釣技百科であるのでお間違いのないよう。

昭和17年の釣技百科と戦後の昭和36年の新釣百科を読み比べると、図版と文章はそのままというところが多い。しかし、イシダイは半分以上書き直している。ブダイは8割りくらい同じかな。昭和36年と平成の現代との差異の方が大きいかも知れない。ということは13年、17年、36年と大部分は同じ図版、文章が流れているといってもよい。

新釣百科は非常に細かい文字でなにからなにまで書かれて、つめこまれている。その当時、長い間、釣本の決定版とされていたのがよく分かる。魚拓から、餌の研究から釣り人料理から気象信号まで。

Img_2144 もう一冊の復刻版は、写真解説日本の釣。松崎明治著、昭和14年5月三省堂発行。定価3円50銭。釣の写真は永田一脩や高崎武雄の撮影したものが本になって見ることができる。どちらも写真家だからまことに素晴らしい写真だ。しかし、ほとんど戦後の写真だろうと思われる。戦前の釣の写真でまとまっているのは、松崎明治が撮影し、書いたこの本しかないと思う。

Img_2155 それで、この本の中に南伊豆石廊岬の磯釣という写真があった。これがなんと延べ竿のブダイ釣りの写真。この人はなんと普通のオーバーコートを着て釣りしている。人相風体が、どうも、レレレレとしか思えない。どこかの会社にいくらでもいるような人だ。この人はそのまま現代に来ても通用する。

Img_2156 また、東海道の車竿という写真があった。沼津千本松原の餌屋の店頭だそうだ。いろいろなリールがある。両軸のダイレクトリールのようなものが2台ある。一番右と3台目である。後はタイコリールのようだが、フライリールのようなものもある。次のように書かれている。

リール竿は輸入された釣りの形式であるが、道糸を巻くに車を使うことは北海道と台湾にある。日本本土の両端に車竿があって(台湾は日本本土であったのだ)内地には古来リール式のいわゆる車竿のなかったことは面白い現象だ。ところが、近年東海道一帯の沿岸に車竿が流行し始め、お手の物の箱根細工で精巧な車ができ、最近では東海道一帯が車竿の発祥地のように考えている人さえあるくらいだ。台湾の車竿はシナから渡来したとか言われているが、沼津の車竿はあまり古くないころ北海道の釣り人が伝えたということだ。最近では北海道製や内地の製品ばかりではなく、いろいろの経路を経て素晴らしい高価な舶来リールまで現われ、毎日2、300人の車竿利用者が腕前よりもリールの自慢をしているような有様である。

うーむ。この写真はすべてクロダイ用と思われるが、タイコの横転リールで投げ込み釣りもかなり普及していたようだ。オリンピックのリールは大小8種類が生産されていたと釣技百科にある。また、日本製木製リールも普及していたようだ。

Img_2159 釣技百科の口絵には沼津防波堤の黒鯛釣という写真がある。右の人はタイコリールで左の人はダイレクトリールのようだ。右の人の竿のガイドが見えない。もしかしたら中通しかも知れない。以前記事にした例の竿の走りかも知れない。

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2008年1月26日 (土)

先達の磯釣その3

Img_2143

Img_2140 Img_2139 磯釣大物釣(附・釣場案内)

現代日本の釣叢書。出版は水産社。著者はというと、辻本浩太郎、小林忠雄、船橋貞雄、益田甫と4名の共著。聞いたことがねえなあ、どんなんだい。というのが普通だろう。磯釣に関しては古今東西、たいていのものは目を通している。といってもそれほど入れ込んでいるわけではないが、なんとなく程度でも長期にわたっているので、まあ一日の長ありかなと自負する小生であっても、船橋貞雄はおおよそ知っている程度。益田甫はかすかに、どこかで名前を見たことがあるかないか程度。他は知らない。

Img_2141 この本は、実は昭和17年7月25日発行なのだ。定価は1円30銭。げげげ、これも戦争が始まっているじゃないか。よくこんなものが。当時、非国民と糾弾されなかったのかなあ。国家総動員体制の下で許されたのが不思議。釣り人の無言の抵抗を感じる。でも、先達たちはどんな磯釣りをしたのだろう。ヤフーオークションに出ていて、興味があったので入手したら上記のようなことだった。前回紹介の絶筆となった国民的有名人で現代でいえば阿久悠みたいな佐藤惣之助なら許されるが、こんなのがと思った。

Img_2142 厚生省生活局長が序に、釣りは精神修養の厚生運動としての意義は深いなんて申しわけに書いてある。あ、その日付けは16年9月だ。その時、まさか12月に戦争が始まるとは知らなかったのだろうね。編者の益田は非常時局下、銃後の慰安として釣りが最も好適と書いている。しかし、沖釣りはすでに戦時防衛海面の指定と、漁船への機械油配給制限があって極端に狭められた。この本に船釣りがいろいろ書かれているが、大東亜戦争以来、客釣船は中止している、いつ再開されるか昭和17年2月現在未定である、とあるのが時代を示す。マダイを中心として沖釣が約三分の二ある。これが大物釣りで磯釣は三分の一。だいたい益田が書いている。

荒磯の釣り物として、メジナ、ブダイ、オキナメジナ、イシダイが挙げられ、クロダイは内湾性だから外洋ではあまり釣れないとある。それから、スズキ、ボラ、ハタ、カンダイ、タカノハダイ、タカサゴダイが挙げられている。小物はカサゴ、ベラ、カワハギ、海タナゴ、アイゴ、メバルが挙げられている。

気になるところランダムに摘出。フカセ釣りはオモリやウキをたよりにせず、糸のフケとノビのみをたよりに釣るとある。これは小生の認識と同じで何の不思議もない。というかフカセ釣りはこれ以外にあり得ない。ではメジナのフカセ釣りって何者だ。それはメジナのウキ釣りだろ、フカセ釣りとは何考えているのだと常々思っている。

この時代は常識だが、ナイロン糸なんてものはない。クロダイは上は人造テグスを使い、下に太物の本テグスをつなぎ、ハリスは細い磨きの本テグスを使う。投げ込み以外はリールを使わない方が一般的。木製か金属の太鼓リールだから、オモリ投げ込みでもウキの投げでも重いものでないと投げられなかった。

荒磯釣りではブダイが最も一般的で基本の釣りだったようだ。ウキ釣りが一般的だが、脈釣りもある。三間以上、四間半までの延べ竿が良いと書いてある。都会の継ぎ竿は役に立たない。渋引き綿糸3本撚りの道糸に3匁から4匁のナツメオモリで本テグス2本撚りの6寸と9寸の2本針。これはよく分かる。現代のハンバのウキ釣りにそのまま引き継がれている。

ブダイ、メジナ釣りの浮釣りではリール竿をすすめている。三間でクロダイのような調子では役に立たない、とあるが。そういう磯竿って注文だろうと思うが、分からない。ここでおもしろいことが書かれている。そういう持ち合わせがない人は大型のリールとガイドを5、6個、電気工事に用いるテープを持っていくと良い。釣り場で借りた延べ竿に細い糸でくくりつけた上からテープで巻く。しかし、イシダイ釣りでは四間から五間の物干し竿のような頑丈一点張りの延べ竿とある。さらに場所によってはバカを出す。淡水釣りやっている人はバカは分かりますよね。竿の長さより長い道糸を使う。佐藤惣之助でも同じだから延べ竿が一般的だったのだろう。

その他、おもしろそうなところはいろいろあるが、これもいつか後日。あ、そうか、松崎明治の釣百科に触れなければ片手落ちだな。あーあ、芋ずる式に広がっていく。あんまり期待しないでください。気まぐれですから。もっとも戦前版は持っていなくて、昭和36年の増補版です。序文は昭和13年初夏とありますけど。

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先達の磯釣その2

惣之助は、釣、の巻頭の序言でこう書いている。

<<然し、釣りを諄諄説くもの、あながち釣りの名手ではない。名人はいつも沈黙しているものである。われわれはただいつもその人の間近に窺い寄って、かくもあらんかと、秘密の一切を報告するにとどまる。釣って、釣って、初めて釣りというものが解った時には、もう説きたくないもので、私の釣友には、生涯アユを釣り、タイを釣っている名手がいるが、遂ぞこの人は説かない。>>

これを読み、うーむ、そうだな。残学菲才でありながらワタクシのように中途半端に説くものには、何によらず信用してはいけない。本当は師匠や先輩との間で直接の相伝というか謦咳に接し真似て盗むものである。ワタクシはそうしてきた。これまで、釣技や釣りの生情報は書かないようにつとめてきた。そういうものはいくらでもあふれているからである。しかし、これほどの情報化社会となりあらゆることが進歩、進化してきた。だがまた、知りたいのだけれど、もう一歩のところで得られない情報というものもある。だから、複雑、微妙である。

惣之助はブダイに凝ってかなり釣り歩いたそうだ。房総、相模、伊豆、紀州、八丈島、小笠原。延べ竿の三間から四間、道糸は渋染めの三本撚り。六か七匁錘で脈。浮なら三か四匁。匁と現在のオモリの号は同じはずである。ハリスは1分柄テグス一本。人によっては5厘テグス3本撚りか8厘テグス2本撚り。強度は別にして、1分柄テグスは現在の10号、5厘柄は5号としてよいであろう。テグスはご存知ない人のために、野生の蛾から取れる。カイコから絹糸が取れるのはご存知ですよね。なに、知らない。仕方がないなあ。これは以前の記事でよく出現したフレーズですね。

釣り方は長竿釣りと流し釣りと船釣り。餌はハンバとカニ。惣之助は現在とほとんど変わらない釣り場にいっている。ごく近場なら根府川、真鶴、錦ヶ浦。川名、富戸から八幡野。その先の下田から南伊豆。伊豆七島まで及んでいる。

ブダイで気になる文章があった。竿は三間、三本継ぎで生地のままのものを作らせてもっていくのが理想的。うーむ。こういうのを竿師に作らせていたのだね。どんなものだろう。野布袋の印籠継ぎだろうか。普通の人は無理かもしれない。需要が少ないはずだから出来合いはなかったと思う。現地で借りたのが一般的だったのだろうか。石廊崎では灯台傍の茶屋で四間の延べを借り、石廊権現の下の荒磯で、、、と書かれている。ここまで釣りに行くだけでも庶民には無理だよ。伊東からバスに乗っていくか、修善寺からバスで下田。

Img_2138

さて、イシダイであるが、当時一般的な仕掛けは15匁の棒錘、麻糸か太い綿糸の道糸、ワイヤのハリスで物干し竿。仕掛け図の写真には人造テグス十匁又は麻糸とあるが、人造テグスは白絹糸太番手をゼラチンで固めたもの。10匁というと相当な太さだと思うが良く分からない。オモリのようにそのまま号に該当ということはないだろう。一分柄テグスが10号の太さからいうと100号かも知れない。あ、太さであって強さではないから念のため。人造テグスはごわごわして、使っているうちにゼラチンが溶けてしまうということをどこかで読んだことがある。たしか人天といわれたはずだ。

惣之助は書いている。磯の石ダヒの竿釣となると、どんな釣人も常にあこがれてゐながら、なかなかよく釣れる機会に恵まれず、又その辛抱も出来ない、その代わり一と度び、石ダヒがかかったとなると、大物は一貫目もあるから、道糸やハリスを切られ、竿を折り、時にずるずると引き込まれかかって、岩角で腕を挫いたという話もよく聞くほどで、これ以上豪快なものはないほど、磯釣の王者である。

道具が未開発だったというだけではなく、昔もあまり釣れなかったようだ。

磯釣のリール釣はなかったのかというと、あるにはあった。しかし、普通は国産のタイコリールである。

Img_2137 惣之助の本にリールの投げ方の図がある。見ると、磯釣ではなく、投げ釣りのようだ。タイコは片軸であり強い引きに対応できない。戦後、真鶴でやったという先輩から聞いた話では、タイコリールで拝み釣というスタイルだったとか。両手で拝むようにタイコリールを挟んで引きに耐える。多分、道糸を手で引き抜いて、余分を少しずつリールに巻き込むのかな。いや、手で引き抜くことが主体だったのではないか。

このブログのプロフィールの写真のリールはシェイクスピア1935年製である。

http://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2007/03/shakespeare.html

これだったら立派に使える。竿師に三本継ぎのガイド付き磯竿を作らせることも可能だ。

こういうものを戦前の日本で輸入してイシダイ釣りに使っていた人がどのくらいいたのか知ることはできない。大久保鯛生か三谷、長岡あたりは使っていたかもしれない。フライフィッシングでは上流階級においてかなりいただろうことは分かる。

古いリールの片軸は

http://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2007/03/post_7a11.html

右欄の下方に、検索があり、このブログ内で検索という機能が付いているので出すこともできる。シェイクスピアはshakespeareで入れないと出てこない。

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2008年1月24日 (木)

先達の磯釣その1

Img_2131 昭和17年9月発行の、釣、という本。創元叢書、著者佐藤惣之助、定価1円80銭。数年前ヤフーオークションで入手。詩人、作詞家。東海林太郎の赤城の子守唄、阪神タイガースの六甲おろし、人生の並木道、湖畔の宿。もっとあるけど、省略。釣りの著作が多いことでも知られている。でも年代的にワタクシより以後の世代の人であると、よほどの釣り文献マニアでないと知らないかも知れない。磯釣の大先達の一人として知っておりました。釣り本の復刻版の著者としてもよく目にしているところ

Img_2132 実は、この本の完成を見ないで脳溢血で亡くなった。惣之助の絶版となった。戦前の磯釣クラブのパイオニアである日本磯釣倶楽部の常務理事であった。同じ常務理事であった大久保鯛生が房総の試釣会があった日に房総線の車中で新聞を見て知った、と巻末の跋に寄せている。しかし、昭和17年はすでに戦争に突入している。このような本の出版が許されなくなる寸前であろう。日本磯釣倶楽部は最近はどうなっているのか知らない。少し前までホームページもあったが消えた。また、そうとう昔だが、竹芝で背中に伝統ある倶楽部の文字とSINCE 193Xとプリントされたヤッケだったかベストの人たち数人を見たことがあった。39だったかな。当時、日本磯釣連合の中にあって健在ということは知っていたが、ただただ恐れ入りましたと敬意を表す他になかった。とにかく磯釣倶楽部の源流の源流である。

Img_2134 Img_2135 惣之助はプロの文筆家である。サスガに文章は遅滞がない。磯釣だけでなく釣り全般に及んでいるのだが、当時、磯釣までを守備範囲にする釣り人はごく少なかったはずなので貴重である。房総、伊豆、伊豆七島まで釣りに行けた人がどれほどいただろうか。また、品川沖の道了杭の釣りが大名釣りだと書かれている。一人か二人の仕立てで二間半の竿を並べて、魚は船頭が取ってくれるし、餌も付けてくれて、座布団に座って釣れる。費用は掛かるが旧江戸を偲ぶ良い釣りとある。京浜間の防波堤の釣りは、かなり盛んで大衆的で、盛夏のなると300人も防波堤に上がるとある。

面白そうなところを紹介しようとしても、枚挙にいとまがない。読んで、磯釣の代表魚はどうもブダイだったような印象を受ける。七島のカシカメのウケ釣りが書かれている。知っている人にはこれだけで何の説明も要らないのだが。一割いらっしゃるかどうかくらいだろう。良いブダイ釣り場に出ると、足もとの岩に茶碗大に凹んだ穴がある。石でカニを叩いてコマセにした跡である。これはワタクシの磯釣り入門時に先輩から聞いて知っていた。

島では物干し竿のようなのを担ぎ、背に石油缶を背負い、一本のこうもり傘の骨と、弁当と水瓶を入れ一日岩礁を渡り歩き、祝儀用としてもブダイを釣る。こうもり傘の骨はカニを突いて採るため、石油缶は魚籠の代用もする。これを島ではヤギを担ぐといった。亭主がヤギを担ぐのに不平をいうような女房は断然評判が悪い。と書かれている。ハンバやモクの採れる時季は長いウケを投げて釣る方法がある。これは七島の伝統釣りとして有名である。知る人は知る。長くなるので後日いつか。この釣りはずいぶん長いことやっていない。やりたくなった。イシダイもメジナも書かれているが、これもいつか後日。

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2008年1月23日 (水)

メジナの西京漬けと干物

Img_2095_2 Img_2098 まいど、おなじみのメジナの干物。今回は少し魚が大きいのが難点といえば難点。30cmから35cmくらいのを数匹。メジナの干物はできれば、25cmから30cm以下の大きさが理想だろう。メジナが大きいので最初は干物にするつもりはなかった。カルパッチョを作って、残りの身は皮付きで小さく切って空揚げか竜田揚げにしようか、、他になにか思いついたら適当に料理するつもりだった。大きいメジナを刺身に作ってから、残りのメジナを背開きではなく腹から出刃を入れて開いたところまでは実行。実はウロコ取りでいいかげんイヤになっていた。ウロコ取り、なにか簡単な方法はないものか。冷凍庫が空いていれば何匹でも放り込んでおくのがいつものパターンなのだが。業務用の冷凍庫がウチの地下にある。アイスクリーム販売用の冷凍庫を譲っていただいたものだ。ちょうど、この冷凍庫には余地がないという。ウチは某生協の隣近所グループの一時預かり拠点となっているのだ。普通の家庭用の冷凍庫も一杯。では一番簡単な干物にしちゃえ。と、急遽やっつけた、しちゃえ干物。干物はそういう場面でも便利で強い。今回は立て塩法で定石通り。ちょっと薄塩でやった。甘塩というのかな。で、身洗いはしなかった。

Img_2127 Img_2124 西京漬けの方のレシピはネットで検索。西京味噌300gに味醂80cc、酒50cc、砂糖80gとあった。砂糖ね、そうかな、初めて見たが、なんとなく良さそうだ。これでいこう。ガーゼを使い、魚肉の上にガーゼ、ガーゼの上から味噌が常道。キッチンペーパータオルでも良いとある。用意が簡単でいいな。西京味噌は塩が薄く米麹を多く使っているから甘みがあるということが知られている。ワタクシは東京で育ったからほとんどなじみのない味噌だが、一応全国区の知名度ではある。京都で育った人に対して何事によらずそれだけで尊敬の目を向けている自分である。次は京粕漬けに挑戦してみよう。東京の人間には老舗専門店の魚久の名前くらいしか浮かばない。高級なものという感覚である。

Img_2121

刺身は普通のものと、皮付きで軽く焼いてから氷でしめて刺身にしたもの。写真撮らないで食っちゃった。皮を焼くのは、四国と九州やその先の島で少し臭みのある磯魚や、皮の旨いマイナーな魚はそのようにしておいしく食べるというのを読んでから。メジナとかフエフキダイとかタカノハダイとかニザダイもあったかな、日本の漁師料理というような新書版の本だったが、出てこない。料亭やすし屋のマダイの湯引きの刺身と少し違う。その残りを翌朝、おかゆに入れた写真。

Img_2128 Img_2129 Img_2130 ついでに最近の本だが、自家製干物を作るという本。辰巳出版、平成12年4月発行、1500円。内容は詳しい。塩分濃度と塩漬け時間、干し方と干し時間など、基本分野は必読の内容。そもそも干物の源流は漁師が捌いて、海水に漬けて干したというところにある。素朴伝統の干物と現代産業としての干物は乖離してきていることが分かる。しかし、干物を志すなら必読だろう。釣師の干物は大昔の漁師、海辺に生活した庶民が作った干物を目指すべきではないだろうか。と思っている。しょっぱいものはしょっぱい、にがいものはにがい。

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2008年1月18日 (金)

たまには潮風会の宣伝

磯釣や竹竿で検索して小生のブログに来ていただいた方はかなり多くいらっしゃいます。なんだ最近の記事はステレオ写真とクラシックカメラばかりなのかと。いえ、たまにはボチボチとアップします。先週は伊豆大島の例会でメジナを少々。寒かった。個人的にはメジナは一年に2回程度やるかどうか。例によってメジナの干物と今回は西京漬けを作りましたので後ほどアップします。大きいのは約44cmで刺身。

ところで、当ブログのリンクの最後に、潮風会の概要というのがあります。これがウチの会です。全磯の関東支部の中では一番充実したホームページということになっております。

http://www.h5.dion.ne.jp/~siokaze/top.htm

ここでまた概要が出てきますので、またクリックすると

http://www.h5.dion.ne.jp/~siokaze/guide.htm

本当の概要が読めます。昭和48年10月19日号のアサヒグラフ。モノクロ写真は式根島の磯渡し風景です。舳先をご覧ください。片側、左側に木製の手すり。もちろん磯に舳先を付けません。だいたい1mくらい離しているのが磯付けの渡しです。特別なのかって、いえ、これが普通です。それなりの経験、知識が必要で先輩から手ほどきされて、教えて貰わないと渡船はとても不可能でした。

その下のアサヒグラフのカラー写真。左の写真は式根島のハシケ、漢字では艀です。当時の式根島は本船は港に入れませんでした。港が貧弱でした。で、はしけ取りというスタイルだったのです。はしけどり。

で、この写真の下から3人目、サングラスを掛けた横顔の青年、これが小生の若き日であります。現在の姿はご想像におまかせします。右の検量風景は手前がウチの会の先輩幹部の一人、はるか昔に引退したOBで、隣は江東磯の青山さんの若き日でしょう。その後に関東支部の支部長になっています。

潮風会のホームページのボリュームは相当なものです。全部見るのは容易ではない。会の良さ、楽しさの一端は伝わると思います。まあ、良質な磯釣クラブに入るだろうと思います。興味ある方、関心を持たれた方はホームページにもありますが、メールいただければ、心から歓迎し、対応いたします。

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2007年12月24日 (月)

趣味は佃煮

Img_1988

かなり以前に読んで面白かった本。やっと本箱の裏から出てきた。2000年光文社知恵の森文庫。著者小町文雄。上智大の教授で、たいへん好感が持てる。いや尊敬します。全編文章を流れる人間性です。コレを読んで大いに啓発されました。佃煮から各種漬物や燻製、加工品というか保存食品全般を趣味で作る。漬物にこっている人はたまにいますが、佃煮となると、、、、知らない。

冬場、どんより曇って冷たい風がビュービュー吹くと、「今日はいい天気だ、干物日和りだ」と思わず笑みがこぼれるそうだ。この人の説ではお日様より風が肝心であるそうだ。カンカン照りの漁村の干物は2時間から3時間しか干さないとこの教授はいう。長く干すなら、日陰で風をあてる。蚊帳は意外に風を通さないのでよくないという。つまり干し籠はよくない。といっても都会ではこれを使うしかない。

ここでこの教授は批判している。「わざ手間」だ。わざわざ手間をかけたのに、そこらに売っている品と大差ないものしかできない場合だ。パンを焼くのと同じで、自分が作ったという自己満足を味わう。パンと違って干したての干物はなかなか店では買えないし、おいしい。とはいっている。教授は「わざ手間」度の高いものはなるべく避ける。パン焼き、そば打ち、うどん打ちは「わざ手間」の最たるもの。手間はかかるし、やさしくはない。教授はある程度簡単に出来て洒落があって、うまいものを目指している。干物に関して、教授は魚屋で買うが、我々を釣った鮮度のよい魚から作る。また普通ではお目にかかれないマイナーな魚からでも作る違いがある。となんとなく抗弁しておく。

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この教授のバランス感覚がいい。エスプリ精神もいい。変に重くなく、軽妙なところがいい。ロシア文学だからエスプリとは少し違うのでしょうね。

他におもしろい一節。グルメの語感と食道楽の語感ね。金にあかしてうまいものを食べる金持ち。少しでも安くてうまいものを探す人。グルメの生活は悲惨である。「名店の料理は、それはうまいに決まっている。材料からして十分に吟味されていて、並みとは違う。それを経験豊かなコックや板前が腕によりをかけて調理し、絶好のタイミングで出すのだ。大変な手間が掛かっている」「人間はぜいたくにはどんどん慣れるから、口がおごってくる」「あれを食っちゃうと並みのてんぷらは食えないね」ということになる。

並みの店や家庭料理はまずいとしか思えなくなってくる。グルメは食事の大半をまずいと思いながら生きているわけだ。うーん人生を悲惨なものにしないためには。

健康であること。空腹は最良の料理人という言葉があるそうだ。また「一片のパンに涙したことのない人は、人生を知らない」これはゲーテだそうだ。それは感謝だ。自然の恵みの感謝でもあるだろう。そして愛なくして何の食ぞ。目の吊り上った人が持っていないもの。立場を変える余裕、包容力、客観視できるユーモア精神。でも別の立場があり、玉村豊雄は、料理はもったいではなく、思い入れでもなく、料理は愛情ではない、知識や技術である、、、と説いている。料理は芸術の一種という考えでもあるだろう。

ま、このへんになるとお金のない人には無縁だよ。

大グルメであった吉田健一の言葉が出ている。

「子どもの頃に駅弁を買ってもらって旨かったのが、大人となるとともに薄れず、駅弁を買うのを旅行する楽しみの一つに数えることが出来れば、そういう人間は健康であって、西洋料理でも何でも、世界の珍味に浸るに足る、ということが書きたかったのである。料理のことを知るにつれ、駅弁などまずくて食えないというような通人の仲間入りを我々はしたくないものである」と教授は引用している。

私も吉田健一は何冊か読んでいる。吉田健一はバランス感覚はたしかにあるが、この引用文とはもう少し違う印象だな。

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2007年8月 2日 (木)

さらに手長エビ

ほととぎすまだ餌に付かぬ手長海老

海老つりはたわけの中の又たわけ

海老釣りの浮きは蛙にひやかされ

Img_1291_2 なんで、こんな句が出てくるってか。花咲一男という人の(江戸魚釣り百姿)という本にもっといくらでも出てくる。江戸の絵入り本から釣り人の姿と、川柳、雑俳を採録したもの。2003年に新装版が出ている。ほととぎすが鳴きはじめるころと手長海老の食いはじめる時期を詠んだ雑俳。同書にはこうある。(釣りをする馬鹿の内で筆頭。釣法が他の魚より一層のんびりみえるからであろう)

Img_1292_2 でも、こと手長海老を書いたものでは三代目三遊亭金馬の(江戸前の釣り)の中にあるのが一番。この本は、どこからどこまで素晴らしい。釣りでは歴史的名著じゃないかな。復刻版が出ているので入手しやすいだろう。FFISHのシスオペだったJUNさんといつだったか話題にしたことがある。落語大好き人間であったということをその時に知った。金馬の現役時代をリアルタイムで聞いてましたが、1964年、昭和39年没ですか。意外に早いなあ。そうかあ。志ん生、文楽、金馬が名人長老と並び評された時代がある。話はうまかったですよ。復刻版が出るまで、先輩からそういう本があるという話しを聞いただけだった。復刻版はえーと、1992年初版。読んでいない方、いまからでも遅くはない。内容は保証。

Img_1293_2 江戸前の釣りに関しては、鈴木鱸生という方の(わたしの隅田川 江戸前釣師70年)という本があって詳しいが、手長蝦の項がある。戦前はずいぶん盛んだったようで、手長蝦競釣会がたくさんあった。鶴見川と市川の原木川が手長蝦会のよい場所であったとある。木場の筏の上、千住の材木の上がよかったそうだ。また、明治のころは手長蝦の乗合船があった。たなごと共に妙に人気があったとある。この人は隅田川と江戸前の釣りの終焉を見届ける羽目になってしまったので、明治からのあれこれを野史として書いてみたとしている。明治31年向島の生まれで昭和53年に上梓した本である。鈴木鱸生という名前は古い釣り関係の記事でたまにお目にかかるので知っていた。

磯釣りでは荒い場所の地磯の釣りが最も体力と若さが必要。はいつくばたっり、絶壁にへばり付いたり、足の置き所がないなんてことも。釣り場に出るだけ、釣り座に立つだけでたいへんなこともある。高所恐怖症の人は不向き。外洋の地磯ではなく、優しい地磯、近海周りの地磯もあるけど、つらくなったら、沖磯の渡船の釣りだけに比重を移して地磯はやらない。経験さえあれば、カツアサでも作根でもカンナギの離れでも大丈夫。凪か時化ぎみかというのが一番の問題だが、渡船から飛び移るのが出来なくなって、平坦なところで釣りしたいとなったら、防波堤の渡船でデコボコのない足場の釣りに移行する。いよいそそれがダメになったら、淡水のタナゴと手長エビの釣りを主体にする。というのがスケジュールである。と考えていたが、やはり同時並行するのがよろしい。比重配分の問題だね。

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2007年7月28日 (土)

幸田露伴の幻談の野布袋竿の周辺

露伴の幻談はたいていの人は知っているだろう。土左衛門が離さずに持っていた野布袋の竿。今読み返すと溺死者のことをお客さんと呼んでいたようだ。野布袋の丸とある。つなぎ竿になっていないのが丸だそうだ。つまり延べを丸と呼んだ。名刀の鞘を払ったように美しい姿。実によい竿とある。お客が堅く握っていた野布袋の丸を、三途の川で釣りするわけでもないと船頭からいわれて、死んでも離さない竿を、指を無理矢理ぎくりとやって持って帰る。主人公はいわゆるご普請入りの御家人。ケイズを毎日のように釣っていた。露伴がケイズ釣りといっていたのは有名な話で知る人は知っているだろう。カイズは訛りで系図ダイの露伴説。

で、次の日その竿を持って船を出した。そうしたら、またお客さんが野布袋の丸を持っているのが見えた。竿はこっちにあるんだから、同じものが出てくるわけがない。見間違えだと船頭と顔を見合わせる。そこで竿を出して、南無阿弥陀仏を言って海に帰したという話。これは名作の誉れが高い露伴の小品である。

最初、露伴の小説をいくつか文庫で読んだのだけど、本箱を探しても見つからない。伊豆大島とか下田に汽船で釣りにいっている紀行文も読んだ。現在の中央区新川の霊巌島から汽船が出た。

Img_1260 その後、幸田露伴江戸前釣りの世界という本に露伴の釣り関係の作品がまとめられている。解説もあってなかなか良い。

野布袋の丸。二間あまりの竿。いいねえ。二間では持ち運びが大変だから、二本継ぎにして、とたしかにその昔はそういう竿を作ってみたいと思っていたことがある。ところが、元から裏まで良い延べというのは簡単にはない。作りそびれていて、あった手持ちの延べを普通の竿に作ってしまったりで、もう適当な延べがない。あーあ。そういう延べを探すのも今となっては面倒だけど、また気にかけておこう。

前に紹介した一間延べの三本継ぎというのが似たようなもの。もっと長いのを二本継ぎで作りたかったな。ていねいに火を入れて、節の処理、袴の処理をていねいにやって、胴塗りして、芽を打たない。印籠口巻きは竹肌に見えるように。二間二本継ぎというと1.8mになる。石鯛竿の三本か三本半の長さだからなんとかなるよね。

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ということで、ウチの延べを何本か出して、二本継ぎに出来るような組み合わせで並べてみた。左の三本は裏がカットされて売られていた竿作り用部品素材というべきか。適当にいいところを切断してグラス穂を継いで手元の淡竹とで船小物竿でもクロダイヘチ竿でもいかようにも作りなさいということだろうと思う。上Img_1255 の四本は裏まである延べ竿。太さを合わせて並べたところを撮影した。100円玉は竿尻から一間の長さのところに置いたもの。メジャーは穂先から来ていて150cm。ざっと計算して、150cmの二本継ぎなら作れる。5尺2本継ぎ、全長10尺前後。

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写真の仕掛品は全長400cmくらいの四本継ぎ。切断して途中のまま十数年。このくらいのクロダイ三本継ぎがあるので切断するのじゃなかったな。後の祭り。

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下の四本の上に三本ある延べは少し短めのもの。まだ20本くらい他にある。メジャーのすぐ左隣に置いたのが、節が揃った一番いい延べ竿。右の四本切りに比べると歴然の相違がある。

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四本継ぎを伸ばして置いた写真。右はもし二本継ぎを作るとして、太さを合わせたところの写真。メジャーの長さは余白を含めて160cmくらい。

延べ竿は余程テーパーがゆるくないと、先調子で胴が強すぎるのが普通。そう思って使う必要がある。テーパーのない、手元が細い3m足らずの延べの二本継ぎでハゼのリール竿を作ったことがある。釣友にどうしても欲しいというので根負けして持って行けといった。あれは良かった。他にクロダイ竿でも出したのが2本ある。これだけあるのだから一本くらいと言われると弱い。愛情を持ってくれるなら良い、持ってけ泥棒というくらいしかなかったけれど。

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2007年7月25日 (水)

白土三平のフィールドノートに学ぶ

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ご存知、白土三平は巨匠である。その認識は世代によって左右されるかも知れない。忍者武芸帳、カムイ伝、サスケ、権力に反抗して戦う。あの頃はすごかった。ほとんどリアルタイムの世代である。そして、この書フィールドノートが出たとき、感動した。素晴らしい、、、まったくもって、、、。1988年初版。土の味、風の味の2冊。内房の浜近くに住み、長野や東北の山間に足を伸ばす。該博な知識と好奇心。

Img_1242 1993年にこの2冊を合わせて、白土三平野外手帳という文庫本に収められた。ネットで検索すると出版社による紹介ページがある。すべて小学館だ。

フィールドノートの最初の書きだしは、こうだ。(「アウトドア」とは都会生活者が遊びながら、己が自然の一部であったことを思い出すためにあると思う。)同感。

Img_1243 Img_1244 初版の10年後、1998年、カムイの食卓と三平の食堂。続編という感じの2冊が出た。白土三平の好奇心という副題。海のもの、山のもの、いろいろ興味深い内容ばかり。

Img_1245 内房のチンチン釣りの記事がある。長竿を操り、胴長をはいて立ち込み、以前に書いた角形のカイズ籠を全員が肩に下げている写真が載っている。他にウツボやサメや、もっとマイナー魚が取り上げられている。

白土三平はゲテモノ喰いという言葉を嫌う。そしてこういっている。(日本人が米の飯を十分に食べられるようになったのもつい最近のことである。中略。消費文化の産んだ加工食品を家畜飼料のように食べている生活を時折絶つ必要がある。)同感。貧しい庶民は現代ではゲテモノと呼ばれるものをおいしく食べたのだ。そういう伝承が生きていたのだ。

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うちの会の先輩もこの書に感銘したのだが、感化されてイタドリの虫を捕って食べた。恐るべし。また、エラコの汐だきというのがある。ふくろいそめ。この背後には天明の大飢饉のとき、餓えて、あらゆる山野草、木の実を食い尽くした山間の人々が食物を求めて浜に下りてきた。貴重なタンパク源として日持ちの良いエラコは得難い海産物であったとある。

漁村では都会の人が食べない、いわば商品価値の低い魚、それどころか商品価値のない魚を食べる。あるいは普通では食べない魚や貝でも食べる。その食べ方は簡単かつおいしいという知恵と地域の伝統がある。こころある釣り師はこれをぜひとも学ぶべきである。わたくしも読んでいくつか追体験している。また、この書にたとえなくても、釣れたならば、どんな魚でも一度は食べてみるべきであるという考えを実行している。やはり不味くてダメという魚もあった。さかな大図鑑の食味評価は役に立つ。

この書から学ばなければならないこと。釣りがゲームだけになってはいけない。すべからく生き物を相手にゲームだけにしてしまってはいけない。どんな生き物であってもだ。ゲームしかないという遊びはよろしくない。私見だが、最悪のゲームはヨーロッパの上流階級や貴族がアフリカやインドで行った猛獣狩りであった。南米征服の人間狩りを肯定する人はいないと思うが、猛獣狩りも同断。しとめたライオンやトラに片足を乗せて、ライフルを片手にポーズして記念写真に収まる。また、イギリス貴族のキツネ狩りという伝統的スポーツがあった。たくさんの猟犬を使い、馬に乗ってキツネを追い詰めてどこがおもしろいのか。そういう遊びなのか。キツネは恐怖にかられ必死に逃げる。最後は猟犬に囲まれかみ殺される運命か。なんのために。動物愛護団体が動物虐待であると禁止を訴え、伝統行事だからということで、やっとつい最近禁止となったという。

スポーツの語源にはゲームに近いものがある。気晴らしという意味もあるらしい。生き物を相手にスポーツをしてはいけない。スポーツフィッシングしかり。だからトローリングは違和感がある。ブラックバスを除くキャッチアンドリリースのゲームフィッシングもいかがなものか。日本のバスフィッシングはすんなりとはいかなかったが、すでに結論が出ている。日本ではブラックバスをリリースしてはいけない。ゲームフィッシングはだいたいが釣り産業が推進したものだ。無批判にそれに乗ってはいけない。ましてや、釣り産業に迎合して、何も考えずに広告塔になるような釣り師は風上にもおけない。そういう釣り師は白土三平のフィールドノートをよく読んで考え直せ。といいたい。

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2007年7月 4日 (水)

遊遊さかな大図鑑

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出ました。待望の決定版。釣り師はこれを持っていないとダメよ。ほんと。えーと、正式には、釣り人のための 遊遊さかな大図鑑。発行エンターブレイン。ISBN978-4-7577-3531-6。2007年7月9日初版第1刷。監修中坊徹次 編者小西英人。定価本体5500円。エンターブレインは0570-060-555。

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以前、今はなき釣りサンデー社の、新さかな大図鑑というのがあったけど。新本としては入手できない。これは1995年6月15日初版発行。定価は本体6505円だった。その前に新がつかない、さかな大図鑑があった。

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その後は、1998年12月の釣魚検索という図鑑。みるみる分かる海水魚図鑑となっている。これが本体1900円。分からない魚を検索するのがなかなかよくて、古本で見つけたら購入すべしだ。

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さらにその後、2000年の11月、釣魚図鑑、本体1900円。これには見る読む楽しむ海水魚図鑑となっている。要所にエッセイ風の読む記事があってなかなか良い。これも古本を見たら同様。

魚類学も日々変化、進歩している。学説はそういうものだから、古いものは進歩していく。かなりダイナミックだ。え、そうなの、ふーん、ふむふむと読むのが楽しい。そういう世界を英人さんはわかりやすく書いてくれる。さすがプロだ。密かに、尊敬している。いや密かにではない。ブログを読んでいらっしゃる諸君、分かったね。すぐに書店に行きなさい。なければ注文しなさい。あ、同じことをウチの会のホームページにも書かなくちゃ。

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釣魚図鑑の150,151ページによみがえれ淡水魚という見開きのエッセイがある。当時、読んでまったく同感した。非常に良くまとめられている。同感の意を強くした。日本の淡水魚を放流がめちゃめちゃにしてしまった。放流は釣りに関わる全業者、業界が推進したのだけれど、それに釣り人が乗っていってしまったのだ。というか、無批判無自覚な釣り人の要望がそうさせた。無批判な釣り人って、普通の人、ほとんどすべての日本人。自分も含まれている。

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焼き印の本だって、えー、おいおい

実は、尊敬する小西英人さんの新刊、遊遊さかな大辞典を買いに書店にいった。6月末と聞いていたからだ。こっちは別に紹介します。ウチの仲間には勧めています。会のホームページにも書いておこう。そうしたところ、書店で見つけたのがこれ。続・平成の竹竿職人 焼き印の顔。著者葛島一美。釣り人社・2500円。7月15日発行。出たばっかりだった。

Img_0965 Img_0966 この著者の同じようなシリーズでは、平成の竹竿職人と、釣り具モノ語り、がある。しかし発行の釣り人社がよくない。トップのブラックバスに対する姿勢はいくら批判しても足りないくらいだった。釣り業界に迎合する姿勢はいたしかたがないところ、と許したらすべてがヤワになる。人間、最低限の批判的精神がなくなったら、よろしくない。この問題の根底にも通じる。釣り人社は情勢の変化に応じて一歩か二歩引けば良かったのだが、下手に抵抗したどころではなく、あろうことか先頭に立って反撃した姿勢がよろしくない。ことあるごとに自分はこれを批判したつもり。少し熱くなった。糞味噌にやっつけた。といっても、かぎられた範囲の中のこと。磯釣り師には熱弁をふるったが、核心から外れていることは否めない。いくら忙しくなるとしても、釣団体の組織の筋に乗り出していこうかと一時は思ったくらいだ。釣り団体の組織の筋からは引いて避けていたけど改めて、ことあるごとに乗り出そうか、全力を上げてしゃしゃり出ようかと一時は思ったくらいだ。

で、おい、なんですか先輩、いつもいっているが釣り人社はボイコットだぞ、と訴えてきたくらいだ。でも、上に上げた二冊は買っている。まあ、今となっては仕方がない。わだかまりはあるが、君子豹変するのだ。ちっとも君子ではないが、単に都合がいいだけじゃないか。どこを叩けば君子が出るのだ、まったくもう、いいかげんだ。

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で、この新刊。買う人がどのくらいいらっしゃるのかな。こんな本が売れるのかな。とくに今回の三冊目の焼き印だけど。うーん。つまらない心配をしている。まあ、好事家がいないことはない。でも、ごく一部だろう。はたして500人いるのかなあ。この著者の三冊はなかなかよろしいというかたいしたものだ、えらい。釣り人社でもこういうものはすぐに買うしかない。

しかし、驚いた。自分もこのブログで竹竿の紹介と焼き印をやっているからね。手持ちの竹竿だから限られものであることは仕方がない。しかし、ほんの少し前、一般庶民の生活の中に浸透していた実用焼き印に関してちょっとあっさりしすぎている。もっと浸透していた。生活の中に入っていた。少し前のブログに書いた屋号の焼き印ね。下駄に押した、桶に押した、鉈とか斧の柄にも押されていただろう。実用でもあるが美しい。用の美という言葉を昔どこかで知った。農村の自家用の紬織物の美だったかな。焼き印はあらゆる木の製品に押した。うちの下駄にも押してあるくらいだ。釣り道具にも押せるモノは全部押してある。これが基盤にあった。持ち主が所有を示すために押す。そこに一部の竿師が落款のように押しはじめたくだりはいろいろな書物に記されている通りだろう。汀石竿談義を読むと、かなり名を成した竿師でも、その昔は焼き印を押すと生意気だ、焼き印を押すのは生涯に2本か3本だといわれたそうだ。今では改めて考えないと見えないが、竹竿職人が、工芸作家に近いところに半歩踏み出した一面と、商品ブランド表記の一面がある。流通戦略や差別化の一面もあるだろう。

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2007年7月 1日 (日)

替え手元の名品

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ウチに日本釣り具大全という高額な書物がある。釣り会の仲間だった人で、自分より少し先輩の方から、興味があったので買ったけど、なにもしない俺が持っているより役に立つだろうから買った値段より安く譲るといってくれた。定価は二万五千。書物、文献を探しては、求めていることが仲間みんなに知れ渡っていたからだ。そういえば、日本磯釣連合の人から、有名な東作の竹竿辞典、あ新書の復刻版ではない初版の方ね、借りてきて会の幹部にそれぞれ回し読みさせてくれたことがあった。貴重な本で欲しいなあと思ったけどどうにもならない。探してもまず見つからない。そのずっと後、親書が出てうれしかった。

写真のように、立派な生地で装丁してあり、箱入りでしかも美術書にあるような同じ生地のカバーが付いている。ここにあらゆる名品の釣り竿、釣り道具の写真がある。品川道了杭のケイズ竿や、アオギス竿、ボラ食わせ竿とボラ浮き釣り竿、タナゴ竿、手長エビ竿、布袋印籠のマブナ竿、やまべ、やまめ、いわな、その他その他などを見ることができる。だいたい塗りが濃くて透きが茶色に近い。自分も白っぽいより茶色に作るようになった。まあ、レベルの低い真似なんだけど。その中で記憶に残っていたのが、写真の替え手元のクロダイ竿。新橋東作の作とある。今の銀座東作ね。写真のクロダイ竿は昭和30年代。五本継ぎの三間半、四本仕舞い、ろ色塗り、替え手元2本付き。写真で見ても塗りはスカッとしている。縁も覆輪も細工していない。非常に好感が持てる。作りを見ると相当高価な竿だけに余計にそう思う。ガイドとシートはえび茶に金の縁塗りがある。仕方がないかな。ちょっと見ただけでは分かりにくいかも知れないが、替え手元はこうなっている。通常の長さの5本継ぎ元竿と同じ継ぎで半継ぎが一本。この手元は4本半となる。あとの一本の手元を継いで使うと、三本半となる。長さを計算して推定すると、5本継ぎは1.26mの5本として、6.3m、4本半では使うと、写真の長さでは60cmとして5.6m、3本半で使うと50cmくらいとして4.3mとなる。写真ではこれ以上の工夫をしていないようだ。この竿の姿が頭の隅にあって、自作の替手元のヒントとなった。自分だったら、元竿をもう少し太くすれば穂持ちが収納されて、替え手元は前項の自作のように上下に連結して穂先を収納。うまくいけばそういう4本仕舞いになる。替え手元の仕舞いはどう処理しているのか。替え手元は釣り場に持って行くことを考えていないのか。

最後の写真は9尺三本継ぎの同じ銀座東作のカイズ竿。そのくらいの長さで真似をしたのを複数作っている。後日に。

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正体不明のリール竿と、、、自作小物竿

Img_0924 Img_0923 下段の竿は池袋から東上線で少しいった常盤台駅前にあった釣り道具屋で発見したもの。変わっている。変形2本継ぎで、元竿は171cm、穂先は133cm、全長304cm。10尺、ヘラだったら丈竿というところだろう。無銘。穂先がかなり短い。設計通りではおかしい。流用か、なにかの事情発生か。元竿の171cmというのがすごい。石鯛の四本継ぎよりも長い。三本継ぎ、三本半継ぎに匹敵する長さだ。穂先の半分くらいからグラスを継いである。錘負荷は1号以下だろう。元竿を見たら分かるが、73くらいの調子よりももう少し胴にくる。元竿のテーパーがほとんどない。はたして長物のヘチ竿か、ハゼくらいの船竿か、それともなにか別の竿なのか分からない。ヘチ竿にしては胴調子すぎる。超先調子だけがヘチ竿ではないのだろうが、よく分からない。

どうであろうとも、小磯の釣りなら汎用で、だいたいどんなお手軽釣りでも使うことができるのでとても便利な竿だ。小磯の釣りは好きだ。クロダイの当歳のチンチン釣りに憧憬を持っている。あこがれてなつかしむ。分からないですか。まあ、仕方がない。極小のスピニングリールで片手投げのウミタナゴの浮き釣りにもぴったりだ。ウミタナゴの浮き釣りも好きな釣りなのだ。その釣りは分かるけど、石鯛をやる人が変わっているって。そうかなあ。ヘラ浮きでやっても面白いし、5連くらいの木玉シモリ浮きもたいへん面白い。竹の二間半の強めのヤマベ竿か三間のハヤ竿でやることもある。磯釣り入門以後、わざわざこういう竿を探しては入手したのだ。小さな玉浮きでも極小の中通しドングリ浮きも良い。釣り味も良い。くっくっくと気持ちよく引く。細い仕掛けで活性の高い中型以上のウミタナゴを掛けたら、びーん、びーんと糸鳴りがする。

Img_0934 過去には、なんとウミタナゴの釣り方という単行本があったのだ。現在では考えられないが、昔はこんな変な本があったのだ。写真の本だ。これを持っているのも異常だ。昭和57年発行だから古くはない。洒落で入手したのです。こういう本を出した出版社に敬意を表した。西東社だ。著者は北沢魚心。直接には存じ上げないがお名前はいつも拝見する。これ以上のものを想起すれば、三の字の釣り方とかアイゴの釣り方だが、無理だ。メバルの釣り方という単行本はあっても良い。ムックではあるけどね。ウミタナゴなんて面白くないじゃないか、どこが面白いのという釣り師は少なくない。というかほとんど。偏見である。磯釣り入門でやっても、すぐにクロダイかメジナでもやるのだろう。食べても旨くないじゃないか。偏見である。シマアジばかりが魚の味ではない。

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Img_0930 もう一本の竿は正体不明の竿が使いやすいので、さらに工夫して自作したもの。穂先もグラスを継いでいるが細い。素材は前項で書いた、例の譲ってもらった江ノ島の根付き布袋。それにもう少し長い手元を選んで、変わり手元を作ったのだが、手元は写真のように上下に連結して仕舞いの長さが揃うよう作った。見た釣り師に感心されている。

Img_0929Img_0931 Img_0932 Img_0933  短手元では片手投げ、長手元では普通の短い磯小物竿。長手元は104cm、短手元は約37cm、穂持ちは約123cm、穂先は121cm。全長では短手元280cm、長手元約350cmである。写真で見たら同じ印籠部分で連結するところがひと目で分かるだろう。また、穂先の位置を合わせてから2本並べて写真で追っているので太さの比較ができる。自作はかなり細い。竿尻の位置の違いも長さを同様にして撮影した。この竿はかなり初期に作っている。名前は変わり手元磯小物三本継ぎ短竿とでもいうか。

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