本の紹介

2011年8月22日 (月)

服部博物館


名人の軌跡、近代釣具の変遷

ご存じ服部名人の歴史が凝縮されている。あの11pmの服部名人です。世代によっては知らない釣り師もいるだろう。まさに一世を風靡した。驚いたこと。金沢八景の旧服部邸のものすごさ。横浜の家が昭和19年に焼けて、金沢八景の別宅に昭和33年まで住んでいたという。600坪の豪邸。村本海事の向かい側だ。お年は昭和4年生まれ。なるほど。早稲田大学を卒業して読売映画社。それで日本テレビの11pmにつながる。読売新聞横浜支局長と八景の釣りで知り合うのが読売との縁だと書いている。

ええ、え。そうだったのか、先輩であった。かなり昔になるが、三宅島の阿古食堂でお会いした全磯連の中部支部の幹部先輩と3人だったかな、意気投合して、それでは全磯連稲門会でも作りましょうかという冗談を思い出した。その一人はベテラン新聞記者であった。
この本は6月ころ本屋で立ち読みして見つけた。パラパラと見て、おお、すごいね、これは、、、すごい。昭和23年1月20日発行。編者、つり情報編集部。発行、日東書院。3200円+税。
腰巻きにはこうだ。「戦後の海へと繰り出した若き日々。懐かしの11pmフィッシング。そして現在、日本の釣りの第一人者服部善郎名人が50年以上に亘り蒐集した釣具の数々。日本の釣りの歴史がここにある。」「世界初の電動リール、腕の延長だった横浜竿、大型カジキと渡り合ったトローリングタックル、世界一の技術を誇る数々の国産釣り針、地方色豊かな日本全国の釣具、仕掛けETC、現在では蒐集不可能なあらゆる釣具を一挙公開、解説」

「釣り情報」誌の通算100回を超す長期連載をまとめたもの。写真と解説はご存知の葛島一美による。
不肖ワタクシさかなちゃんの志向性からすると、たいへんおもしろい。たいへんなコレクションである。日本の釣りというものは、世界に誇るべき文化であって、地方の郷土色も豊かであることは論を俟たない。とくにライン、フックの項は立派。
また、民俗の漁や釣りの香がふんぷんと匂う。その多くは滅びつつある。そうだ、渋沢敬三と宮本常一だ。突然の飛躍、お許しください。柳田国男や折口では捉えることが出来ない。フィールドワーカーの旅人、宮本常一と服部善郎のどこが結びつくのか。結びつく。レベルは違っても日本全国を歩き、服部は海外までも飛び歩いた。おもしろいと思う心、記録に残す観察眼。白戸三平の好奇心にもつながる。これは大先輩、良き先達、服部への讃辞。11pmでも育ちの良いおっとりした温厚な性格が出ていて、立派な人だと思っていたが、奥行きの深さを知って見直した。大橋巨泉も服部善郎も先輩だからというよいしょではない。

釣りの名著の項では、「学生時代に出会った(釣技百科)の衝撃」がある。昭和17年によくこれだけの本が出せたものだと書いている。当ブログでも以前に同様に書いたことがある。この松崎明治の名著は現在でも通用するところがすごい。服部善郎の原点であるともしている。
金沢八景の釣り船での釣りが原点であり、とくにタイのしゃくりの釣りという御仁であるが、あらゆる釣りを駆け巡った。この守備範囲に匹敵する釣り師は他にはいないのじゃないかな。
すべてに渡って、恐れ入りましたという他に為す術はないのだが、ただ一点。台湾リール、車竿の発祥に関する記述。どうも世界最古のリールである寒江独釣図を見逃していると思えるのが気に掛かる。当ブログの日本のリールの歴史でもふれている。
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2011年4月 4日 (月)

日本のリールの歴史その6

もちろん前出の写真集の頃、昭和14年当時には、すでに国産リールもさかんに生産されていた。戦前のこの当時の「リール竿釣りの研究」といった文献がいくつかあることが分かっている。残念ながら、そこまで入手していない。1本くらい読みたいと思っている。前項で書いたように中西が植野善雄に見せたデユウスというリールはアメリカのシェークスピアのレベルワインドリールであったことが分かった。中西はこれをなんと2台持っていたことが分かっている。植野に中西は、もう一台あってこれは予備リールだからじっくり研究してくれというようなことをいっているのだ。昭和のはじめ、輸入リールの状況が類推できる。持っている人は持っていたのだ。

前出ポイント5。国産リール生産の草創期の状況。後に植野精工となるのだが、オリンピック創業者である植野善雄は昭和3年(1928年)「植野オール金属製作所」設立。船釣りの竿掛けを作っていた。金属雑貨類生産の町工場経営で、針金細工の竿掛けがヒットという理解でよいだろう。ハゼとシロギス用と思われる。しかし、リール生産に必要な工作機械がなかった。「犬印リール」のメーカーは曳舟駅近くにあった川窪製作所である。何かの関係を持っていた。曳舟というと、現在の東京スカイツリーの近辺。このリール生産にはもちろん植野が中心となって関わっている。

リールの商標を「犬印」としたエピソードがある。昭和4年12月、善雄の父源太郎が亡くなった。その時、父の愛犬シロが失踪した。シロが戻ってくるように願い「犬印リール」としたとある。サイドプレートに犬の刻印がある。昭和7年5月に3機種発売。しかし初号発売は昭和7年以前とも読める。後に合計5機種になり当時の市場を独占。その後、「犬印リール」は「ドッグ印リール」と改称。しかし川窪製作所でのリール生産は昭和10年で終了。植野がリール生産に直接乗り出したからと読める。

「植野善雄伝」にはオリンピック設立の経緯が記されている。「植野オール金属製作所」を解消して、昭和10年(1935年)最初の「植野製作所」の名称に戻して設立。なんと、当時の淀橋区下落合2丁目937番であった。そして昭和11年「オリンピック」ブランド名の両軸第一号リールを発売。小型70ミリ両軸万能リール。「フィッシュオリンピックリール」の呼称。両軸というと、犬印と同じかも知れない。五輪とトビウオマークの商標が刻印された。よく知られているのは片軸横転リールで、80ミリとか100ミリという呼称のリールである。

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ワタクシの地元の新宿の下落合に工場があった。ここが近代釣具産業の発祥地であった。えええー、地元年寄りは知っていたのだろうか。聞いたことがない。この詳しいことがぜひとも知りたかったのだ。戦後にはすでになかった。この疑問も「植野善雄傳」に書かれていた。予想通り昭和20年5月の空襲で灰燼に帰したのだ。東京下町大空襲は昭和20年3月だが、こちらの山の手、目白、高田馬場、神田川流域では昭和20年5月に空襲だ。この空襲は地元ではよく知られている。しかし、植野の釣具工場は、ワタクシの90歳の老母に聞いてもどこだか知らなかった。もちろん、町工場や鉄工所が点在していたことは記憶にあるそうだ。どの工場が、何を作っていたかなんて知らないそうだ。昭和10年から昭和20年という期間では無理もない。

ワタクシは以前より断片情報から戦前のオリンピック下落合工場の存在だけは知っていたが、「植野善雄傳」でやっと下落合の番地がわかった。現在の新宿中央図書館の隣のはずである。ということは、ワタクシが生まれる前の戦前のウチの住所からだと100mくらいである。現在の住所からでも300mくらい。そうだったのか。亡父からもそんな話しは聞いていなかった。太平洋戦争が始まってからはリール生産なんて許されなかっただろう。需要もなくなっただろう。当然、なにかの軍需生産に変わっていただろう。ということはまともな稼働は残念ながらごく短期間ということになる。

戦前に両軸、片軸、片軸横転、などの国産オリンピックリールが生産されていたことはいくつかの文献で読んだ。たまにヤフオクに出ていることもある。また、満州国建国以後の製品で、日本、満州パテントと入った片軸横転増速リールを見たことがある。

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2011年3月28日 (月)

釣魚1400種図鑑

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ご存じの小西英人さんから新刊が送られてきていた。「釣り人のための遊遊さなかシリーズ」「海水魚・淡水魚完全見分けガイド」とある。文庫サイズで540ページ以上だ。いつも気にかけてもらって、ありがとう。署名入り。あ、洒落た落款があった。こういう時なので、ずっと温めていて紹介するのが遅れた。

発行は(株)エンターブレイン、発売元は(株)角川グループパブリッシング。2011年3月28日発行。1900+税。これはいつものところですね。サイトをまた紹介しておこう。

週刊釣り曜日。http://tsuriyoubi.jp/

以下は裏表紙のチャッチ。だいたい、ここに訴求ポイントが要約されているからだ。

「前人未踏!海水魚・淡水魚、さらにイカ・タコも加えて1400種以上を収録!生きている魚の写真を使用し、釣魚の見分け方を徹底解説!分布解説・食味評価付き」

うーん、いいねえ、いいよ。

さらに、前書きには、

「外道だ、雑魚だ!・・・・あまり見もせずにこの地球の恵みを逃すのはもったいない。多様性に酔いしれようではないか」まったくその通りだ。英人さん、ごくろうさん。

そして、

「定価を抑えるため、写真の切り抜きからDTPまで、すべてやって、直接、印刷所に納入したので、けっこう大変でしたが、とても楽しい編集作業でした」と同封お手紙に。図鑑の出版もこういうことに当たり前になってきたのですね。うーむ。

巻末の「ぼくは誇らしかった・・・」を読む。うーむ。そうか、よかったね。

これだけの種類があれば文句はない。ないどころか、よくつめこんだものだと感心する。写真がすごい。魚類図鑑の2つや3つは持っていないと釣り人としては失格だよ。長年の釣り師というレベルでは5冊くらいはあるのが普通だろう。うちにはもっと、もっとあるけど。ははは。何十年もやっているとね。いろいろある。ひと昔、フタムカシ前の魚図鑑のレベルを見ると、要求レベルにもよるが、ないよりマシというものもある。それはそれで良かったのだ。釣り師がいくつかの魚図鑑をたまに見るということがなければならないのだろうと考える。ぱらぱらと見ることで良いのだ。

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たとえば、ワタクシはハゼ科をよく見ている。それからニザダイ科ね。ベラ科とブダイ科も。さかなちゃんブログの固定読者の方がいらっしゃったとして、ぜひとも、この図鑑くらいは折に触れて忘れたころにパラパラしていないといけないよ、と書いておく。あ、ステレオ写真のマニアに人もこの図鑑を買って眺めてみても損はないよ。とすごいことを書いてしまった。

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2011年3月27日 (日)

三陸海岸大津波・吉村昭

吉村昭は好きな作家の一人。たしか三陸津波を書いたものがあった。本箱から出して読み直す。明治29年の津波、昭和8年の津波、昭和35年のチリ津波を中心に丹念に取材した作品。吉村が記録文学者として卓越していることは誰も異論がない。

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「三陸海岸大津波」の初出は1970年中公新書。昭和45年だ。その後、文庫化されている。文春文庫だ。えーと、これは、2004年3月刊438円+税。

最初から読み直してみる。これだけ書かれていたのに。うーん、これだけの災害が繰り返されるのは何故。

明治29年、昭和8年、昭和38年のチリ地震津波、昭和43年の十勝沖地震津波を岩手県田野畑村で経験した、吉村の取材当時87歳の早野幸太朗氏は「津波は時世がかわってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」と語った。実に残念ながら、そうではなかった。

自然の力が大きすぎて悲しすぎる宿命なのか。あるいは三陸という土地の宿命か。どういうことなのか。歴史に残された三陸津波の主なものを調べると貞観11年(869年)から18件あるという。記録以前にもあったことは間違いない。太平洋プレートが沈み込む日本海溝と密接な関係を持っている。明治29年は26360名、昭和8年は2995名、チリ地震では105名の犠牲者を出した。それなりの対策と知識によって、被害を少なくしてきたように見えた。

明治29年は1896年。19世紀末。明治28年に日清戦争に勝って戦勝気分の時代だった。

そして、田老町の巨大防潮堤の建設の顛末が書かれている。この時点で、土地の古老でもこの防潮堤を軽々と乗り越えて襲ってくる津波を想像できなかった。1000年に一回のレベルでは想像できない。想像したとしても逃げること以外に対応できない。災害経験が古老の記憶となり土地に浸透していても、とにかく高いところまで逃げろという切迫感は時間の経過で風化してしまうのだろう。昭和8年しかり、チリ地震津波しかり。そのチリ地震津波は、地震がないのに津波が来るのだという知見がない時代にも繰り返して襲われていることが分かってきた。記録が残っている380年間に43例の津波が三陸を襲ったが、そのうち9例が南米からの津波だろうと調べられている。地震の揺れと津波の強さは関係しないときもある。昭和8年、横揺れで、関東大震災を女中奉公で験経した人は縦揺れが激しくないから大きくないと油断したそうだ。避難は一刻を争う。とにかく早く高いところに。

三陸では津波を「よだ」という。「津波」は新造語で、明治29年当時は「海嘯」という言葉も使われていた。嘯は「うそぶく」。

磯釣りでは「よた波」という言葉がある。「与太」か。これは海が荒れた日に、たまたま1時間に一回か2時間に一回くらい合成される5割増しくらいの巨大な波というはずであり、そのように使ってきた。2発から4発くらい来る。他に軍艦波というのも聞いた。駆逐艦以上が全速で航行するときに大きい波がくるから気をつけろという言葉で昭和30年ころまで通用したようだ。

ともあれ、必ず大地震は起こる。必ず大津波は襲ってくる。その周期は長いかも知れない。50年に一度でも人の記憶は風化する。100年に一度ではなおさらだ。1000年に一度では、そんな心配をしても無駄ということになってしまう。しかし、1000年に一度というのは人間にとっては遙か昔の遙かな時間というだけであって、長い地球の歴史にとっては尺度が違うだけ。1万年に一度の頻度も同様。尺度が違えば一瞬の時間にもなる。プレートテクニクス理論が確立されて以後、プレートが移動するということを誰もが知るようになった。伊豆半島がはるか南から移動してきて本州に付着したことも常識となった。

原発問題もこういう天変地異をどう評価するかという問題に煮詰まってきたように思える。火山の場合でも予知は進んできたとしても、制御など不可能。為す術がない。避難しかない。関東で長く磯釣りをやってきた釣り師なら、大島、三宅島で何回も繰り返されている噴火に傍観するしかないことを知っている。

原発は地震の歴史や、津波考古学というものを軽視したのではないか。50年に一回あるいは100年に一度大きな地震があって、1000年に一度はとくに大きな地震がくる、というのは納得してしまう。1万年に一度、あるいは数万年に一度、もっと大きく地殻を動かすような大変動の可能性があるのだと覚悟しなければならないだろう。いつなのか分からない。こういうエネルギーに対して、いまのところ為す術がない。その時は仕方がないという覚悟は必要で、原発もそういう覚悟がなければならないはずだが。その覚悟は気配を消していて、1000年に一度を気にしていてはなにもできないと、スルーしているのが現実だ。人間の時間の尺度で想定外といっても駄目なのだ。

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2011年2月11日 (金)

日本のリールの歴史その5

前回の台湾リール、サイドマウントリールで、インディアンスタイルという例もあるようだと書いた。よく見たら、インディアナスタイル。アメリカのインディアナ州のことだった。そこのスチールヘッド釣りに使われていた。

さて、前出のポイント4。近代リールの日本への輸入状況。やはり情報が少ないのでよくわからない。少数の日光丸沼フライリール以外に、お金持ちの釣り師向けの欧米の近代リール輸入がなかったはずはない。戦前の欧米高級カメラは明治時代からかなり輸入されているからだ。だがしかし、近代リールの輸入が、いつごろからどのくらいなのか分からない。カメラよりずっと少なかっただろう。欧米近代リールを使った釣りがまだ日本になかった。そういう釣りの浸透とリールの輸入開始が同時進行ではあるが、国産リールの生産開始までは、やはり例外的でごく一部の釣りであったのだろう。

日本のリールの歴史を語る優れた資料として「植野善雄傳 近代釣具開拓の父」(松本國雄・昭和58年植野善雄傳記刊行会)がある。植野善雄はオリンピック釣具の創業者。この人の伝記が出版されたということは以前から知っていた。今回、このブログで展開している日本リール史というようないきがかりから、とりあえず入手して読んだ。実におもしろい。別にもうひとつ、オリンピック釣具の歴史でぜひとも知りたかったことがあったからだが、これは後ほど。

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ともあれ、植野善雄による国産リールは昭和3年(1928年)、神楽坂上で薬局を経営していた中西英彦が植野善雄に見せたアメリカの「デユウス」という小型リールから出発する。これを植野は分解して調べ、部品配列図を作ったとある。

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ウチに1年か2年前EBAYで落札した「アンチークアンドコレクタブル フィッシングリール」(

Antique&Collectible Fishing   Reels –Identification,Evaluation,and

Maintenance)というアメリカのマニア本がある。デユウスというリールを調べてみたが、いまのところメーカーが分からない。メーカー名でなくブランド名なのだろうか。どうもこれが翌年の昭和4年(1929年)植野が図面を作った「犬印リール」のコピー元ではないのか。しかも、価格の安い少年用リールではなかったか。その時代はというと、ちょうど世界経済大恐慌の年である。そのころようやく国産リール生産が始まるのだ。

1929年ころのアメリカのリールをマニア本の写真から上げておく。

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B.C.Milam&Son Rustic No.3 Bait ケンタッキーのフランフォートの高級リールで1910年から1920年。このくらいになるとEBAYにもほとんど出ない。

そしてレベルワインドのパテントはシェークスピア(Shakespeare)が1897年。

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1907年にはマーホフ(

W.E.Ma rhoff)のパテントでほぼ完成。現在とほとんどかわらないリールがすでに欧米にはいくらでも存在していた。

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植野が最初に作った川窪製作所による「犬印リール」の写真がネットにあった。コピーお借りします。なにかあれば削除します。

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そして、それとほとんど同じ形式の後日のオリンピックリール時代の写真がある。これは戦後版でも同機種が生産されたようだ。ポイントはビスではなく、「はめ込み式」リールシート組み立て方式である。いかにもコスト削減の作りに感じられる。

植野精工オリンピック300はヤフーオークションに出ていた。落札すれば良いのだが、ウチにある黒潮リールと同じ系統、雰囲気なので、写真だけ使用お許しください。

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さらに、アメリカの前出マニア本に「ボーイズリール」とする写真がある。メーカー名はアンノウン不明である。コスト削減の作りは特徴的。ピラーはビスを使っていない。

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また、松崎明治の写真集「日本の釣り」は昭和3年から11年後の昭和14年(1939年)だが、沼津ではいろいろなルートで入手した舶来リールの品評会のようだと書かれている。その数は連日200人から300人とある。先達の磯釣りその4に写真と記事があるが、もう一度写真を上げておく。

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昭和14年にはそうとうな数量のリールが輸入されていた。そのころ戦争が迫っていたが、戦前の経済的最盛期という時代だろう。

その6に続く。

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2011年1月10日 (月)

日本のリールの歴史その3

その2から続く。

一方、北海道の車竿は、明治末頃、外国人の釣りを見て大正初期から使われていただろうと永田は紹介している。松原新之丞という人がいろいろ製作したと釣り雑誌に書いているそうだ。小田原リールより6、7年(1915年頃)早かったとしている。北海道の車竿は札幌農学校の校長が持ち込んだアメリカ由来のリールが出発点だ。と永田はあの赤星鉄馬から聞いている。それはフライリールであろうと永田は書いている。永田はハイブロウのアングラーとして、上流階級実業家であった大ブルジョワ赤星に敬意を表していた。いろいろ教えを請うている。赤星は箱根芦ノ湖にブラックバスを持ち込んだ人物。永田は実は上流階級の典型的戦前型社会主義者。治安維持法にやられているプロレタリア画家だった。突然、日本の英国紳士流の上流人物といえば吉田健一が浮かのだが、どちらも私ら庶民とは根本的に階級が違う。戦前の上流階級なんといっても、世代によっては意味も実感も分からないかも知れない。申し訳ない。実は赤星は海釣りも含めていろいろな釣りをやっていた。

さて、北海道車竿も片軸の木製ノッチンガムスタイルフライリールの模倣だったのか。工作難易度からいうと、すでに存在していた真鍮のバーミンガムリールや増速ギアリールと呼ばれるケンタッキーリールではなく、片軸木製リールだろう。ハンドル回転1対1のスプール回転でシングルリールとも呼ばれる。日本のこのころの木駒は現在、ほとんど遺っていないのかも知れない。資料もなかなか見つからない。写真も少ないだろう。欧米の当時のリールならば、欧米にいくらでも遺っていて、ワタクシでもEBAYから入手可能であった。前回紹介したところに同じデザインのリールを見つけた。ウチのより少し大きい。

英国のノッチンガムあたりが有名産地であったので地名で呼ばれたというらしい。最も古いリールのひとつ。しかし、現在まで生き延びて、台湾リールと同様に現役として存続している。その末裔のひとつは日本のクロダイ太鼓リールとして。

ノッチンガムリールは欧米で現在でもホコリをかぶっているような残存個体がたくさん存在しているようだ。

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ワタクシは、その19世紀後半のリールを、小磯の釣りに使えそうだ「おもしろい」と、海外のオークション

EBAYから落札した。手頃なサイズともう一個、さらに小さいサイズもそろえた。中と小の2個。スプール径87ミリと62ミリである。当時は何インチ何分の一とかいうところの、古い英国インチで呼ばれただろう。現在のインチと少し違う。

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穴の開いているリールは日本の以前の古いリールの記事に出したクロダイ太鼓リール。ノッチンガムリールを、関東の小磯の釣りとか深場のハゼ釣りに使いたいと思っているが、まだやっていない。昨年初冬、江戸川のボートハゼ釣りに行こう行こうと思っていたのに時期を失した。

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もちろん竹竿でないと。小磯のウミタナゴ、メバル、小メジナもおもしろいだろう。小磯用竹魚籠と、竹の玉網の柄も楽しい。たけびく、と、たまあみのえ、です。竹の小磯竿がたくさん待機している。こっちは春先からいける。

小磯釣りの現場で、たとえば想定問答集は、次のようになる。

「古い竹竿をお使いですね」「あ、恐縮です。ですが、こんなのはそれほど古いとはいえませんよ。ほんの三十か四十年前まで現役でした。竹の小磯竿なんてあまり珍しいものではありませんから」「それよりもこのリールです。軽く150年くらい前。黒船が日本に来た頃。ちょんまげの江戸時代末に英国で生産されていたものです」「今使っているこれですけどね。このリールはだいたい130年前くらいの現物です。このリールの源流は大英帝国において18世紀以前から使われていました」「え、ええ、、、、、、、、、。普通のクロダイ太鼓リールに見えますが、(絶句)、、、」「はいクロダイ太鼓リールと同じです。その元祖の大昔の現物なのです」「動きますか」「立派に使えます」「おそれいりました」「それはどうも恐縮です。いやいや、長年やっていると、こういう釣りがおもしろくなったのです」でも、ほんとにこう会話になったら煙たがられて、鼻持ちならない。イヤミであり野暮になる。

趣味というものは、洒落ていないといけません。あれれ、それほど洒落ていないって、、ですか。そうかも知れないけど「竹竿とそういうリールの道具ですと、よく釣れますか」なんていう質問は断固無視いたします。そういうもんじゃありません。釣果なんてことを質問してはいけません。大きいのが釣れますかなどと質問してもいけません。たまには釣れるでしょう。いずれにしても突然、秋山さん。釣果卒業の枯れた釣りですか。誰と、どこに、ですね。どういう釣り、もありますね。あのねえ、ワタクシ、秋山さん以上に、ひたすら釣れない釣りの方向を追求しているようなのね。まったく。

以下その4に続く。

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2011年1月 4日 (火)

日本のリールの歴史その2

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アメリカのオークションEBAYに出ていた横転リール。

前項その1では大正8年(1919年)の時点で欧米式の近代リールはほとんど日光丸沼でしか使われていないことが示された。釣り雑誌に執筆するようなリーダーも使っていない。輸入して使っていた釣り師はごくごく例外的な一部にすぎない。当時の釣り雑誌をすべて調べることができれば明らかになるだろうが、以下の点は現在のところ不明だ。日本のリールの歴史として見ても、だいたい要約されるだろう。戦後の歴史は省略している。こちらはけっこう文献もあり、マニアや研究者によってかなり光があてられているからだ。よく知っておられる生存者もまだ少なくないだろう。

1、すぐ前の当ブログ記事その1で、「幕末に発明したという手バネに組み込まれた堅い木製の車(リール)」はその後どうなっていたのか。

2、その源流である英国ノッチンガムスタイル「片軸木駒リール」の日本出現はいつごろ。

3、木駒リールとは形態の異なる片軸直付けの台湾リールはいつごろ日本に浸透したのか。とくに鹿児島、沖縄における車竿の歴史。

4、その当時、すでに多種多様に発達していた欧米の近代リールが日本にいつごろ、どの程度輸入されていたのか。

5、国産近代リールはいつごろ出現したのか。

1は、よくわからない。永田はそのまま中断したと書いている。また、幕末の西洋事情の仄聞や、横浜開港の欧米人からの釣りのリールの情報が、もしかしたらあったのか、という疑問がある。横浜の野毛の人が発明したといっているのだ。

2は、永田の「江戸時代からの釣り」では、投げ釣り用の木駒リールは小田原でおそらく大正5年(1916年)に発生したと考えられるとしている。これは大磯の尾上栄吉の回想録から。湘南一帯に全盛になったのは大正10年(1921年)から11年(1922年)ころという証言もあるそうだ。

木駒の新式横転リールを見たという記事が「海と河」昭和7年(1932年)10月号にある。考案者は大磯の松山邦茂で同年に実用新案となっている。松山式横転リール出現までは、片軸リールはバックラッシュ多発、相当な熟練が必要だったに違いない。この横転式は欧米では19世紀末にパテントをとっている方式である。たしか、1884年だ。サイドキャスターと呼ばれている。真鍮で非常に重いそうだ。

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現在でもオーストラリアにこの方式のリールの専門メーカーが健在だ。大英帝国からオーストラリアにこのリールの伝統が受け継がれたようだ。

外国の釣りコレクションのページがある。現在のところ一番詳しいと思う。そこにはMalloch’sのサイドキャスターも出ている。日本でもリールコレクターのページがある。ワワワワ、日本にもこんな人が、、、、と驚嘆するのがここ。サイドキャスターもある。他にも、ググると凄いのが2、3出てくる。ワタクシなぞ、唖然とするばかりで手も足も出ないほどだ。ご尊敬申し上げる。ステレオ写真の世界ならば不肖ワタクシ日本においては多少は自信がある。クラシックカメラのコレクターの世界も多少知っていたが、リールの世界はまだ、入り口程度しか知らない。恐ろしい世界だ。より特殊で、少数マニアの世界と感じている。ワタクシレベルでは基本知識は別として、表面をかすめることさえ届かないかも知れないな。

横転松山式リールの現物を永田は大磯の「おおなわ」打ちの長老から参考になるならどうぞと貰っている。実用新案を後日に調べるまで、リールの名称、由来がわからなかったそうだ。「江戸時代からの釣り」にその写真がある。

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EBAYにはほとんど同じリールも出ていた。 この章冒頭の写真のリールである。

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当時の日本の釣りを考えれば、リールを使わない釣りが多い。あるとすれば、江戸前ハゼ、キス釣り。リール使用の投げ釣り。少し下ってクロダイなど小磯の釣り。魚も釣り道具も直輸入のマス釣り。浅場の船釣りも出てきたかも知れない。考えれば、いや考えなくてもリールの導入とそういう新しい釣りの出現は同時、同一である。以下日本のリールその3に続く。いやはや、長いね。

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2010年12月28日 (火)

日本のリールの歴史その1

「先達の磯釣番外、永田一脩その5」より続く。

前回で明治26年の「釣魚新書」(1893年)の日本製のリール竿についてふれた。書名を間違えてしまった。正しくは「漁釣新書」。この図中と同じギザギザリールを子供時代に見たという戦前の証言が紹介されている。「ハゼ竿で、野ボテイの手元に車竿を装したもの。車はカンナの台のような堅い木で造った、丁度時計の歯車のような形で、それを竿の手元を縦にくり抜き、中に入れてありました」と。時計の歯車はラチェットの役割だろう。

日本で最古の車竿の記述は「明治10年内国勧業博覧会出品解説」にもあるという。図が示されていないので、形が分からない。横浜野毛の田臣義幸が、ハゼ・キス用として安政年間に発明したという。「長三尺八寸全部人面竹柄(布袋竹)の中心に黄銅製(鍍銀)の小車を挿みこれに糸綸を巻きその一端を竿頭の一小孔に穿つ。竹竿は銅線にてその節を抜き糸を竹心に通して竿の頭に抜く。水底の深浅にしたがい指頭にてその車を転回すれば、、、後略」これはまさに中通しハネコミ車竿で、、、略。安政年間というと、1854年から1859年。日本のリールは1859年には存在したことになる。

この車竿は「手ばね」と呼ばれる竿の形態に近い。手ばねには通常糸巻きが付いているが、それが回転式となっていて、また、ハゼの中通し竿の糸巻きの変形とみることもできる。

また、永田が明治の釣り技法を述べた唯一の最良の書である、としている「日本水産捕採誌」にもギザギザリールがある。この図は永田の本では紹介されていないが、ウチに復刻版(「釣りの原典」と改題。博品社1996年)があるので、見ることができる。図が荒いがしかたがない。

この「日本水産捕採誌」は明治19年(1886年)当時の農商務省が編集を企画した。完成は明治28年(1895年)。しかし経費の問題で刊行は明治43年からはじまった。全国の漁具、漁法を網羅した不朽の名著。複数の復刻版が出ている。永田は、欧米の六角竿とリール、「金属製の絡車」について正確に述べているのは立派というほかない、と書いている。ワタクシもおこがましいことではあるが、素晴らしく立派な良い本だと思う。釣りの文化史であり、まさに原典である。漁の釣りを含めて、日本の伝統的な釣りがすべて収集されているといっても過言ではない。

この本には日本の投げ釣りの原点や、クロダイ釣り、ブダイ釣りが特に面白かった。いつか改めて。

日本のリールに戻す。日光丸沼の英国式フライフィッシングは大正2年(1913年)。会員十数名ではじまった。貴族と富豪の会である。すべて輸入による釣りであった。洋行帰りの人が主体かも知れない。

大正8年(1919年)雑誌「釣りの趣味」第一巻第一号に「釣車二種」という紹介記事がある。台湾リールを説明したあとに、「西洋の釣車はずっと進歩している。全部鉄ニッケル等の金属製で、径一寸五分ばかり、糸を巻くにも出すにも都合良く、小ハンドルが付いている。(中略)用法はまた実地に調べないが、魚勢に随って糸を巻き納め、あるいは糸を出しやり、、」とある。なんと、まだ使っていない。伝聞だ。

次回に続く

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2010年12月26日 (日)

先達の磯釣番外、永田一脩その5

永田の「江戸時代からの釣り」は、全体が統一されているものではない。というのは知見が前後して、書いていた時点では明らかになっていなかった事実が後日に判明したというようなことあるからである。一気に書いたものではないからである。

ともあれ、日本でリールに関して触れられているところをひろってみると。少なくとも、江戸時代の日本の釣りにはリールは出現していない。文献としては、ウォルトンの「ザ・コンプリート・アングラー」(1658年)のころから書きはじめたと見られる「本朝食鑑」(1692年、全十二巻)。ハゼ釣りとキス釣りの記載がある。そして「何羨録」(1716年)。「漁人道知辺」(1773年)。「於加釣手引・闇の明里」(1788年)。「釣竿類孝」(1804年)。幸田露伴は「天明(1781年)以後になると、釣りの豪奢はまさに極みに達せんとする勢いを示した」といっている。その後、魚釣り覚え書き「萬の覚え」(1835年)。「嬉遊笑覧」(1830年)。以前に紹介したことのある文献もあって、まだまだ他の文献があるが、省略。永田はそれぞれ詳しく紹介し内容を論評している。

日本で釣りのリールについての最も古い紹介が明治9年(1876年)文部省発行「百科全書」の中の「釣魚」(錦織清乃進訳)である。全巻92編の中にある。英国の1859年の百科事典であるから、釣りといえども大部で詳細にわたっている。しかし、永田もあまりにも突飛な出版でどれだけの人が読んだのか。ほとんど無視されただろうと書いている。欧米の釣りとリールが、ともかく文献としては紹介されている。この時代の欧米では近代リールがすでに多数存在していた。これは後日改めて。

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これとは別に、馬遠の有名な「寒江独釣図」があるので、中国の車竿の存在はごくごく一部に知られていただろうが、一般には浸透していなかったはず。以前の当ブログの記事「釣車考」でふれている。

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写真がなかったので上げておく。ウチのどこにその図の本があったのか忘れていた。というか、あまり探さなかった。灯台元暗し。永田のこの本だった。

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東京国立博物館所蔵品で重文。南宋の皇帝関係の所蔵印があるという。26の50という大きさだそうだ。博物館の画像コピーと永田の本の写真である。著作権の関係がどうなのか。独断コピーです。もっとも中国流出有名美術品のひとつに上げられているらしい。ネットでググるとたくさん引用コピーされて紹介されている。さらに今回、杭州関係で調べると、1860年に日本に流出と出てきた。えーえええ。幕末だよ。流出はいったいどういう由来なのか、、、。うーむ。現在のところ謎。しかし、馬遠の伝承作品は南宋以後、日本の室町時代以降に多数輸出されて、日本の水墨画に大きな影響を与えた一人、というらしい。その中のひとつでどこかのお寺に伝えられたのかな、と勝手に思い込んでいた。浸透していなかったはず、どころではない。1860年まで日本にこの図は存在していなかった。

明治中期には釣り関係出版はいくつか出てきた。

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リールに触れているものでは、明治26年の「釣魚新書」(1893年)。この時点で日本製のリール竿が使われていたことが示されている。「(イ)は滑車(くるま)、(ロ)は通常の糸巻きを付したる図なり。(ハ)は専ら独逸にて行はるる釣り竿、、、」

そうだったのか。大正時代の木駒リールと、北海道の農学校クラーク先生あたりが由来のアメリカのリールが最初ではなかったのか、むむむ、うーむ。当の永田も書いていたので、通説だと思っていた。これも後日。

この後は、日本のリールの歴史として、改めて後日続く。いずれにしても長いな。

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2010年12月20日 (月)

先達の磯釣番外、永田一脩その4

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永田の釣りの著作で最も分厚いのが「江戸時代からの釣り」である。1987年新日本出版社発行。

86年11月11日、永田83歳の誕生日にあとがきを書いている。そしてこの本を出した翌年の88年に亡くなった。22年前になる。永田は晩年に至り「日本釣魚史」を後世に残しておこうと考えたのだ。そうしておけば、心ある人が間違いや不備を訂正してくれるだろうと。しかし、日本の古代、中世の釣り資料が不足して、永田には書けないことが明確になったで、「江戸時代からの釣り」とした。と「あとがき」に書いている。しかし、探求の範囲は広く深い。その探求物語でもある。引用原典、参考にした文献資料集はほとんど網羅されているだろう。しかし、500ページを超していて定価は4800円であった。内容からして、また、価格からして、想定読者は残念ながらゴクゴク狭いかも知れないな。現在のところほとんど唯一最良の日本釣魚史であるが、どう見ても、あまり売れるような本ではない。

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だが、この本の内容はまことに充実している。永田が残した代表作といっても良いだろう。あ、

1980年の「巨魚に会う」という本が次点かな。とにかく、「江戸時代からの釣り」には、四方八方なにからなにまで、どこを読んでも、レベルが高い。ネタに困らない。全編が第一級である。話の枕にしたり、あるいは普通に紹介するだけの価値のあるくだりがあふれている。

今回はその中から2点だけ取り出す。

一つは磯釣倶楽部の出発点である。磯釣りは磯で釣るすべてをいう場合と、磯の大物釣りに限っている場合がある。関西では磯の小物釣りもふくめていうようだ。と永田は書いている。昭和のはじめ、以前このブログの「先達の磯釣」で何回か登場した佐藤惣之助や佐藤垢石が磯の大物釣りといわれるイシダイをねらいはじめた。1939年、昭和14年秋、磯の大物釣りの最初の倶楽部である「日本磯釣倶楽部」が発足した。呼びかけ人は大久保鯛生。三谷嘉明と植木重太郎は大久保鯛生に上野山下の翠松園に招かれて参加を要請された。日本磯釣倶楽部会長であり、全磯連初代会長となった三谷は当時を回想して次のように書いている。鯛生は「日本の釣り人の現況のみじめさは、取りも直さず釣り人の経済的な貧困さにあるとし、欧米における釣り人の地位は、その財力の裏付けによって初めて到達したものなり。乞食みたいなカッコして、何で楽しい釣りが出来るものか。俺たちは程度の高い人たちを糾合して程度の高い釣りを目指そうではないか」といった。三谷は「今静かに過去を振りかえって、良きにつけ悪しきにつけ、日磯の盛衰に必ずつきまとって離れない起因、それは(程度の高い)と表現される不可解な言葉のばけものに他ならぬのであった」

うーん。どうでしょう。大久保生は鼻持ちならないと思いつつ、磯の大物釣りでは仕方がないという気持ちも交差する。竿敏は昭和23年ごろ、三谷の指導で磯竿が作られた。三本継ぎの3間竿が最初である。そのころ、永田は毎日新聞のニューヨーク支局長となった同僚の佐倉潤吾にペンのビーチマスターを買って送ってくれるように頼んだ。155番かな。ウチにもある。オーシャンシティーのベイリールを頼んだものもいたという。オリンピックの100ミリでイシダイ釣りをやっていた時代である。昭和26年にはオリンピック51型というベイリールが発売された。ワタクシが磯釣り入門当時、昭和40年代中頃、日本磯釣倶楽部を筆頭とする日本磯釣連合は、当時の全磯連よりも確かに「程度が高かった」という理解をしていた。全磯連と日本磯釣連合は会員の経済的なレベルが違っていた。そもそも磯の大物釣りはある程度の余裕がないとできないという前提がある。それでいて、なおかつ違うのである。それは、全磯連から日磯が割って出て分裂した時に、古い倶楽部ほど、この出発点の色彩を色濃く残していた。その老舗の倶楽部はほとんど日本磯釣連合に集結した。

永田たちは、派手な日本磯釣倶楽部に対して、地味な同和会磯釣部を昭和25年11月に作った。世話人、永田一侑、野口勝弘、室田靖造、山本賢二郎、鮫島宗丸、林謙三、加藤誠一、高橋利雄、青山浩、船橋貞雄など大きな同和会の磯パートが出発である。当時、イシダイだけではなく、冬はハンバブタイ、ノリクシロ、春はウミタナゴやアイナメもやったという。今現在のワタクシがやりたいと思っていて、 昔は好きでやったことのあるレパートリーだ。永田は地味な会だといっているが、臭いが違う。前々回の記事に登場するイソドーの位置と周囲からの評価である。

その後、全磯連結成、全関西分裂、日本磯釣連合分裂となっていくが、いつか改めて。

その二は日本のリールの歴史である。永田の探求を枕として、ワタクシの探求が加わるのでさらに長くなるので、次回に分ける。

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