カメラ写真

2013年7月 4日 (木)

幕末の下田

蓮杖の古写真。
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正面の山並みは寝姿山。右の山は現在ロープウェイが掛かっている。稲生沢川が画面右に流れているはずである。山並みのカーブを探して、同じ角度から撮影してみたいという目標ができた。

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これは逆にロープウェイの山からの撮影。白いところが水で黒いのは中洲だろう。左上にお寺の堂があるが、現在もあのへんにお寺がある。レンズの画角を合わせて、同じ範囲を撮影する。いつか実現したい。釣りでは何回いっているかわからない。下田の温泉ホテルもかなりいっている。その頃、この写真をしっていたら。

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2012年8月16日 (木)

アダプター沼てんまつ・その1


ちょっと専門的なので、さっぱり分からない方、申し訳ない。
シネクセノン。うさぎの耳のピントレバー。ドイツの16ミリシネカメラのアリフレックスは主に記録映画で使われていた。アーノルド&リヒターでアリの名称。そのレンズは昔から知っていた。レンズはシュナイダークロイツナッハとツアイスが少々。もちろん高性能、少量生産、高額。Photo

記録映画の撮影現場を手伝ったことがある。スイスのボレックスは主にハイアマチュアの16ミリ映画に使われていた。アリフレックスとニュース映画用のベルハウエルのフィルモはプロ用である。3本ターレットレンズのフィルモ。なつかしい。腕に社名と報道とかプレスと書いた腕章を付けていた職人だ。大事件が起きると各社のカメラマンと記者が現場にかけつける。スチール写真のスピグラ現役の時代はその前ですから知らない。その当時もアリは価格がまるで違っていた。業務用の独占的な、お顔、というべき精密機器ですから、お値段なんて口に出してはいけない世界。いや、ボレックスもメチャクチャ高価であった。銀座並木通りに専門店があった。8ミリシネ全盛時代でも16ミリは普通のアマチュアの世界ではない。しかし、学生時代、16ミリのボレックスはさわったことがある。スイターとアンジェニーのズームを使った。さわった。うーむ。50年、いや48年前である。あー、もうそんなに過去になったのか。この先はどうみても人生タソガレの一途であるのは仕方がない。
と、、、デジカメの時代になって紆余曲折の末、ミラーレスカメラが出現。このレンズ交換式カメラには過去のレンズ遺産が使えると知った。一眼レフの存在証明というか存立基盤であるミラーを外したので、フランジバックと呼ばれる焦点面からレンズ取り付け位置が短くなった。なんのことか分からない人もいるでしょう。申し訳ない。いや、全般的に分からないかも知れないな。一眼レフ出現以前のレンズ交換式距離計連動カメラと同じスタイルとなった。ライカマウントレンズが使える。コンタックスマウントだって、各社の一眼レフ交換レンズでも使える。そういうアダプターが雨後の竹の子のようにどんどん出てきちゃった。本家のお墨付きはない。フランジバックが長いレンズは使えないが、短い場合は下駄をかませれば良いわけだ。これがマウントアダプターの世界と呼ばれているのだ。こういう世界はアルパというスイスのカメラが源流という知識があればよい。当時はちょっと特殊アウトサイダーの臭いがあった。
そうか、ふーん、これ面白いかも。これはいいなあ。カメラが小さいし。カメラの図体が無駄に大きいと駄目。半年くらい前に、気がついたら入手していた。オリンパスペン。空白の瞬間があった。その時に気を失うのかも知れない。いろいろなことでよくやるのです。あ、女性関係は除く。念のため。マウントアダプターがバタバタと集まってきた。ライカマウント、ペンタックスM42、ペンタックスK、ニコンF。静かに眠っていたそういうレンズたちを多少は持っている。もちろん、処分していないフィルムカメラもそのまま。え、なんでっていわれても50年以上の歴史の結果なので仕方がない。いや、そうだった、亡父の形見のレンズも多少。そして、一本も持っていなかったシネCマウント。
さらに普通ではない重病レベルのアリマウント。ステレオ写真関係と古いリールなどでEBAYはよく使っていましたけど。世界最大のオークション。そこには、お値段を別にすれば、うじゃうじゃある。しかし、数年前、そういうデジカメ出現以前はもっと天国だったそうだ。ワタクシは遅れて来た青年です。まだ、掘り出し物があるはずだ。あるに違いない。うーん、もうほとんどありません。とくにアリはもともとブツが少ない。まあ、当然です。そのかわり目の玉が飛び出るレンズがある。現行テレビカメラに使われているものだったり、35ミリ映画用とか。そりゃそうだよね。
なんだ、なんだ、どうなってしまったのだ。うーん、どうしようかな。レンズとっかえ、ひっかえ、忙しい、忙しい。忙しいったらありゃしない。、なーにレンズなんてガラスだよ。まじめにできないからいい加減に。パソコンに取り込み撮影画素数を落としてネットとなると、やはり、わずらわしい。そのままアップできて簡単で高性能であるiphone、ipadが最強と感じてしまうことも。軟弱だな。しかし、ペンタックスデジ一眼とレンズ数本でおとなしくしていたら、こんなことにはならなかった。ペンタックスのイストdsがさすがに古くなったので、k7が出た時に戦力補強した。その当時は600万画素だったよ。シグマの2.8の標準ズームと、他に300ミリまでの基本というか、標準的な数本の交換レンズでもう十二分ではなかったのか。どうしてこうなったのか。たまたまペンタックスにニコンの交換レンズが使えるアダプターを買ってしまった。普通では不可能だが、アダプターにレンズが入っていて使えるのだ。もっと画質が落ちると思ったら、意外に普通だった。こういう道があるのだなと感心した。
これから先の展開となるとどうなる。それぞれのレンズの特徴とか、なるほど、なるほどというカットを探すのがたいへんだ。だいたい、そういうのがあるか、ないか。撮影できるのか。この先、ゆっくりと進みたい、とだけ。普通の大口径標準ズームだけでよかったのじゃないのかよお、まったくね。あ、しかしながらワタクシ、ほんとうは、DAYS JAPANに共鳴して、東松照明の写真に魅入る人なのです。え、落差あるって、そうかなあ。


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2010年4月18日 (日)

リコーフレックスのコンツールファインダー

発端はシンさんが撮影している二眼レフのリコーフレックスから展開するのだ。この人は変なフィルムカメラを使っている立派な人だ。リンクにある。ストライクエニイホエア。なかなかのおもしろい写真を撮っていて、素晴らしいブログがある。そこではリコーフレックスも使っている。

http://stany.blog39.fc2.com/blog-entry-833.html#comment

また、礼拝堂の二重露光は素晴らしい。古いカメラだから簡単。アイデア発想が非簡単。

http://stany.blog39.fc2.com/page-1.html

なになに、コニオメガとマミヤユニバーサルもか。知る人はすごいと感心するが、残念ながらマイナーカメラと言わざるを得ない。だから良いのだ。コニオメガなぞ、わたくし的に脱帽、土下座だよ。

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リコーフレックスは昭和20年代に大ヒットした大衆カメラだ。どんどんふくらんで長くなるかな。長いよ。読んでも、なんのことやら分からない人が多いだろう。申し訳ない。最高級の二眼レフカメラであるプラナー付のローライフレックスの対極にある。3枚構成のトリプレットレンズ。価格が安いだけでなく、よく写るから売れに売れた大ヒット。わたくしは世代的に少年時代であった昭和30年代後半からのことしか知らないので、この特徴的なギア式リコーフレックスはリアルタイムではなく知識としてしか知らない。しかし、日本写真史に残る歴史的カメラだ。つまり戦後の写真の大衆化に貢献したカメラの代表選手として評価されている。

ストラップを工夫した写真。これを見たら、とにかく実用で使おうとしていることが分かる人にはよく分かる。ネックストラップの形状が特殊でネックなのだ。オリジナルの普及モデルはシャッター100分の1しかないので、セイコーラピッド500分の1付や、ボディシャッター付を探した。バリエーションは恐ろしいほどある。レンズは同じながら、普通に使える。

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いやいや、リコーフレックスのことを書くのじゃなかった。ほとんどの人がリコーフレックスを知らない。コンツールファインダーはさらに知らない。その言葉は知っているという人。合格だ。素晴らしい御仁だ。古くからフォクトレンデルを知っている人も知っている。単体の製品があったからだ。

入手できるコンツールファインダーは、リコーフレックスとフォクトレンデルの外付けが3種類、カロワイド用のコーワ1種しかない。どういうわけだか知らないが、わたくしは全部持っている。でもすぐには出てこない。次回にそのあたりの外付けコンツールを書く予定。ともかく既成観念から遙かに飛んでいる味のあるファインダーであること明白。フォクトレンデルの輝きと同様に賛同して理解する人は少ない。わたくしは感激し、こういうものを生産したことに感動した。

リコーフレックスのコンツールの記事があった。

http://sukimonoya.blog112.fc2.com/blog-entry-6.html

コンツールとはドイツ語で輪郭だ。両眼を使う。片目はスリット、片目は裸眼視野である。そうすると左右融像されて、見事なブライトフレーム付の視野が得られるのだ。

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普通一般のカメラで等倍ファインダーでなくても両目でという流派がある。右目と左目は異なる視野を見ている。等倍でないファインダーは倍率も異なる視野だ。フレームの外も見て、切り取る行為だ。フレームから覗くではなく、フレームを切り取るのだ。フレームの外の動き、さらに、現実につながっているという考え方だ。フレームだけの素通しスポーツファインダーというのはこの考えの直系だ。わたくしは青年時代にこの流派に入った。慣れないと、非常な違和感がある。修行によって慣れても違和感は残る。片目をつぶっていた方が楽だ。中学の理科で教えられた顕微鏡のスケッチがこのやり方の最初の経験だった。理科の先生は当たり前のように指示していた。先生こんなの出来ないよう、、、。ほとんどの人にとってはかなり難しかったと思う。

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もうひとつ、リコーキンもほとんどの人は知らない。そもそもブツが出回っていない貴重品だが、現在では面倒すぎて使うのはちょっとした儀式が必要。

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というのは巻き戻しが不可能なのでダブルパトローネにならざるを得ない。トライX長巻きを使ったことのある人なら簡単。日中可能だ。違う使い方があったのかも知れない。撮影前に巻き込んで、位置を変えて、巻き戻しながら撮影していく。これだとダークバックが必要となる。

ググると、リコーキンの記事があった。http://coto-note.blog.so-net.ne.jp/2009-06-25

この方はご立派だ。この中で無理矢理横にして撮影した作例を覚えておいてください。

リコーキンの他にはローライのローライキンくらいしかない。ライカ判フィルムが使えるようになる。ベストフィルムの4x4用もあったようだ。4x4リバーサルはライカ判と同じ5x5規格のマウントに入りプロジェクターに掛けられるのスーパースライドと呼ばれ、アメリカではかなり需要があった。24の36に対して、40の40だから迫力が違うだろう。というのを読んだことがある。これが4x4二眼レフのヒットした理由だ。44二眼レフというのは魅力的なカメラが少なくないが、すでにベスト判フィルムがない。

これから、少しややこしいことを書く。ライカ判フィルムは縦に送られるからブローニーフィルムつまり66と同じ撮影姿勢では縦位置フレームとなる。普通の横位置フレームにしようとすると、被写体に対して真横を向くことになる。下を向いても、地面平行のラッパ方式でもよい。正対してファインダーを見た場合、二眼レフは左右逆像なのだ。フレームの右を入れようと振ると、反対になってしまうのだ。ではラッパ方式ではなんと天地逆となるのだ。慣れないとどうにもならない。慣れても、どうにもならない。

さて、コンツールファインダーとリコーキン使用の場合はどうなる。これはわたくしが横笛撮影と命名したのだが、なんともすばらしいホールディングとなるのだ。

さきほどの、ボディーシャッターボタンの機種があって、そちらの方が理想的だ。

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リコーキンの横位置撮影のためにコンツールファインダーが必要だったのか。と思いたくなるほどだ。しかし、この姿を見て、周辺の人は後ろに下がるかも知れないな。すべて説明するのはかなり面倒であることはお分かりですな。

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2009年11月 2日 (月)

シンさんのモノクロ写真展

当ブログのリンクにある、ストライクエニイホエア。ちょっと古いフィルムカメラでモノクロ写真を撮っている御仁。15年前だったらこういうモノクロ撮影を敢えてしている人は少しも珍しくなかった。しかし、その時にすでに写真の勉強というか求道の人という感じだった。ネットを見ると、まだまだ、いらっしゃることはいらっしゃる。女性も少なくない。よく見かける。

シンさんとは新目白通りのウチのトイメンにある茶房杏奴で知り合った。アンヌという。ここはブロガーが集まる処のようで、どうも何人もいらっしゃるらしい。リンクにある「気になる下落合」をやっている北沢さんも常連だ。下落合には茶房杏奴ありという有名店かも。先代の喫茶店時代から知っていても、そういうことまでは知らなかった。灯台下暗し。とうだいもとくらしね。「気になる下落合」というブログは建築探訪とか地域文化とか地域現代史いう方面では屈指の内容。驚愕、感嘆、びっくらこいた。へー、下落合にここまでのブログがあるのかと。価値有り、意義有り、心意気有り。固定読者やアクセス数でも屈指だろう。地元の人が感動しないでどうするというレベルで、まさに感動している。これに比べたらワタクシのブログなんざあ子供の遊びだと思った。

Img_4423 さて、ストライクエニイホエアのシンさんのモノクロ写真。ブログを教えてもらって、拝見。これまた立派。ひとことでいうと、まあ、おもしろくて、味がある。少し前まで写真はほとんどモノクロだったわけだが、キレイ、綺麗、整っている、技術も完璧というような写真の対極であった東松照明、森山大道をリアルタイムで見てきた経験がワタクシにはあるのだ。難解であった歴史上の大写真家だ。そういった写真を下敷きにしてしまうと、そりゃ、なにかがすごく足りないが、比較する相手が間違っている。難解というのは、写真に凝縮しようとする重さというのかな、それを見る者に強いようとする奥行きだね。社会や現実と対峙する写真家の緊張関係。こういった写真家には軽さは探してもない。軽妙洒脱なんて、もちろんなかった。その一方でライカ使いのアンリカルチェブレッソン、日本でいえば木村伊兵衛といったタイプの写真家は被写体には激突しない。どちらもライカ使いというところに、何かの意味が分析できるかも知れない。被写体の切り取り方のレベルと決定的瞬間というヤツかね。ここで、完璧に激突しようとした土門拳を挙げておかないと片手オチ。

Img_4424 実は調子に乗ってシンさんに論評してあげるからね、俺のブログに書いてあげる、と言ってしまったのがたたっている。「ごくろうさん、よかったよ、立派だね」と書いても何の役にも立たない。有り難くもないだろう。しかし、短い言葉で核心を摘出することは簡単ではない。力量が必要で、どうしても長くなるのだ。いいかげんな論評にならないようにとなるとなおさらだ。それでもいいかげんなのだが。能力だから仕方がないとして、、、、。

時は流れ、綺麗、キレイという写真ではない分流のひとつは、私写真というようなことになっているらしい。荒木、アラーキーが私小説に対して私写真といっていた記憶がある。私写真を他人が見る。どういうことだろうか。他人が見ることを目的としない写真が持つ内容と意味とは。しかし、場合によっては他人の鑑賞を意識していないわけではない。心象風景だろうか。詩人萩原朔太郎の心象風景のステレオ写真に触れた記事がこのブログの過去ログにあるが、朔太郎だから意味があるのであって、どこにもころがっている人間の平凡な心象では意味が違ってくる。私写真の鑑賞。まず、感情の共感。理解できるという共鳴。軽妙。見ておもしろい。ユニークという切り口。昔は連帯という言葉も重要だった。ポーランドの自主管理労組のワレサ以後は流行らない。平凡が転じて光るということもあるだろう。これがポイントかな。

お散歩写真という範疇や、トイカメラの楽しみという流れもあるらしい。あれもレンズの味ということになるのかな。ロシアカメラね。それからピンホールの世界もある。もちろんステレオ写真もある。写真の座標、、、、大判のアンセルアダムスからファッション写真、ドキュメント系までの座標を論じてもあまり意味がない。その中でシンさんの座標を論じてもという意味だ。その平凡の私写真の切り方。そして、遅れて来た青年かなとご本人と喋ったのだが、すでに青年ではないらしくて、志向性もネットで類似の人達が少なくないことを見ると、遅れているとまでは言えないかも知れない情勢なのかな。シリアル2000番台のバルナックと旧エルマーを使っているような、ワタクシのような人に間違っても遅れているとは言われたくないのは当たり前であろう。

Img_4419 写真展は目白通りのギャラリー喫茶「ピアリッジ」で10月29日から11月10日まで。下落合4-21-16。詳しくはリンクのストライクエニイホエアを見てください。ウチは1丁目ですが、地元下落合ですから、聖母坂を上がって見に行ったわけです。洒落たお店でミニコンサートもできるとか。Img_4420 カウンターの白Tシャツがシンさん。Img_4422

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2009年9月 7日 (月)

明治の有名人、笑子ちゃん

現代の日本人はカメラを向けると、Vサインを出してニコッと笑う。いい大人までがVサインを出すなっていうの、、、。もうひとつは、「撮りますよ、はいチーズ」が浮かぶ。石黒敬章によれば、日本では昭和38年の雪印乳業のテレビCMからこれがはじまった。アメリカでSay Cheeseといって写真を写す習慣があることを利用したのだが、たちまち日本に普及浸透した。だそうだ。

ところで、以前に紹介した石黒敬章の「幕末明治のおもしろ写真」には第1章「笑う写真のルーツを探る」がある。これがたいへんおもしろい。

Img_4347 古い時代ほど、写真館で写真を撮ることは厳粛であった。厳粛でなければ高価な写料を取れない。写真師から「動かないで、はい、撮ります」といわれる。ほとんどの人は立派に撮って貰いたいと思う。日常ではないハレの場面である。これでは笑えない。

明治時代には笑う写真はほとんどない。写真の初期湿板時代の露光は数十秒。高速乾板が普及して数分の一秒となったのが明治中期。そうなっても笑った写真はほとんどない。笑っている写真で、研究者コレクターである石黒が幕末から明治初期で知っているのは下岡蓮杖による幕末の町医者からはじまって9点くらいしかないという。

「笑う写真を日本人に根ずかせることに寄与した最大の功労者は笑子ちゃんである」と石黒は書いている。「笑子ちゃんは横浜写真に相当数含まれている。様々なポーズで笑っている笑子ちゃんが、世界中に流布したのである」

石黒は次のようにまとめている。

     明治二十から三十五年 横浜写真に笑子ちゃん登場。

     明治三十八から四十五年 絵はがきに笑子ちゃん再登場(コロタイプ印刷手彩色)

     そのころ、笑子ちゃん以外の笑う芸者絵はがきが販売される。

     大正時代、笑う美人絵はがきがオフセット印刷で量産される。笑って記念撮影することがやっと普及する。

なるほど、よく分かりました。さすが石黒敬章と感心いたしました。それでも戦後の写真館で、笑うと諫められたという。戦前の写真館ではほとんど笑っていないそうだ。

Img_4328 Img_4325 石黒は笑子ちゃんと命名したのだが、どこの誰だか分からない。撮影した写真師も分からない。笑子ちゃんの絵はがきは横浜写真から焼き直しされて、40から50種類くらいあるそうだ。石黒は20種類くらい見ているとか。「幕末明治のおもしろ写真」に掲載されている。絵はがきが主で横浜写真は僅かだろう。現代でいえば、超人気モデル。多分芸者だった女性。横浜写真というのは普通の日本人は見ていないので、その後のコロタイプ印刷の絵はがきによって、笑う笑子ちゃんの写真を多くの人がはじめて見たわけだ。ちなみにオフセット印刷の発明は1904年だそうだ。コロタイプ印刷の笑子ちゃんを見たのだ。

Img_4327 わたくしは、コロタイプ印刷という言葉は知っていたが、どういうものなのか、もうひとつよく分からなかった。一般常識としてガラスの写真版をそのまま刷版にするというくらいのことしか知らなかった。そんなことで、どうして印刷できるのか、分からなかった。網点がなく連続した階調だという。どうしてインクが、、、紙に刷れるのだろう。コロタイプ写真版制作。複写写真版には現像感光液にゼラチンを混ぜていて、写真版の表面に微細なチリメン状のしわができるらしい。そこのしわにコロタイプインクを塗布して紙に印写する。耐久性のある特殊インキらしい。なるほど、やっと分かった。昔はほとんど単色インクで、カラーとなると手彩色だった。しかし、カラー別の写真版を作り多色インクを使えばカラー印刷となる。カラー分解なんて無かった時代では職人が経験で色版を作っていたのだろうか。欠点としてゼラチンのしわの耐久性がなかったらしい。それで大量印刷は無理。数千枚刷れたのかどうかとある。現在でもコロタイプ印刷はごく僅かだが技術が残っている。有名なコロタイプ印刷所の絵はがきもあるそうだ。京都の便利堂という老舗だ。深みのあるカラー印刷らしい。普通のカラー印刷では凸版の原色印刷とオフセットカラー印刷。これはなんとなく分かる。コロタイプは活版やオフセットに追われて、すぐに廃れてしまったのだ。

Img_4330 というところで、昨年、EBAYで日下部金兵衛の横浜写真を漁っていたら、笑子ちゃんがあった。おう、これだ。石黒敬章が紹介している女性だ。届いたら、横浜写真のアルバムの大きさではなく、小さい。絵はがきサイズだった。コロタイプ印刷かなと思ったが、表にも裏にも絵はがきの、「え」もない。手彩色の鶏卵紙だ。しかし、手彩色があまり良くない。はみだしが盛大だ。日下部金兵衛の素晴らしい手彩色とは段違いだ。こういうものが、アメリカにいっていたのだと思うと不思議だ。アルバムサイズの笑子ちゃんの微細手彩色が欲しいところだが、高価だろうな。それ以前にまず出ないだろう。あきらめるしかない。コロタイプ絵はがきならどこかにありそうだが、お目に掛かっていない。石黒がいうほど大量にあるのだろうか。疑問だ。

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2009年8月 6日 (木)

東松照明写真集 11時02分 NAGASAKI

Img_4325 Img_4326 夏になると、マスコミは原爆特集、そして8/15の終戦特集をやる。夏と結びついていて、身体にしみ込んできた夏のイメージの一面だという人があった。夏には反戦が浮上するのならば良いのじゃないかな。希薄になって、忘れられるということがないように祈りたい。

Img_4327 東松照明は日本の代表的写真家。「11時02分 NAGASAKI」は昭和41年8月1日に発行された。彼の最初の写真集。あまりにも有名だから説明は不要だろう。

Img_4328 その後、1995年6月に新潮社から、普及改訂版というべき、「長崎<11:02>1945年8月9日」(2000円)が出た。こちらは現行に近いので、知っている人、持っている人は少なくないだろう。新しく収められた写真も多い。腰巻きには<戦後写真史の金字塔 被爆地・長崎を重層的にとらえた傑作写真集を新編集復刻!!>とある。

子供のころ、土門拳の「ヒロシマ」とか「筑豊のこどもたち」があった。すぐに捨てられてどっかにいってしまった。残念。

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2009年8月 4日 (火)

F・ベアトその1

日本の写真黎明期の巨人ベアト。わたくしには幕末の写真というだけで価値があるのだが、現在から普通に見ても優れた写真、立派な写真が多いと思う。だがしかし、ベアトは日本の写真の歴史のスタートからすると遅れて日本にやってきた写真家である。すでに、外国からやってきた写真師と少数の日本人のパイオニア写真師が活躍していた。それでも当時の日本の写真界では、ベアトが芸術的センスや技術において他に優越していたというのが定評だろう。日本にやってくるまでの経緯は、その筋ではよく知られているので省略。

Img_4325 ベアトの写真集では横浜開港資料館による編集で明石書店が刊行した三部作がある。最初に1987年12月に出た、「幕末日本の風景と人びと フェリックス・ベアト写真集」(本体4000円+税)。これはハードカバー本。そしてその後、2006年7月、同じ内容に一部加筆訂正した新装版「F・ベアト写真集1」(2800円+税)を出版。軽装復刻版に近い。これに数ヶ月先立つ2006年4月に写真集1とは重複しない写真を収録し、その後に判明した研究成果解説のある「F・ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」が刊行されている。出版の順番が前後していて、2が先に出て1が出たわけだ。最初の87年版を持っていたが、新しいベアト写真集1と2を購入した。ベアトは、有無を言わせないだけの価値がある。ベアトのセンスによって日本の美しい原風景の最後の姿と、その時代の幕末明治の日本人が切り取られ、見事に静止して生きているからだ。これから西洋文明が浸透して、消化していかなければならなくなる時代だ。

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ベアトの略歴を新装版カバー裏の紹介文から引用する。

<イギリス領コルフ島(イオニア海の島、現在はギリシャ領)の出身。報道写真家としてクリミア戦争、インド大反乱(いわゆるセポイの乱)、中国のアロー合戦争等を取材し、文久3年(1863)春に来日した。横浜を拠点に幕末明治の数年間、精力的に各地の風景や日本人の風俗・習慣を撮影するとともに、元治元年(1864)下関戦争に従軍、芸術性豊かな風景写真や彩色を施した風俗写真を生み出し、日本に於ける写真表現の源流を形成した。明治17年(1884)離日。晩年はビルマ(現在のミャンマー)で写真館や骨董店を経営していたが、没年は不明。>

ベアトのアルバムと個別写真を多数所蔵する横浜開港資料館の斉藤多喜夫がベアト研究では第一人者。ベアトは横浜で活躍し、いわゆる横浜写真の源流であるからだ。この人による87年版と06年版の解説がほとんど唯一の定番となっていると思われる。生年は1834年と判明して旧説と9年の違いが明らかになったそうだ。イギリス領となっていた元ベネツィア領民である。イタリア系のイギリス人だ。コルフ島はイタリアから地中海をギリシャに近い位置にある。兄のアントニオ・ベアトは1864年に有名なエジプトのスフィンクスに並ぶサムライを撮影した。幕府第二次遣欧使節団の姿である。兄はエジプトでサムライの写真を撮っていたのだ。当ブログの以前の記事でも触れている。島を出て海外で生きようという心を持った兄弟だ。その時代に発明され普及しだした写真を拠り所というか生きる糧として。この時代を考えても、うらやましい生き方だ。やっと、民間人が、目的があれば世界を移動できるという時代になった。その手段は蒸気機関外輪動力付きの帆船という時代だろう。日本では黒船出現という船の時代。地中海に生まれた人間には古代フェニキアの時代から海外雄飛は珍しくないという精神を持っていたのだろう。つまり海を越えて航海すれば異国に着くのが当たり前。そういう血を持ったベネツィア人だったのだろう。いいねえ。ベアトはイタリアの陽気な性格と社交性を持っていたそうだ。

新しく発明された写真の持つ驚きの能力。世界を旅行し撮影した写真家はその写真の威力を実現し、ニーズに応えた。この時代の世界を旅した写真家は少なくないだろう。欧米先進国には遠い異国、アジア、中東、アフリカの写真にはニーズがあっただろう。ところが、ベアトは30歳から50歳まで日本に居着いてしまった。イタリア人らしい社交的な性格で、テニスとボウリングを趣味とし、横浜山手居留地の建て売り住宅不動産業、横浜グランドホテル開業オーナーの一人。アメリカの朝鮮遠征隊に同行。絹の商売、絨毯の輸入。銀相場で大資産を作り、米相場で失敗。スッカラカンとなった。と新書館の「世界の写真家101」(1997年・本体1800円+税)にベアトが出ていて、大島洋が書いている。銀相場と米相場はよく知られているが、他の経歴はビックリだった。ともかく、ここではベアトは歴史上の名だたる写真家の中に名を連ねている。

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2009年7月20日 (月)

日下部金兵衛その2

Imgp5840 平成18年7月、「明治時代のカラー写真の巨人 日下部金兵衛」が刊行された。著者は中村敬信。国書刊行会で3800円。昨年池袋の古本屋で新本をたまたま見つけて読んだ。立教大学のそばの有名店でまだ数冊あった。素晴らしい。中村敬信は古事記や日本書紀の研究書がある国文学者である。実は奥さんが金兵衛の曾孫である。丹念に金兵衛の足跡をたどり、不当に知られていなかった日下部金兵衛の業績を正しく評価しようとしている労作だ。金兵衛研究では第一人者だろう。中村は日下部金兵衛、小川一真、鈴木真一、玉村康三郎を正しく評価していない写真史家を強く批判している。とくに小沢健志が「日本の珍奇な風俗を撮影したスーべニール用アルバム」と断じているくだりで、ハラキリ、ジンリキシャが外国人から見たときに珍奇であったろうというのなら許せるが、そのような写真を撮る写真家を卑しめていると批判している。日本では珍奇ではないとして、外国から見て珍奇だといって、卑下しているのではないかと。二十冊を越える金兵衛アルバムを一冊すら見ていない、と断罪している。日下部金兵衛を知らないのか無視をきめこんでいるのだと。だいたい写真史主流は彩色写真をあまり評価しない傾向がある。ちなみに、玉村が彩色写真アルバムではもっとも多く生産したらしい。

Imgp5843 Imgp5844 掲載されている金兵衛写真は多いが、富士山の帆掛け船などはバランス最高、美意識がすみずみまで張り巡らされている。冬の衣装の女も全体が見事に締まっている。表紙の、ひそひそおしゃべりをする二人の娘。なんでもないように思えるが、それまで、このような写真を撮ることがなかった。いや、写真師は思いつかなかったのだ。金兵衛の風景写真はどれも見事に人を配している。その人物が効果的に効いている。

Imgp5841

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=44001

ここで金兵衛の漆塗り蒔絵作りのいわゆる横浜写真アルバムを見ることができる。海外向けに販売したため、日本国内にアルバムが保存されることは少なかったという。しかし、彩色写真で第一人者として成功して財をなしたので、当時の日本の写真界ではこの人ありと知られていた。しかしその作品はほとんど忘れられていた。日本写真協会が昭和46年に編集刊行した「日本写真史」には金兵衛の名はない。だが、少なくとも金兵衛撮影の写真が13枚以上掲載されている。すべて作者不詳とされている。一人の写真家が13枚も掲載されているのはバランスから異常である。その理由は金兵衛の写真が持っている力であり優れた写真だからだろう。

金兵衛の再発見、再評価。1979年ニューヨークのペンウイック社から写真集「JAPAN」が刊行され、金兵衛の作品が31点掲載されていた。日本から見るとショックだっただろう。その後、欧米から横浜アルバムを含めて、古写真を逆輸入することになり、今日に至る。日本には横浜アルバムがほとんどなかったからだ。

長崎大学の写真データベースには金兵衛の写真が353件あり、ネットで見ることができる。他にも、日下部金兵衛でググるとたくさん出てくる。

http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/list.php?req=1&target=Kinbei

日本の写真の草創期写真師として、ベアト、下岡蓮杖、上野彦馬の名前は必ず挙がる。日下部金兵衛はベアトの撮影助手として下働きをして、また写真に彩色の筆を入れて、修行をした。ベアトから受け継いだ、見る人を打つ写真作りの直感がある。浮世絵の構成感覚が江戸時代の日本にはすでにあり、通じるものがあったと思う。江戸時代の職人が到達していた審美眼のレベル。だから外国でも金兵衛は通用したのだ。金兵衛の写真が高く評価されていたのだろう。

横浜写真が衰退を迎えたのは、絵はがきの出現が主因である。それは明治30年代終わりころ。明治33年(1900年)に郵便法が改正され、官製葉書のみから私製葉書が許可された。コロタイプ印刷で写真印刷が可能となった。明治37年ころから大ブームとなったそうだ。そして、写真家としての原作者に無断で複製販売が横行したとある。以前の記事でも触れたが、明治9年写真条例によって写真著作権が保護されたが、たったの5年間である。

Imgp5846 Imgp5839 Imgp5835 Imgp5836 金兵衛のアルバムはそれぞれ、カタログに写真のタイトルとナンバーが振られている。中村は中村は金兵衛アルバムで日本に現存するものは、23冊しかないと調べている。ほとんどが、博物館、美術館、大学だ。東京都写真美術館にも1冊しかない。外国にはもっとあると思われる。アメリカのネットオークションEBAYでは、たまにバラ売りの彩色金兵衛、KIMBEIが出る。ウチにもあるくらいだから探せば見つかる。しかし、アルバムはまず出ない。金兵衛ではない横浜アルバムでも高価だった。昔見たのは20万か30万くらいだったと思う。金兵衛はどのくらいになるのか知らない。金兵衛の一枚写真ではピンからキリ。良い図柄で4万くらい。安いのが5千円かな。ウチにあるのはアルバム時代の厚紙に鶏卵紙が貼られているものと、鶏卵紙だけはがしたタイプ。バラバラにされた一枚である。

http://www.meijitaisho.net/toa/kusakabe_kimbei.php

ここにも古写真の紹介があり金兵衛がいる。さがせばもっとある。

http://fukashigimusic.web.infoseek.co.jp/daki_photo.html

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日下部金兵衛その1

0609a098 明治の彩色写真ではこの人の右に出る人はいない。といっても知る人は少ない。彩色写真とは。レレレレ、なにそれ、、、だろう。日本写真初期の巨人。彩色技術が素晴らしい写真だ。現在のカラー写真以上のしっとりした写真というべき。高度な色差し絵付けの技術。このような色彩工芸技術、色彩感覚の冴えというものは、すでに江戸時代の日本社会には伝統があったことは確かだ。浮世絵の色と構成しかり。きものの京友禅の色の対比や上品な色使い。さらに磁器焼き物の色。美術高級品から実用品まで、ありとあらゆる繊細工芸の伝統と水準。それは日本の文化だ。渋い色、一歩引いた色は当時の欧米の感覚を抜いている。日本人が美しいと考えるもの、粋だと考えるものの感覚レベルの問題だろう。

0609a093 江戸時代の日本人の審美眼。当時の欧米世界の列強諸国が驚くようなレベルだったのだろうと思う。その基礎水準から彩色写真の高度なレベルまで僅かな一歩で届くだろう。

見る人の心を打つ写真というものは、ただ露光すればそれが写っているというものではない。そこが写真家のよって立つところだ。被写体をどのように切り取るかという感覚。そしてそれを効果的に実現する写真技術だ。その意味で見ても写真家としてベアトは優れていた。金兵衛はベアトの使用人として、弟子として奉公して、その後、独立開業した。開業の経緯はいろいろあるが省略。奉公する以前に焼き物の絵付けの内職仕事をやっていた経験があるという。ベアトは明治元年(1968年)にアルバム「ネイティブ・タイプス」という日本の風俗写真集を出した。ベアト最初の彩色写真集らしい。女性の彩色写真があり、金兵衛が絵付けをこなしたらしい。繊細な手先の器用さと、試行錯誤の工夫もしたのであろう。

2494892753_b611f06d36 2366 1832 当時の写真絵付け職人の仕事の様子の写真をいくつかみることができる。京友禅の手差しの様子にそっくりだ。被写体を的確に切り取り、高度な絵付けをする。優れた写真と必ずしもイコールではないが、お金の取れる写真といってもよい。評価される写真というのが的確かも。

しかし、日下部金兵衛は日本写真史からは不当に無視されていた。金兵衛の写真は主に海外向けの高価なお土産であり、特殊な輸出品でもあったからだ。石黒敬章によると今の貨幣価値では一冊50万円、明治10年代から30年代まで、何十万冊も輸出されたらしいとある。当時の外国通貨側からみて、職人芸による手間のかかった価値からすると、びっくりするくらい安かったから売れたのだろう。今ならば、いい仕事してますねという。日本の貨幣価値が圧倒的に安かった時代である。明治の貿易の内容はいろいろあったのだろうが、それが日本の近代化を支えた重要性はいうまでもない。写真は複製芸術でもある。大量生産が可能だ。そのアルバムは横浜写真と呼ばれる。横浜写真という言葉は知る人は知る。個々の秀作の着色写真は知られていたのに、撮影者不詳とされていたのが多い。フジヤマ、ゲイシャといった海外向け低俗写真という先入観による評価もあるだろう。外国人は喜んでも、日本人がフジヤマ、ゲイシャを見るとウンザリするということだろう。たしかに、有象無象による追随者がいて、低俗なフジヤマゲイシャが大量生産されたと思う。二流、三流の横浜写真が何十万冊の中にたくさん存在するのではないかと想像する。

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2009年7月 4日 (土)

露出計 光学式

こんな露出計を知っている人。ほとんどいない。日本語でググっても、詳しいのはない。しかし、欧米にはある。日本製の光学露出計がないかと調べたが、わたくしのレベルでは、というべきかわたくしのレベルでもというべきか、見たことも聞いたこともない。どうも生産されていなかったようだ。戦前のカメラ雑誌の広告をすべて調べたわけではないので断言はできない。で、知っている人が少ないから、これを面白いと思う人も少ない。いやほとんどいない。クラシックカメラファンのごくごく一部の人にいらっしゃるかどうか、というレベルである。竹の石鯛竿の竿敏のレベルをはるかに凌ぐ。こちらは神様仏様竿敏様と信奉する方がいらっしゃるかも知れないのだ。

光学式露出計の原理とは。被写体に向けた、段階的濃淡の指標スケールを読み取って明るさを計測するというもの。明るいものは、かなり濃いフィルターを通しても見えるという次第だ。透過する光量の違いを判別する。透過光が見えなくなるのを読み取るのだ。

現行商品、またはそれに近いものとして入手できるのは、ロシアのOPTEKだ。光学露出計でググると使用記がいくつか出る。ロシア光学製品マニアという方は少なくないのだ。

http://cccpcamera.photo-web.cc/RussianCamera/OtherGoods/ROSHUTSU/Optek/Optek.htm

http://cccpcamera.photo-web.cc/RussianCamera/OtherGoods/ROSHUTSU/Optek/OPTEKManual/Optek2.htm

実はEBAYで、初代の入射光露出計ノーウッドを漁っていたら、格安OPTEKがたくさん目に入った。なぜか、気がついたら一番安いのを注文していた、、ああ、あ、、、。だが送料含めて千円、二千円程度。しかし、ロシアからまだ届いていない。以前のコピーコンタックスの経験では一ヶ月以上かかる。

Optek03 あるネットのページにあったOPTEKの写真を一枚勝手に使わせていただく。フィルム感度はロシア規格でGOSTという。これはISOの90%だということを知って感度設定すれば、意外にちゃんと使えるらしいのだ。

次は外国の露出計のコレクションのページ

http://www.jollinger.com/photo/meters/meters/balda_expophot.html

かなり以前にこれを見つけて仰天いたしました。歴史的セレン式露出計も出ております。世界には凄い人がいる。光学式となるとBertramSuper Bewi PrecisionPhoto Utilities (DREM)InstoscopeBaldaExpophotZeiss/IkonDiaphot。他に光学読み取り式色温度計とか、テスト印画紙を使ったもっと古い露出計などもあります。

Watkinsbee Watkins Bee meterという美しい懐中時計スタイル。Diaphotに似ています。

で、ここで問題はですね、、、なぜか、こういう光学式露出計のいくつかが、手元にあるのです。なんと、それは凄いねとおっしゃってくださる方、まさかいらっしゃらないでしょうね。どうしてこういうことになったのか。昔、クラシックカメラに萌えていたとき、ライカメーターと呼ばれていた、バルナック時代の光学露出計を見つけて入手しました。原理を知っていましたので、手に取り、これがそうなのか、なるほどね、ちゃんと濃淡が見える、おもしろいなあと思った。え、普通は思わなだろうってですか。まあ、そうおっしゃらずに、、、。

Img_4327 Super Bewi Precisionは今でも使えます。これが通称ライカメーターと呼ばれた露出計です。1930年発売。この呼称はライツ社と提携関係にあったからのようです。表記はドイツ語。ドイツ国内向けのようです。横っ腹のバレルにBewi-Spezial-Modell fur die Leica-Kameraと記されています。シャイナー感度しかありませんが、どうもアメリカ感度のようで、しかも、コダックSSの修正指標があります。昔は高感度フィルムなんて普通ではないので、最大指標がシャイナー27度で、つまりASA100です。単眼鏡スタイルですが、使用者に合わせてピント調節ができます。

Img_4332 この単眼鏡を覗くと、昔の電話ダイヤルが見える。数字が消えたところギリギリを読み取る。コレクションページのJames Ollingerはバレルのプリントの海にも拘わらず、Drem Instoscopeより使いやすいといっている。同感。まさに細かい文字の海だ。現行の露出計と比較してみました。だいたい合っている。

このシャイナー感度の換算表は次のページにあります。シャイナーの話は後日。

http://homepage3.nifty.com/doggo/exposuremeter/kando.htm

Img_4330 Img_4333 1937年発売のDrem Instoscopeは使えない。換算がうまくいかないのです。最大感度はシャイナーの31度ですが、どうもおかしい。ヨーロッパシャイナーでもアメリカシャイナーでも合わないのです。現在のところ謎です。

Img_4328 Img_4329 次は、1921年から1934年まで販売された、Zeiss/IkonDiaphot。美しい。日本のオークションでもよく出ます。フィルム感度の設定はない。ということは最初から特定感度に設定されている。どうもISOで50くらいと思われる。その感度でのライトバリューの絞りとシャッターの組み合わせが表示されるように単純化されている。ツアイスイコン企業合同の前の時代のイカ社製だったそうだ。イカ社は有名ですから知る人は多いでしょう。

このページを見ると仕組みがよく分かる。

http://www.lungov.com/wagner/c/074c.html

Img_4335 Img_4337 Img_4336 最後は箱入りのJUSTOPHOTというもっと古い光学式露出計。ウイーンが発祥のようで、ドイツはフランクフルト。モデルDと記されていて、シリアルナンバーは266326。26万代だが、そのまま生産量とは限らない。わたくしでも、使用方法がよく分からないのだ。設定クリックには、なんと2m、8sec、1/5 、1/25 。と4種類が出る。どう見ても、2分と8秒と5分の1秒、25分の1秒。なんだこれは。乾板時代か。単眼鏡の中にも同じ表示が濃淡で出る。おもしろいことがひとつ。DREMという名前は知る人は知る。これは、Dr.E.Mayerというウイーンの人から由来している。この人がパテントを取った。

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