カメラ写真

2009年11月 2日 (月)

シンさんのモノクロ写真展

当ブログのリンクにある、ストライクエニイホエア。ちょっと古いフィルムカメラでモノクロ写真を撮っている御仁。15年前だったらこういうモノクロ撮影を敢えてしている人は少しも珍しくなかった。しかし、その時にすでに写真の勉強というか求道の人という感じだった。ネットを見ると、まだまだ、いらっしゃることはいらっしゃる。女性も少なくない。よく見かける。

シンさんとは新目白通りのウチのトイメンにある茶房杏奴で知り合った。アンヌという。ここはブロガーが集まる処のようで、どうも何人もいらっしゃるらしい。リンクにある「気になる下落合」をやっている北沢さんも常連だ。下落合には茶房杏奴ありという有名店かも。先代の喫茶店時代から知っていても、そういうことまでは知らなかった。灯台下暗し。とうだいもとくらしね。「気になる下落合」というブログは建築探訪とか地域文化とか地域現代史いう方面では屈指の内容。驚愕、感嘆、びっくらこいた。へー、下落合にここまでのブログがあるのかと。価値有り、意義有り、心意気有り。固定読者やアクセス数でも屈指だろう。地元の人が感動しないでどうするというレベルで、まさに感動している。これに比べたらワタクシのブログなんざあ子供の遊びだと思った。

Img_4423 さて、ストライクエニイホエアのシンさんのモノクロ写真。ブログを教えてもらって、拝見。これまた立派。ひとことでいうと、まあ、おもしろくて、味がある。少し前まで写真はほとんどモノクロだったわけだが、キレイ、綺麗、整っている、技術も完璧というような写真の対極であった東松照明、森山大道をリアルタイムで見てきた経験がワタクシにはあるのだ。難解であった歴史上の大写真家だ。そういった写真を下敷きにしてしまうと、そりゃ、なにかがすごく足りないが、比較する相手が間違っている。難解というのは、写真に凝縮しようとする重さというのかな、それを見る者に強いようとする奥行きだね。社会や現実と対峙する写真家の緊張関係。こういった写真家には軽さは探してもない。軽妙洒脱なんて、もちろんなかった。その一方でライカ使いのアンリカルチェブレッソン、日本でいえば木村伊兵衛といったタイプの写真家は被写体には激突しない。どちらもライカ使いというところに、何かの意味が分析できるかも知れない。被写体の切り取り方のレベルと決定的瞬間というヤツかね。ここで、完璧に激突しようとした土門拳を挙げておかないと片手オチ。

Img_4424 実は調子に乗ってシンさんに論評してあげるからね、俺のブログに書いてあげる、と言ってしまったのがたたっている。「ごくろうさん、よかったよ、立派だね」と書いても何の役にも立たない。有り難くもないだろう。しかし、短い言葉で核心を摘出することは簡単ではない。力量が必要で、どうしても長くなるのだ。いいかげんな論評にならないようにとなるとなおさらだ。それでもいいかげんなのだが。能力だから仕方がないとして、、、、。

時は流れ、綺麗、キレイという写真ではない分流のひとつは、私写真というようなことになっているらしい。荒木、アラーキーが私小説に対して私写真といっていた記憶がある。私写真を他人が見る。どういうことだろうか。他人が見ることを目的としない写真が持つ内容と意味とは。しかし、場合によっては他人の鑑賞を意識していないわけではない。心象風景だろうか。詩人萩原朔太郎の心象風景のステレオ写真に触れた記事がこのブログの過去ログにあるが、朔太郎だから意味があるのであって、どこにもころがっている人間の平凡な心象では意味が違ってくる。私写真の鑑賞。まず、感情の共感。理解できるという共鳴。軽妙。見ておもしろい。ユニークという切り口。昔は連帯という言葉も重要だった。ポーランドの自主管理労組のワレサ以後は流行らない。平凡が転じて光るということもあるだろう。これがポイントかな。

お散歩写真という範疇や、トイカメラの楽しみという流れもあるらしい。あれもレンズの味ということになるのかな。ロシアカメラね。それからピンホールの世界もある。もちろんステレオ写真もある。写真の座標、、、、大判のアンセルアダムスからファッション写真、ドキュメント系までの座標を論じてもあまり意味がない。その中でシンさんの座標を論じてもという意味だ。その平凡の私写真の切り方。そして、遅れて来た青年かなとご本人と喋ったのだが、すでに青年ではないらしくて、志向性もネットで類似の人達が少なくないことを見ると、遅れているとまでは言えないかも知れない情勢なのかな。シリアル2000番台のバルナックと旧エルマーを使っているような、ワタクシのような人に間違っても遅れているとは言われたくないのは当たり前であろう。

Img_4419 写真展は目白通りのギャラリー喫茶「ピアリッジ」で10月29日から11月10日まで。下落合4-21-16。詳しくはリンクのストライクエニイホエアを見てください。ウチは1丁目ですが、地元下落合ですから、聖母坂を上がって見に行ったわけです。洒落たお店でミニコンサートもできるとか。Img_4420 カウンターの白Tシャツがシンさん。Img_4422

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2009年9月 7日 (月)

明治の有名人、笑子ちゃん

現代の日本人はカメラを向けると、Vサインを出してニコッと笑う。いい大人までがVサインを出すなっていうの、、、。もうひとつは、「撮りますよ、はいチーズ」が浮かぶ。石黒敬章によれば、日本では昭和38年の雪印乳業のテレビCMからこれがはじまった。アメリカでSay Cheeseといって写真を写す習慣があることを利用したのだが、たちまち日本に普及浸透した。だそうだ。

ところで、以前に紹介した石黒敬章の「幕末明治のおもしろ写真」には第1章「笑う写真のルーツを探る」がある。これがたいへんおもしろい。

Img_4347 古い時代ほど、写真館で写真を撮ることは厳粛であった。厳粛でなければ高価な写料を取れない。写真師から「動かないで、はい、撮ります」といわれる。ほとんどの人は立派に撮って貰いたいと思う。日常ではないハレの場面である。これでは笑えない。

明治時代には笑う写真はほとんどない。写真の初期湿板時代の露光は数十秒。高速乾板が普及して数分の一秒となったのが明治中期。そうなっても笑った写真はほとんどない。笑っている写真で、研究者コレクターである石黒が幕末から明治初期で知っているのは下岡蓮杖による幕末の町医者からはじまって9点くらいしかないという。

「笑う写真を日本人に根ずかせることに寄与した最大の功労者は笑子ちゃんである」と石黒は書いている。「笑子ちゃんは横浜写真に相当数含まれている。様々なポーズで笑っている笑子ちゃんが、世界中に流布したのである」

石黒は次のようにまとめている。

     明治二十から三十五年 横浜写真に笑子ちゃん登場。

     明治三十八から四十五年 絵はがきに笑子ちゃん再登場(コロタイプ印刷手彩色)

     そのころ、笑子ちゃん以外の笑う芸者絵はがきが販売される。

     大正時代、笑う美人絵はがきがオフセット印刷で量産される。笑って記念撮影することがやっと普及する。

なるほど、よく分かりました。さすが石黒敬章と感心いたしました。それでも戦後の写真館で、笑うと諫められたという。戦前の写真館ではほとんど笑っていないそうだ。

Img_4328 Img_4325 石黒は笑子ちゃんと命名したのだが、どこの誰だか分からない。撮影した写真師も分からない。笑子ちゃんの絵はがきは横浜写真から焼き直しされて、40から50種類くらいあるそうだ。石黒は20種類くらい見ているとか。「幕末明治のおもしろ写真」に掲載されている。絵はがきが主で横浜写真は僅かだろう。現代でいえば、超人気モデル。多分芸者だった女性。横浜写真というのは普通の日本人は見ていないので、その後のコロタイプ印刷の絵はがきによって、笑う笑子ちゃんの写真を多くの人がはじめて見たわけだ。ちなみにオフセット印刷の発明は1904年だそうだ。コロタイプ印刷の笑子ちゃんを見たのだ。

Img_4327 わたくしは、コロタイプ印刷という言葉は知っていたが、どういうものなのか、もうひとつよく分からなかった。一般常識としてガラスの写真版をそのまま刷版にするというくらいのことしか知らなかった。そんなことで、どうして印刷できるのか、分からなかった。網点がなく連続した階調だという。どうしてインクが、、、紙に刷れるのだろう。コロタイプ写真版制作。複写写真版には現像感光液にゼラチンを混ぜていて、写真版の表面に微細なチリメン状のしわができるらしい。そこのしわにコロタイプインクを塗布して紙に印写する。耐久性のある特殊インキらしい。なるほど、やっと分かった。昔はほとんど単色インクで、カラーとなると手彩色だった。しかし、カラー別の写真版を作り多色インクを使えばカラー印刷となる。カラー分解なんて無かった時代では職人が経験で色版を作っていたのだろうか。欠点としてゼラチンのしわの耐久性がなかったらしい。それで大量印刷は無理。数千枚刷れたのかどうかとある。現在でもコロタイプ印刷はごく僅かだが技術が残っている。有名なコロタイプ印刷所の絵はがきもあるそうだ。京都の便利堂という老舗だ。深みのあるカラー印刷らしい。普通のカラー印刷では凸版の原色印刷とオフセットカラー印刷。これはなんとなく分かる。コロタイプは活版やオフセットに追われて、すぐに廃れてしまったのだ。

Img_4330 というところで、昨年、EBAYで日下部金兵衛の横浜写真を漁っていたら、笑子ちゃんがあった。おう、これだ。石黒敬章が紹介している女性だ。届いたら、横浜写真のアルバムの大きさではなく、小さい。絵はがきサイズだった。コロタイプ印刷かなと思ったが、表にも裏にも絵はがきの、「え」もない。手彩色の鶏卵紙だ。しかし、手彩色があまり良くない。はみだしが盛大だ。日下部金兵衛の素晴らしい手彩色とは段違いだ。こういうものが、アメリカにいっていたのだと思うと不思議だ。アルバムサイズの笑子ちゃんの微細手彩色が欲しいところだが、高価だろうな。それ以前にまず出ないだろう。あきらめるしかない。コロタイプ絵はがきならどこかにありそうだが、お目に掛かっていない。石黒がいうほど大量にあるのだろうか。疑問だ。

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2009年8月 6日 (木)

東松照明写真集 11時02分 NAGASAKI

Img_4325 Img_4326 夏になると、マスコミは原爆特集、そして8/15の終戦特集をやる。夏と結びついていて、身体にしみ込んできた夏のイメージの一面だという人があった。夏には反戦が浮上するのならば良いのじゃないかな。希薄になって、忘れられるということがないように祈りたい。

Img_4327 東松照明は日本の代表的写真家。「11時02分 NAGASAKI」は昭和41年8月1日に発行された。彼の最初の写真集。あまりにも有名だから説明は不要だろう。

Img_4328 その後、1995年6月に新潮社から、普及改訂版というべき、「長崎<11:02>1945年8月9日」(2000円)が出た。こちらは現行に近いので、知っている人、持っている人は少なくないだろう。新しく収められた写真も多い。腰巻きには<戦後写真史の金字塔 被爆地・長崎を重層的にとらえた傑作写真集を新編集復刻!!>とある。

子供のころ、土門拳の「ヒロシマ」とか「筑豊のこどもたち」があった。すぐに捨てられてどっかにいってしまった。残念。

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2009年8月 4日 (火)

F・ベアトその1

日本の写真黎明期の巨人ベアト。わたくしには幕末の写真というだけで価値があるのだが、現在から普通に見ても優れた写真、立派な写真が多いと思う。だがしかし、ベアトは日本の写真の歴史のスタートからすると遅れて日本にやってきた写真家である。すでに、外国からやってきた写真師と少数の日本人のパイオニア写真師が活躍していた。それでも当時の日本の写真界では、ベアトが芸術的センスや技術において他に優越していたというのが定評だろう。日本にやってくるまでの経緯は、その筋ではよく知られているので省略。

Img_4325 ベアトの写真集では横浜開港資料館による編集で明石書店が刊行した三部作がある。最初に1987年12月に出た、「幕末日本の風景と人びと フェリックス・ベアト写真集」(本体4000円+税)。これはハードカバー本。そしてその後、2006年7月、同じ内容に一部加筆訂正した新装版「F・ベアト写真集1」(2800円+税)を出版。軽装復刻版に近い。これに数ヶ月先立つ2006年4月に写真集1とは重複しない写真を収録し、その後に判明した研究成果解説のある「F・ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」が刊行されている。出版の順番が前後していて、2が先に出て1が出たわけだ。最初の87年版を持っていたが、新しいベアト写真集1と2を購入した。ベアトは、有無を言わせないだけの価値がある。ベアトのセンスによって日本の美しい原風景の最後の姿と、その時代の幕末明治の日本人が切り取られ、見事に静止して生きているからだ。これから西洋文明が浸透して、消化していかなければならなくなる時代だ。

Img_4326 Img_4327

ベアトの略歴を新装版カバー裏の紹介文から引用する。

<イギリス領コルフ島(イオニア海の島、現在はギリシャ領)の出身。報道写真家としてクリミア戦争、インド大反乱(いわゆるセポイの乱)、中国のアロー合戦争等を取材し、文久3年(1863)春に来日した。横浜を拠点に幕末明治の数年間、精力的に各地の風景や日本人の風俗・習慣を撮影するとともに、元治元年(1864)下関戦争に従軍、芸術性豊かな風景写真や彩色を施した風俗写真を生み出し、日本に於ける写真表現の源流を形成した。明治17年(1884)離日。晩年はビルマ(現在のミャンマー)で写真館や骨董店を経営していたが、没年は不明。>

ベアトのアルバムと個別写真を多数所蔵する横浜開港資料館の斉藤多喜夫がベアト研究では第一人者。ベアトは横浜で活躍し、いわゆる横浜写真の源流であるからだ。この人による87年版と06年版の解説がほとんど唯一の定番となっていると思われる。生年は1834年と判明して旧説と9年の違いが明らかになったそうだ。イギリス領となっていた元ベネツィア領民である。イタリア系のイギリス人だ。コルフ島はイタリアから地中海をギリシャに近い位置にある。兄のアントニオ・ベアトは1864年に有名なエジプトのスフィンクスに並ぶサムライを撮影した。幕府第二次遣欧使節団の姿である。兄はエジプトでサムライの写真を撮っていたのだ。当ブログの以前の記事でも触れている。島を出て海外で生きようという心を持った兄弟だ。その時代に発明され普及しだした写真を拠り所というか生きる糧として。この時代を考えても、うらやましい生き方だ。やっと、民間人が、目的があれば世界を移動できるという時代になった。その手段は蒸気機関外輪動力付きの帆船という時代だろう。日本では黒船出現という船の時代。地中海に生まれた人間には古代フェニキアの時代から海外雄飛は珍しくないという精神を持っていたのだろう。つまり海を越えて航海すれば異国に着くのが当たり前。そういう血を持ったベネツィア人だったのだろう。いいねえ。ベアトはイタリアの陽気な性格と社交性を持っていたそうだ。

新しく発明された写真の持つ驚きの能力。世界を旅行し撮影した写真家はその写真の威力を実現し、ニーズに応えた。この時代の世界を旅した写真家は少なくないだろう。欧米先進国には遠い異国、アジア、中東、アフリカの写真にはニーズがあっただろう。ところが、ベアトは30歳から50歳まで日本に居着いてしまった。イタリア人らしい社交的な性格で、テニスとボウリングを趣味とし、横浜山手居留地の建て売り住宅不動産業、横浜グランドホテル開業オーナーの一人。アメリカの朝鮮遠征隊に同行。絹の商売、絨毯の輸入。銀相場で大資産を作り、米相場で失敗。スッカラカンとなった。と新書館の「世界の写真家101」(1997年・本体1800円+税)にベアトが出ていて、大島洋が書いている。銀相場と米相場はよく知られているが、他の経歴はビックリだった。ともかく、ここではベアトは歴史上の名だたる写真家の中に名を連ねている。

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2009年7月 4日 (土)

露出計 光学式

こんな露出計を知っている人。ほとんどいない。日本語でググっても、詳しいのはない。しかし、欧米にはある。日本製の光学露出計がないかと調べたが、わたくしのレベルでは、というべきかわたくしのレベルでもというべきか、見たことも聞いたこともない。どうも生産されていなかったようだ。戦前のカメラ雑誌の広告をすべて調べたわけではないので断言はできない。で、知っている人が少ないから、これを面白いと思う人も少ない。いやほとんどいない。クラシックカメラファンのごくごく一部の人にいらっしゃるかどうか、というレベルである。竹の石鯛竿の竿敏のレベルをはるかに凌ぐ。こちらは神様仏様竿敏様と信奉する方がいらっしゃるかも知れないのだ。

光学式露出計の原理とは。被写体に向けた、段階的濃淡の指標スケールを読み取って明るさを計測するというもの。明るいものは、かなり濃いフィルターを通しても見えるという次第だ。透過する光量の違いを判別する。透過光が見えなくなるのを読み取るのだ。

現行商品、またはそれに近いものとして入手できるのは、ロシアのOPTEKだ。光学露出計でググると使用記がいくつか出る。ロシア光学製品マニアという方は少なくないのだ。

http://cccpcamera.photo-web.cc/RussianCamera/OtherGoods/ROSHUTSU/Optek/Optek.htm

http://cccpcamera.photo-web.cc/RussianCamera/OtherGoods/ROSHUTSU/Optek/OPTEKManual/Optek2.htm

実はEBAYで、初代の入射光露出計ノーウッドを漁っていたら、格安OPTEKがたくさん目に入った。なぜか、気がついたら一番安いのを注文していた、、ああ、あ、、、。だが送料含めて千円、二千円程度。しかし、ロシアからまだ届いていない。以前のコピーコンタックスの経験では一ヶ月以上かかる。

Optek03 あるネットのページにあったOPTEKの写真を一枚勝手に使わせていただく。フィルム感度はロシア規格でGOSTという。これはISOの90%だということを知って感度設定すれば、意外にちゃんと使えるらしいのだ。

次は外国の露出計のコレクションのページ

http://www.jollinger.com/photo/meters/meters/balda_expophot.html

かなり以前にこれを見つけて仰天いたしました。歴史的セレン式露出計も出ております。世界には凄い人がいる。光学式となるとBertramSuper Bewi PrecisionPhoto Utilities (DREM)InstoscopeBaldaExpophotZeiss/IkonDiaphot。他に光学読み取り式色温度計とか、テスト印画紙を使ったもっと古い露出計などもあります。

Watkinsbee Watkins Bee meterという美しい懐中時計スタイル。Diaphotに似ています。

で、ここで問題はですね、、、なぜか、こういう光学式露出計のいくつかが、手元にあるのです。なんと、それは凄いねとおっしゃってくださる方、まさかいらっしゃらないでしょうね。どうしてこういうことになったのか。昔、クラシックカメラに萌えていたとき、ライカメーターと呼ばれていた、バルナック時代の光学露出計を見つけて入手しました。原理を知っていましたので、手に取り、これがそうなのか、なるほどね、ちゃんと濃淡が見える、おもしろいなあと思った。え、普通は思わなだろうってですか。まあ、そうおっしゃらずに、、、。

Img_4327 Super Bewi Precisionは今でも使えます。これが通称ライカメーターと呼ばれた露出計です。1930年発売。この呼称はライツ社と提携関係にあったからのようです。表記はドイツ語。ドイツ国内向けのようです。横っ腹のバレルにBewi-Spezial-Modell fur die Leica-Kameraと記されています。シャイナー感度しかありませんが、どうもアメリカ感度のようで、しかも、コダックSSの修正指標があります。昔は高感度フィルムなんて普通ではないので、最大指標がシャイナー27度で、つまりASA100です。単眼鏡スタイルですが、使用者に合わせてピント調節ができます。

Img_4332 この単眼鏡を覗くと、昔の電話ダイヤルが見える。数字が消えたところギリギリを読み取る。コレクションページのJames Ollingerはバレルのプリントの海にも拘わらず、Drem Instoscopeより使いやすいといっている。同感。まさに細かい文字の海だ。現行の露出計と比較してみました。だいたい合っている。

このシャイナー感度の換算表は次のページにあります。シャイナーの話は後日。

http://homepage3.nifty.com/doggo/exposuremeter/kando.htm

Img_4330 Img_4333 1937年発売のDrem Instoscopeは使えない。換算がうまくいかないのです。最大感度はシャイナーの31度ですが、どうもおかしい。ヨーロッパシャイナーでもアメリカシャイナーでも合わないのです。現在のところ謎です。

Img_4328 Img_4329 次は、1921年から1934年まで販売された、Zeiss/IkonDiaphot。美しい。日本のオークションでもよく出ます。フィルム感度の設定はない。ということは最初から特定感度に設定されている。どうもISOで50くらいと思われる。その感度でのライトバリューの絞りとシャッターの組み合わせが表示されるように単純化されている。ツアイスイコン企業合同の前の時代のイカ社製だったそうだ。イカ社は有名ですから知る人は多いでしょう。

このページを見ると仕組みがよく分かる。

http://www.lungov.com/wagner/c/074c.html

Img_4335 Img_4337 Img_4336 最後は箱入りのJUSTOPHOTというもっと古い光学式露出計。ウイーンが発祥のようで、ドイツはフランクフルト。モデルDと記されていて、シリアルナンバーは266326。26万代だが、そのまま生産量とは限らない。わたくしでも、使用方法がよく分からないのだ。設定クリックには、なんと2m、8sec、1/5 、1/25 。と4種類が出る。どう見ても、2分と8秒と5分の1秒、25分の1秒。なんだこれは。乾板時代か。単眼鏡の中にも同じ表示が濃淡で出る。おもしろいことがひとつ。DREMという名前は知る人は知る。これは、Dr.E.Mayerというウイーンの人から由来している。この人がパテントを取った。

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2009年6月23日 (火)

露出計 セレン式

単独露出計なんて死語となったのは何年前だろうか。写真機に露出計がなかった時代。明るさを勘で読み取って露光量を決定し、カメラにセット。絞りを決定、露光時間を決定。シャッターを切る。勘ではなくて、なんとか明るさを計測できないかという必要性から出発して、露出計算尺があったり、光学式露出計があったり。やっとセレン光電池に辿り着く。戦前の話です。わたくしはこの時代はリアルタイムではない。浅学ながら、その歴史は。

1932年、アメリカのウエストン・エレクトリック社からウエストン・モデル617というのが世界最初のセレンセルによる露出計らしい。以下、萩谷剛という研究家による。その後ドイツゴッセン社からオンブロックス(ライカメーター)として33年に出た。感光スピードはシャイナーである。シャイナーの説明は省略。さらにドイツのメトラワット社、イギリスのメトロヴィック、などが続き、日本では1937年東京芝浦電気のマツダ露出計が出る。これの感光度はNSG(日本写真学会)である。あ、他にドイツはDINね。ドイツ工業規格。最近までワールドワイドで生きていたのを知る人はいらっしゃるでしょう。フィルムにはASA感度表示の他にDIN表示があって、少年時代のわたくしは、なんじゃこれは、と思った。

Img_4322_2 Img_4323_2 写真のウエストンモデル850というのが1938年。感度はウエストンスピードである。

昔、クラシックカメラ店で見つけて、連れて帰った。ウエストンスピードやシャイナー感度では実用性はない。換算ですか。面倒です。

Img_4324_2 Img_4325_2 もうひとつ、アメリカのGMラバラトリー社のスキャンスタンダード。1950年ころ。ASAスピードになった時代。

Img_4327_3 Img_4326_2 Img_4328_2 Img_4329_2 1945年世界標準となった反射光式のウエストンマスターⅡ。入射光式ではノーウッドディレクター。この両露出計は超ロングセラーで絶対定番であり、知らない人はいないほどだろう。十分に実用になる。ウエストンマスターⅡはさすがに後継機種の方が使いやすい。どちらもセコニックが製造権を得て後継機種が生産されている。

Img_4333_2 ウエストンマスターⅡの後継機種で、セコニックマスター。ライセンス生産と刻印されている。Img_4334_2

ディレクターはセコニックスタジオデラックスという名前になった。この後の機種から現行機種まである定番。ひとつだけというと、スタジオデラックス。正確に適正露光が得られるし、味がある。

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2009年5月11日 (月)

大山講と紅顔の少年、半世紀前

大山講で検索するとあきれるほど出てくる。詳しいのは

http://www.higan.net/blog/edo/2008/06/post_73.html

わたくしは、大山講の体験者として、最後の世代として、現代では貴重かもね。もう少し上の世代の人たちの中では、それほど珍しくないだろうが。実はいつも見ているブログの「気になる下落合」にわたくしの地元の東京新宿、下落合地区の講中の話が出てきた。

これがそのブログのページ。その探索は貴重であり、読んでたいへんおもしろかった。

「富士山は先達いなくちゃ登れない」

http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-05-05

ありゃありゃ、そのうちにボルシーB2というカメラの話を書くときに、この写真と場所は、これこれしかじかと、軽く触れようと思っていた。

Img_4315

「半世紀前にボルシーB2を使う中学生」こんなタイトルで話になるな、まあまあのネタだと思っていた。これはステレオ写真関連の一連の話題が一段落した後に、クラシックカメラの中で、異端個性派の面白カメラの一連の話題を書こうと思っていた。あっちとび、こっちとびじゃなくてね。あまり古くならないうちに呼応した記事を書かなくちゃと思い直した次第。ボルシーB2については、おっつけて近いうちに書きます。

で、わたくしは小学校の6年か、中学1年か、とにかく、そのあたりで大山参りにいったのだ。概算すると半世紀前のことになる。大山講の有名な落語があるが、江戸時代から庶民のいわゆる物見遊山であり、大人の男の娯楽でもあり、実体は飲む、打つ、買うなのだ。もちろん、飲む、打つ、買うをしない人たちも少なくない。ウチは山に登って、いい空気を吸って、自然の中で気分転換を図るという語源のリクリエーション、気晴らしの娯楽という感じでしたけど。たしかに講中では徹夜で博打を打っている大人がいました。お山なんてそっちのけ。

一緒に行った父親は亡くなり、この大山講の詳しい話は聞けない。写真を見ると、はちまきには麗水講とありますね。袢纏に丸大とありますが、大豆を扱っていたの古くからの業者で名前は記憶にあります。そこが講元でしょう。詳しくは分からない。祖父と父親は何回か大山講に行っていた。御師という人がいて、そこに宿泊しました。たしか、都築道夫の小説の中に御師の檀周りのくだりを読んだことがあります。

http://www.higan.net/blog/edo/2008/09/post_85.html

ここに出ています。大山講の話は何ページもあって、非常に詳しい。半分以上は知っていましたが、そうだったのというのもあった。たいていの人は大山講なんてまったく知らないよね。

15年くらい前に、同じ場所でボルシーB2を持った中年の同じ写真をセルフタイマー撮影しようと思って三脚を持って大山に行った。そうしたら、周囲に厳重な柵が作られていて、同じところには座れなかった。残念。

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2008年7月 6日 (日)

バルナックライカその4

Img_2514 Img_2515 この雑誌を見て、最初の数秒間はレレレ、なんだこれは、、、状態になる。横書きで右から左にライカと書いてあるのだ。現在ではこんなの見慣れていないから奇異そのものだろう。1935年、昭和10年の1月号。アルスの発行で定価60銭。堀江宏主幹とある。ライカの第一人者だったそうだ。これはかなり以前に神田の源喜堂に写真集を探しに行った時、ついでに求めた古雑誌。20年くらい前かな。神田の源喜堂はその筋では一番の有名店です。アルスは写真専門の出版社として知られていましたね。

中身はなかなか面白い。堀江宏の記事で、ライカの特質、という小文がある。ライカの優秀さを無理やり論じている。ライカ、コンタックス論争の発端になったものだろう。しかしながら、ライカファンのワタクシが読んでも、アバタもエクボの羅列といわざるを得ない。まったくもう、眼鏡が曇っている。これではコンタックス一派が怒るはずだ。そのくらい酷い。論点は、1ブリキ製、2後壁取外し不可、3一枚撮り、4巻き戻し装置、5レンズ交換方式、6横走りシャッター、7ゴム布シャッター、8千分の一シャッター、9ライカシャッターの特長、10速度調節が廻ること、などなど、だいたいが強弁と擁護である。もしも、ご要望があれば、いつか書きましょう。

Img_2520 これに対して、佐和九郎が論争を仕掛けることになるのだが、面倒なので省略。書籍広告で佐和九郎と堀江宏が対向で出ている。アルスの大広告主であったカールツアイスからクレームが出て、月刊ライカという誌名を廃止せざるを得なくなったというオマケがついている。

Img_2518 Img_2519 佐和九郎と聞いて、佐和式露出計算尺が出てきた人。あなたは立派だけど、ちょっと危ない人です。え、持っているっていう人いましたか。脱帽です。でも、少し心配な御仁です。ワタクシですか、持っておりません。ヤフーオークションに出ていたのを見つけました。欲しいなと思いましたが、踏みとどまりました。以前の記事に書いた関式サロン露出盤は亡父の遺品として持っておりますが。

記事では、パウル・ヴォルフのライカ写真術講和、という小文がある。この人は有名ですね。訳が大田蕾花。こういう名前の人がいたということは聞いたことがあるでしょう。いわゆるライカ本で何回かこの名前を見ておりました。オスカーバルナックの生い立ちとライカ誕生の経緯は、ここにしか書かれていない貴重な情報が少なくない。

記事の中で、堀江宏の、ライカを買った話、には昭和2年4月15日にライカA型を買ったとある。ライカ7年に数ヶ月足りないと書いている。特別割引で206円75銭。番号2357で3型に改造して愛用しているとある。おお、ワタクシのは2409ですが、、、そうでしたか、、うーむ、、、と堀江さんにうなずいたのである。

Img_2512 広告ですが。表紙裏の表2とその対抗が浅沼商会のスーパーネッテルとコダックのレチナ。どちらもいいですね。スーパーネッテルはテッサー3.5付で435円。レチナは195円。スーパーネッテルは亡父が持っていた。コンタックスよりも一番美しいといっていた。ワタクシもフィルム5本くらい撮影したことがある。残念ながらシャッターが壊れた。現在は行方不明。このレチナは使ったことがないが、レチナⅡAならばワタクシが安いのを買って使っていたことがある。コンテッサと甲乙つけ難いほど好きだった。これもシャッターが壊れた。

Img_2522 紙面と掲載写真は時代の臭いがフンプンとしていておもしろい。

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2008年6月16日 (月)

バルナックライカその3

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1950年、ライカⅢf発売。シリアル525001から生産。ブラックシンクロと呼ばれる。今回のⅢfはシリアル77万台である。レッドシンクロのセルフ付と呼ばれ、1954年685001から生産が始まって、1957年837720で生産中止された。なお、M3型は1954年だから同年に生産開始である。並行して生産された。

Imgp5159_2 このⅢfには以前の機種にはなかった閃光電球発光の同調装置が組み込まれた。ブラックシンクロからレッドシンクロという改良変遷の歴史がある。シャッター幕が動き始めて電気信号を出す装置。閃光電球ってフラッシュですね。現在では現物を知っている人はお年寄りだけでしょう。はい知っていますが、何か。で、使用経験のある人はもっとお年寄り。僅かな期間ですけど、たまには使った経験ありましたけど。何か。フラッシュガンといって、独特な傘を開いて、中央に電球をセットする。ところで、中学の時、同じクラスの写真屋の息子がコニカⅢにフラッシュでバシバシ撮影していた。遠足とか修学旅行。どれも素晴らしくシャープに撮れていた。写真を見て、うーん凄いと思った。だいたい、子供というか少年が、その時代の高級カメラのコニカⅢを使うか。それがガンガン使いこなしていた。その当時、自分のカメラではコントラストが悪くて、眠いボケ写真しか撮れなかった。さらに手振れがつきまとう。その頃、ワタクシのカメラはアメリカのボルシーB2だったかな。どうしてもビックリシャッターになってしまう。そういうレリーズ機構なんです。なつかしい。あー、書くとドンドン横道に入ってしまう。ボルシーB2を使う中学生。アメリカの小さなユニークな普及カメラです。うへーーと声を出した方。分かっていらっしゃいますね。しかし、かなり泥沼に浸かっている方です。知っている方は少ないでしょう。昭和30年代中ごろ。やっと戦後が終わったころ。アメリカ工業がまだ輝いていた時代。リアリストと並んでヘンテコなカメラかも。質感は似ています。ボルシーB2についてはそのうちに。

ところで、佐貫亦男に飛びます。この人は明治41年、1908年生まれのヒコーキの専門家だった人。1997年逝去。昭和6年東大工学部航空学科を出ている。プロペラ設計の専門家。知る人は知る。ワタクシも何冊か読んでいます。バルナックライカのファンで、「ドイツ道具の旅」という本に「ライカに対する愛着の根源は、そのボディーの握りやすさ、あるいは保持しやすさにあると信じる」と批評している。

また「ライカは、私の眼であり、手である」とは「ドイツカメラの本」の裏表紙の言葉。この本では「ライカは文化で、そしてドイツである」と書いている。

この人はライカM型を評価していない。ただでくれるといっても使いたくないカメラとまで書いている。M型は大きく、重く、旧ライカの美点はほとんど捨てたとまで極論している。読んで驚いた。でも、まあ、ワタクシも同感だ。M型嫌いのバルナック党派の代表であろう。

なぜ。佐貫はライツ社の大局観の判断錯誤を強烈に指摘している。戦術の失敗ではなく、戦略がダメだった。より重い失態。「旧ライカの伝統と名声を守りたかった」「レフレックスカメラが今後の主流と判断しなかった」なぜ思い違いをするかというと、あくまでも自己の立場で物を見るからである。と書いている。ドイツの民族性まで及んでいく。さらに、「ドイツ民族は哲学に長けているが、これなどは人間に対する洞察がないためかも知れない。多くの人間は、高級な哲学がなくても生きていける事実を知らないから哲学に打ち込めるのであろう」さらに、「ドイツ道具の旅」あとがきにはこう書いている。「大きい戦略をもつイギリス人は、細かい道具にこだわるドイツ人をやや軽蔑の心で見る」「道具に目の高い(だだし、道楽用と戦争用に限って)イギリス人がライカを尊重することを注意する必要がある。彼らに評価されてこそ道具はほんものだ」と書いている。なるほどね。ワタクシがつたない批評を書く余地はない。しかし、ともあれ、バルナックライカは美しい道具である。さらに35ミリカメラを切り開いた伝統と名声がある。

Imgp5158_2 レンズは沈胴のズミクロン50ミリF2で、名声の高いレンズである。1953年発売。ズミクロンの優秀さは当時いやというほど聞かされたはずである。神話となっている。ズミクロンにも放射能レンズがあるがウチのは残念ながら放射能はない。ズミクロンの前のライツの主力レンズはズミタール。戦前の1939年に発売。比較するとズミクロンは短くなっていることが分かる。

Imgp5155_2 距離計窓に付いている黄色のアタッチメントは二重像合致を見やすくするためのもので、追加アクセサリーとして生産されていたもの。ワタクシでも講釈を書き始めるとキリがないのでやめる。ライカはあらゆることが過去に無数の専門家や重症のマニアによって書きつくされている。つたないワタクシが書く余地なんて実はないのだ。マニアはすでにご存知であり、門外漢にとっては外国語を聞いているようであろう。シロートの視線から門外漢に魅力の一端を伝えることを考えているが難しい。

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2008年1月15日 (火)

バルナックライカその2

Img_2072 1932年2月、ライカⅡ型発売。連動距離計が付いたモデル。その翌年にはスローシャッターの付いたⅢ型が発表されている。その1に紹介したシリアル2409のライカはこのⅢ型にメーカー純正改造されている。こちらのライカⅡ型はシリアルナンバー192847である。Ⅱ型の生産期間は1932年から1948年までと長い。第二次世界大戦後も生産された。他の機種と平行して生産されている。このシリアルナンバーであると1935年から1936年にかけて生産されているはずである。ライカのシリアルナンバーの研究書がいくつかあるほどである。そういうマニアのレベルは小生より3段階くらい上のクラスであるから、よく分からないし、あまり近寄らないことにしている。研究も進んでいるから、実は少し違うことが分かったとかいう話は当然に発生するだろう。そういう人たちはいくらでもひしめいている。日本もそうなのだが、アメリカ、イギリス、ドイツには一山いくらで存在するだろう。

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その1のⅢA型と見比べると、ライカのロゴマークと刻印が多少違っている。国を示すD.R.Pの位置である。ライカのすぐ下にあるタイプよりも、一番下にあるタイプが古いようである。

レンズはその1で書いたようにこのⅡ型はショットエルマーであり、いわゆる新エルマーである。レンズの製造ナンバーは278643である。旧エルマーには製造番号はない。レンズの裏面の写真を見ると、無限遠ストップレバーの裏に鏡胴ナンバーが刻印されている。ゲルツエルマーは1であったが、この新エルマーは7となっている。厳密な焦点距離の違いによって、レンズを収める鏡胴が0から7まである。ショートエルマーは0から3までだそうだ。

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Ⅱ型はネックストラップ用のアイレットと呼ばれるリンクがない。カメラの両肩にある小穴の突起である。これにストラップを装着する。カメラに直接ストラップが付けられないので、写真のように革ケースに入れて首に吊り下げるのが普通だ。速写革ケースと呼ばれるものだが、上ふた部分を切り落として使っている。バルナックライカは現代においても、カメラの品格は十分にあるし、ちゃんと実用になる。露出計できちんと測れば、見事な撮影ができる。後日、そういう露出計を書くつもりだが、スタジオマスターあたりが良い。そういう撮影はImg_2071 紳士のお散歩のお供には丁度良い。

このⅡ型はシンクロ改造している。アクセサリーシューのすぐ下にシンクロ接点が出ている。一見して分かる通り、純正改造ではない。しかし、普通に実用にはなる。亡父はレンズやカメラを何回かシュミットに出していたのだが、純正シンクロ改造はしていない。シュミット健在の時にこのⅡ型をシンクロ改造しておいてくれたら、、、と思わないでもないが、ⅢF型を併用していたのだから、それほど純正シンクロ改造の必要性も価値観も感じなかったのであろう。

小生が旧エルマー付のシリアル2409のライカを入手した時にはシュミットも純正改造もなくなっていた時代である。ないものねだりだが、シンクロ改造と思わないでもない。純正シンクロ改造は3F型のシンクロにシャッターダイアルを含めて改造するものである。

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その1で少し言及した中川和夫のライカの歴史には、A型より改装したⅢA型Syn(第205図)という写真がある。シリアルナンバーはなんと206である。レンズは沈胴のズミクロンが付いている。同じズミクロンは持っているのでこの組み合わせはできる。ただ、シンクロのシャッターダイアルがこの写真とは違う。このカメラは改造前のレンズ固定式の時代には間違いなく伝説のレンズであるエルマックスが付いていたはずである。レンズ交換式に改造されたエルマックスを現物はおろか写真でも見たことがないのだが、エルマーの鏡胴に入れられているものなのかどうか、マニアの方で知っている方がいらっしゃったら教えて欲しい。

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2008年1月 1日 (火)

使っているデジカメ

竹竿関連の話題は私的には怒涛にように書いたが、反応がほとんどないので、散発的な展開にいたします。

磯釣りに関しては、リンクの最後にある、小生の所属する潮風会のホームページに若干ありますので、ほとんど書かなかった。釣果情報や、釣技術の情報を求めて来ても無駄です。探せば、そういうのはネットの他のところによくありますので。で、手持ちの竹竿を引っ張り出して撮影してコメントを書くのが面倒になった。もっとも、もうすでに、たいしたものはそれほど残っていません。リールはまだまだあるけど、これも面倒。反応もありませんし。

Imgp4944a ところで、初詣に持っていった初代IXY。小さい、シンプル、デザインが気に入っている。よく写る。しかし、キヤノンだ。キヤノンは大嫌いになった。労働者に対する経営姿勢がよくない。許せないほどだ。とくに派遣労働者を叩いて、叩いて、安く使って、使い捨てる。それほどまでして経営効率を求めた結果、競争に打ち勝ち、あれだけの内容になった。たしか偽装請負が発覚して問題になったのは記憶に新しい。日本を代表する優良企業ではあるだろう。キャノンは以後使わないと心に決めた。でも初代IXYは良い。高性能コンパクトデジカメの走りかな。初代は光学ズームなしのワイドレンズ。新設計で評判の良かったレンズだ。ツァイスイコンの歴史というような本が複数あって、読むとツァイスの企業姿勢は立派であった、尊敬に値する。いやでも比較してしまうよ。ニコンの方が多少はマシなのかな。

タバコとの比較写真。IXYは小さいね。カメラの選択基準は私的にはバルナックライカの流れで、まず第一に小さくてスマートなこと。

デジカメ一眼はペンタックスのistDを使っている。発売当時は満足していた。それほどイレ込まないアマチュアにはちょうどいいだろうと思った。でも、新製品が各社いろいろ出たからね。600万画素で十分と思っていたのが、今では1000万以上が主流。コンパクトデジカメでも1000万超えている。でも結局はレンズ性能だという考えもあるし。標準ズームと28-70の2.8ズームを使っている。2.8ズームを付けるとカメラが小さくてレンズが大きいね。Img_2002 Img_2003

Img_1999 Img_2001 ペンタックスは、だいたいいつでも他社より小さいのがいいね。高校の時にはSVを使っていた。それからSPが長くて、バヨネットマウントのKMになったら大柄になったので、オリンパスのOMシステムに浮気した。それでもペンタックスのMEスーパーが小さくて併用したかな。この前後は怒涛のようにクラカメに走ったり、ステレオカメラとフォクトレンデルでないと夜が明けなかっこともある。現在進行形でもある。オートフォーカス時代はニコン一眼に移行。デジカメ一眼はペンタックスM42マウントとKマウントのレンズを結構持っているのでペンタックスに戻ったのだが、Aレンズ以後でないと使えない。知らなかった。認識不足。

Img_2004 Imgp4946a

もうひとつはIXYの前に使っていた330万画素。レンズが2.8あって、そのせいか写りが良かった。比較するとぼっこりと大きく感じる。

家にあったのだけど、土門拳の筑豊の子どもたちとか、何冊かのそういう写真集を小学校のころよく見つめていた。値段を安くするため、ザラ紙に印刷していた。あの感触は覚えている。20歳前は東松照明に傾倒した。写真機より、何をどう撮るかが写真だろうと思った。以後、遍歴は長すぎて、複雑でもあり、とても無理。

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2007年12月24日 (月)

バルナックライカその1

しばらく更新をさぼっておりました。いや、ちょっとなまけというか、おっくうになっていて。カウンターを付けているのでアクセスの累積は分かります。一万を超えた。毎日30人近い人が来て、何ページも見ている。私が知っている人は僅かだが、見に来てくれる知らない人がたくさんいらっしゃることだけは分かる。固定客もいらっしゃることは分かる。しかし、ほとんど反応がないので、なんだか虚空に消えているだけじゃないかと思いがちだ。ボランティアとは少し違うが、無償の行為ではある。でも気まぐれの行為でもあり、自己満足の世界かも知れないな。

で、ともあれ、ガラリと変えた分野を織り交ぜます。

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バルナックライカ。歴史上の傑作。このライカはシリアルナンバー2409番で、レンズ交換不可のいわゆるA型ボディーをライツ社でDⅢ型に純正改造したものである。当然レンズはレンズ交換式に改造した旧エルマーである。どこにでもあるというものではない。欲しいと念じていても手に入るものでもない。一期一会の世界だ。これの入手が露見した時、トラブルがあった。隠れて何たる背信行為、隠したことがよくない、離婚だといわれた。子どもも小さかった。余裕などあるはずがない。生活は不安定である。なんというプロレタリアートだろうか。まことに申し訳ない。以後、いやそれ以前から謝りっぱなしである。竹の石鯛銘竿入手でも何回も繰り返すことになる。

Img_1984a Img_1985a 実は亡父はクラカメファンであった。バルナックライカではDⅡとⅢFを持っていた。形見の遺品として大切にしている。ほとんど同じだからブラックが1台増えたにすぎない。同時に2台を見なければ分からないはずだが。1台か2台か。やはり何かの時に分かるよね。いや、使途不明金が発覚したのだったかな。

マニアの世界になるが、旧エルマーは歴史上の銘レンズである。ゲルツエルマーと呼ばれる。ゲルツエルマー付はシリアル1300番前後からそれまでのエルマックス付から交代した。エルマックス付A型は発売の1925年に1000番まで製造された。旧エルマー付A型は1926年春から製造されている。1926年生産分は2445番までである。旧エルマーは約1万台くらい作られたといわれる。以後はショットエルマーである。これは新エルマーと呼ばれる。新といっても古いニッケルエルマーである。亡父のDⅡにはショットエルマーが付いている。あー、これはすべて中川一夫氏のライカの歴史からの受け売りですから念のため。

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旧エルマーの焦点距離は49.5ミリで新エルマーの51.6ミリより短い。ショートエルマーとも呼ばれる。並べてみると違いが分かる程度。当時、新エルマーに交代してライカ愛好者の間では大変惜しまれたという記録があるそうだ。非常に良い神話的なレンズであった。1959年の赤エルマーと比較して遜色がないというテストがある。しかし、新エルマーが悪いわけではない。レンズが悪ければライカがライカたり得たはずがない。

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